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2021/09/17(金)22:28

日本で始めての女性天皇 第三十三代 推古天皇

皇室・天皇御資料(3)

日本で始めての女性天皇 第三十三代 推古天皇   『歴代天皇 年号事典』米田雄介氏著  2003刊 吉川弘文館 生歿 五五四~六二八(七五歳)在位 五九二~六二八(三七年) 和風諱号(ワフウシゴウ)は豊御食炊屋姫尊(トヨミケカシキヤヒメノミコト)。諱(イミナ)は額田部(ヌカタベ)欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の娘堅塩媛(キタシヒメ)。用明天皇の同母妹。崇峻(スシュン)天皇の異母姉。五五四年生まれる。七一年皇太子(敏達(びたつ)天皇)妃となり、七六年、前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられた。時に二十三歳。 八五年、三十二歳で敏速と死別し、その二年後には兄、用明天皇が没し、九二年崇峻天皇暗殺の後、叔父蘇我馬子らに推され、女性としてはじめて皇位に登った。天皇はその諱から知られるように元来、額田郡の民を伝領したが、立后の翌年に設けられた私邸をも支配するに及んで、その経済力は皇族の中でも擢んでたものとなった。崇峻天皇没時は三十九歳という分別盛りで、加えて叔父馬子とも親密であった。これらの要因が最初の女帝を生んだ背景であろう。  『日本書紀』によれば九三年、甥の厩戸皇子(ウマヤドノオウジ 聖徳太子)を皇太子に立てたとあるが、即位当初は長男竹田皇子と厩戸皇子との選択に迷って皇太子を立てず、六〇〇年ごろ竹田が没してはじめて厩戸を太子に立てて万機を委ねたとも推測される。在位中、冠位十二階の制定、十七条憲法の製作、遣隋使の派遣、『天皇記』『国記』の製作などのことがあったが、その間、宮司制の整備・壬生部の設定にみられる、皇室経済の基盤整備など政治・経済両面にわたる改革が推進された。六二二年聖徳太子の没後は蘇我氏への対応に苦慮したが、六二八年三月七日、皇嗣を定めぬまま七十五歳で世を去った(月日は『日本書紀』による)。推古朝は法隆寺に象徴される飛鳥文化の最盛期であった。 (黛 弘道氏著) 〔磯長山田陵〕(しながのやまだのみささぎ)  大阪府南河内郡太子町大字山田にある。竹田皇子との合葬陵。『日本書紀』は遺詔により推古天皇を竹田皇子の陵に葬るとのみ記し、陵名を記さず、『古事記』は、御陵は大野岡上にあり、のちに科長大陵に遷すと記す。『延喜式』諸院寮には、現陵名で「在二河内国石川郡一ノ兆域東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」と記し遠陵に入れる。『扶桑略記』康平三年(一〇六〇)六月二日条に、「河内国司、言四上盗人撥三推古天皇山陵二之由上とあり、盗掘を受けた最初の陵である。当院は江戸時代まで所伝があり、元禄の諸陵探索時に堺奉行は現陵の存在を報告している。墳丘は高さ約十一mほどの台地の端に位置し、南面する三段段築の方墳である。東西約六〇m、南北約五五m、高さ約一一m、東北隅が削られている。墳丘東側と前面には、幅八、九mの空堀があり、昭和五十四年(一八七九)の陵前境界線石垣設置工事区城の調査によると、空堀の堤は後世に水田上に築いたものである。墳丘の内部構造は、『文化山陵図』に「東之方に洞日石有之、下之方透より御石棺相見え申候」とあり、『河内国陵墓図』は「石棺露出の処三尺余、但南方正面なり」と記す。谷森善臣『諸陵説』所引の「田中貞昭の記」には、羨道の前面が崩落し、羨門が開口した折に内に入った実見談として、石室の広さ方一丈五、六尺、上下四方は盤石で畳み、精巧に磨いた石棺二基が左右に列び、右を推古天皇、左を竹田皇子と伝えていた旨を記す。 参考文献上野竹次郎『山陵』上、陵墓調査室「昭和五十四年度陵墓関係調査概要」(『書陵部紀要』三二) 

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