山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/09/10(金)08:44

『福寿堂年録』 「柳澤吉里公用日記」

柳沢吉保 山梨北杜資料室(59)

『福寿堂年録』 「吉里公用日記」 引用資料『物語藩誌5』人物往来社 児玉幸多氏 北島正元氏編 昭和40年刊一部加筆甲斐から郡山へ お国替え 享保八年、本多家断絶となり、しばらく丹波篠山城主松平紀伊守が郡山城を預かった。翌九年、甲斐国守柳沢富里が郡山城に封ぜられた。『福寿堂年録』とは吉里の雅号に因む藩の公用日記で、柳沢家郡山入部当初の出来事を伝えている。柳沢家は甲州武田家武川(ぶせん?)衆の出であるが、主家没落の後、微禄ではあるが徳川氏に仕えた。吉保は将軍綱吉の知遇を得て被格の昇進をし、幕府の権臣として勢力を振ったことは有名である。甲斐国は「一門之歴々」しか封ぜられなかったところで、それを将軍家一門に準じ、十五万千二百余石を与えられた。重恩に感激した吉保は「将軍家に二心をいだく者はわが子孫にして子孫にあらず」とまで遣命しているほどで、ここに立藩の精神をうかがうことが出来る。この吉保の子が吉里である。 享保九年(一七一八)三月一一日、吉里は郡山へ国替えを命ぜられ、「京都に近い所であるから念を入れよ」との将軍の言葉であった。南都火消や京都火消の大役は郡山城主の附帯役目になっていたためである。甲府は大騒ぎ国替えの命が一度伝わると甲府城下は大変な騒ぎとなり、諸士は皆家財道具を売り払っていくので、所々に市がたつほどであった。それに関所を通るのに「出女・入鉄砲の禁」があって女子を全員郡山に連れてゆくことは許されないというなやみがあった。二人の場合、一人の女は是非江戸に引き取らなければならない。総数五千数百人の大移転であり、封建時代のわずらわしいまでの規律・儀礼があってその準備に相当の日時を要した。 閏四月九日、甲府城引渡一件の準備は家老鈴木大蔵・川口石見が、郡山城請取りは家老柳沢権太夫・柳沢筑前がそれぞれ命ぜられた。初め五月初旬を期し、双方同時に行なう手筈であったが、農繁期のため、道中の人馬差出しに支障があり、延期となった。 甲州から郡山へ引っ越す家中は、五月七日から四班に分れて出発、束海道(十一泊乃至十二泊)あるいは中仙道(十泊乃至十一泊)を経て郡山に急ぎ、六月朔日までに着揃いの手筈となっていた。道中総人数五千二百八十六人(内男四千三十四人、女千二百五十二人)、率馬八十三疋の大部隊で、両家老のいでたちは善美をつくし、四、五万石の格式をそなえた立派なものであった。 郡山城請取の儀は六月七日、松平紀伊守と柳沢権太夫との間で行なわれた。藩政に関する諸帳面や絵図面など一切の請取りが行なわれるのである。同様、甲府城の引き渡しの儀は六月十一日、鈴木大蔵から松平豊後守(遠州浜松城主)に渡された。役目をはたした鈴木以下引き渡しの役人は、甲府をあとに、三々五々、鰍沢から富士川を船で下り、蒲原に出て束海道を上るもの、また中山道を越すものとの二班に分れている。 次は藩主自身の入部である。十五万石の大名がはじめてお国入りするとあって大変なものである。八月一日、柳沢甲斐守書里は江戸の藩邸をものものしい大名行列の威儀を正して出発、附き随う総人数千百二十九人。しかしそのうち三分の一は威儀を添えるための貸人足で、周旋業者から臨時に雇ったもので、品川までくるとこれら人足を帰し、あとは家中の戦時編成の体形で束海道を上る。途中の宿割・船割がとかく争いの種となっている。一行は一三日午後、無事、郡山に到着、多数の出迎えをうけ堂々と郡山城に入った。大名の国替えは大変なもので、藩主以下家中ならびにその家族はもちろん、御用商人もお寺までも引き移った。吉保を葬った甲府の竜華山永慶寺も直ちにうちこわし、大和に移すとともに、墓は武田信玄を葬った恵林寺に改葬している。 思えば元和以後、郡山蒲は水野・松平・本多・松平・本多と六家の交代があった。いずれも譜代大名であるが、短期間のことで通算して百年余りにしかならない。ところが柳沢氏が入部して郡山蒲も安定し、明治維新に及ぶ百四十七年間を占め、実に郡山薄史の三分の二に当る結果となっている。 柳沢氏の郡山入部当時、家中屋敷も不足して、新木村をはじめ近在の民家にしばらく分宿している。これは郡山藩がさきの本多氏の時代に五万石に縮少され、規模がすべて小さくなっていたためである。いまや郡山では家中屋敷の増築も行なわれるし、城下もすべて十五万石にふさわしい体裁をとりはじめた。内町二十七町(地子免許)、外町十三町(年貴地)、家数三千六百五十六軒、人数一万三千二百五十八人を擁する城下町に発展してきた。寺三十三カ所、医師五十九人、造酒屋三十八軒、諸職人四百二十二人、商売人二千七百九十四人(『町鑑』)というから、商工業の栄えた豊かな城下町の性格をうかがうことができる。柳里恭 歴代藩主に学問・芸術にすぐれた人が多く、藩祖吉保は学問に傾倒した将軍綱吉の一の弟子である。それほど学識・教養が深く、今古伝授も許され、禅に対する修業も深かった。当代一流の学者荻生徂徠・細井広沢なども吉保に抱えられていたので、その家中に影響するところが大きかった。二代吉里も歌道に通じ、『積玉集』、『潤玉集』など自撰のものがあり、その趣味も驚くほど広い。三代信鴻(のぶとき)にも『新編拾草集』、『同追加集』の吟詠集がある。四代保光は堯山候名で茶人仲間に広く知られた風流殿様で、和歌は日野資枝に学び、『堯山公和歌集』二巻を遺してしている。また米徳の俳号で俳人としても和私であった。このように柳沢家郷山藩の時代は歴代藩主の学問・文芸・芸術に対する理解が単なる殿様芸ではなかった。その結果は家中にもその風尚がみなぎることになり、藩士のうちにも多くの学者・文人・芸術家がいたが、その代表者として語るべき人に柳里恭がある。『時人伝』によって柳里恭の名は広く知られている。柳沢家の筆頭家老柳沢権太夫(本姓は曾禰)の二男で、若い時から何をやってもすぐひとかどのものになるという天才肌で、おそろしく早熟でもあった。爛熟した元禄文化を満喫した高級武家社会の御曹子というところである。多くは大江戸のうちに暮らした彼は十五歳で『文宝雑話』、ついで『音標夜話』、二十表で有名な『ひとりね』を著している。このころ里恭ははじめて郡山に入ったのである。『ひとりね』は彼の学問・芸術、さらに人情に対する理解と興味の深さを示している。 しかし二十五歳の時、「不行跡」ということで知行二千石を没収、柳沢の苗字まで停止されたこともある。『略人伝』に残るゆえんでもあった。 里恭は博学多芸、和漢の学は谷口元淡を師とし、俳諧は水間沾徳、書は京都大通寺の南谷和尚、天文暦数は杉村長郡に、易学はその弟に学んでいる。篆刻も上手で、音楽は琴・鼓弓も出来る。武術は弓馬・刀槍をかねている。その他、製薬・製陶にまで通じている。とにかくおそろしくいろいろな技に精通し、人の師たるに足るもの十六芸に及んだというから、たいした人であった。なかでも絵画にもっとも長じている。自伝によると八、九歳のころから花鳥を描くことが好きであった。十二歳の当時、狩野派の絵が皮膚ばかり描き、骨髄を得ていないことを深く悟り、長崎の英元章について学んでいる。里恭の画風が主体を長崎伝による新様式であるといわれるゆえんである。花鳥が好きで自然と写実主義となる。そのためこれまでの土佐・狩野両派で使っている絵具では趣好に合わない。 里恭はこの絵具の改良革新に非常な苦心を払っている。とくに中国の顔料を研究し、他方では天産物で絵具の材料になりそうなものを求め、種々の試験に不断の努力を払っている。したがって画壇に占める里恭の位置はまことに高い。日本南画の始祖といわれる池野大雅は十六歳の時から里恭の指導をうけているし、またさまざまな面倒を見てもらっていた。それで里恭は大雅や祀園南海とともに、文人画の開拓者としての地位を高く評価されているのである。

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