2021/09/23(木)08:23
甲州女 (依田静女) 通信教育一筋に歩んだ 涙と笑いの人生
甲州女 (依田静女)通信教育一筋に歩んだ 涙と笑いの人生 千野活子氏著『文学と歴史』№9 1985 一部加筆 終戦からまだ間もない秋の昼さがり、静女は家の近くにある寺の一室から時おり流れてくる琴の音を聞いた。殺伐とした焼野原の中で、琴を弾くことなど考えられない世相であったが------ 女学生の頃から琴の音に親しんできた静女の心は、激しくかきたてられ、身体中に押え切れない熱い血が流れた。 東京から疎開してきていたという若い盲目の師匠のもとに通いはじめた静女に、間もなくして結婚話がもち上り、望まれて師匠の弟と華燭の典をあげたのは二十五才の秋であった。 依田静女(しずめ) 父、依田君治、母ハルジの長女として、大正十一年七月二〇日東京に生れる。南巨摩郡鰍沢町出身の父親は、旧陸軍士官学校の教官であったが、大正十二年の関東大震災に遭い、一家は甲府へ疎開、静女が一歳の時である。 甲府に来てからも、父は山梨師範学校(現山梨大学)の教官になり数学と物理を教えていたという。 厳しかったけど、ユーモアのある父だったと回想する。何しろ五〇年も前のことなので------と前おきしながら語る静女、 「毎朝早くからたたき起されては掃除をさせられた」ことや、宿題があった時など、「むずかしいか?」と聞かれるので、「むずかしい!」と答えれば、「そうか、だけど一週間考えてみろ、それで解らなかったら教えてやるよ」といった調子で、大概の問題が一週間内には解決されてしまったという。とにかく、「教わるということを考えず自分でやってみろ」というのが父の教育方針であったように思う。 山梨師範学校附属小学校六年、甲府高等女学校本科四年、補習科一年の在学中、数学は得意だったがどちらかといえば苦手な英語は道を歩きながら単語を覚えたりと、小さい頃より人一倍の努力家のようすがうかがえる。 上に兄二人、下に弟二人、この真ん中で一人娘の静女は、好きな琴に熱中し琴爪をはめては「千鳥の曲」「六段の調べ」に優雅に酔いしれていたり、弓道、ピアノも習ったりと、文字通り----蝶よ花よ----でこわいものもなく、大事に、大事に育てられたのであった。 四人の兄弟のうち、三男の依田司が名古屋で著述業をしている他は、全員が高校の教員になったという教育ファミリーでもある。 母ハルジも鰍沢という田舎町出身であるが、日常生活の中で方言を一切使わないという厳しい人であった。こうした環境の中で育った静女は昭和十六年から小学校の教師になり、退職して結婚したものの、四角四面の新婚生活は思いの外、早く破局をむかえてしまった。 例えば、毎月主人が給料袋を持ってくると、ひざまずいて「ありがとうございました」。週末がくると、きちんと記入された家計簿をもって主人の前に正座して、ことこまかに報告するというまったくソツのない完璧な女房であったらしい。 翌年に長男「調(しらべ)」誕生。静女がこよなく愛した「六段の調」から命名したものであるという。 夫、深沢は進駐軍関係の技師をしていたので、終戦とともに職場が解散になると、酒に溺れ、殴る蹴ると言う乱行が続いた。 男も女もそうであるが、特に男は失意の時には心を許して甘え、ときには女房の胸でワーワー泣きたい時もあるだろう。「職をさがしてくる」といって上京した夫は二度と再び静女の前には姿を表わさなかった。そして半年後の便りで、生活を共にする意思のないことを伝えてきたのであった。 深沢という名の男をみればみんな「この野郎め」と思った時もあったという静女。 母子家庭となった母と子の二人は飢をしのぐための戦が始まり、度重なる苦労の中から、自分があまりにも可愛い女でなかったことを身体で知るようになり、世間で俗にいう「捨てられた女」であることを知った。 当時、甲府高等学校(現在の甲府第一商業高等学校)の校長をしていた原田忠四郎先生の好意で「常勤講師」になったものの、講師とは名のみ無資格の弱みにつけ、「俺の言うことをきけ、それが嫌だったら首をきるぞ」いやらしくせまってくる者もいたという。 いつの時代にも、性を武器に生きる女もいれば、貞操をかたくななまで守りとおして生きていく女もいるだろう。どちらがいいとか、悪いとかはいい切れないが、静女の場合親子で生きていくことのほかは何も頭になかったという。 このままの状態で仕事を続けるか、通信教育で資格をとるか、暗漁としていた時、何の気なしに応募した懸賞が一等賞に当選し、ピカピカのブラザーミシンが送られてきたのだった。 人生何か気キッカケで運命が変るかわからないものだと思う。先日、山宮のお宅におじやましました折、例のミシンをみせていただいたが、三十数年経た今も現役で働いているというミシンは手造りのカバーの下で、黒光りに輝いてあった。 静女の心は躍りあがった。 「よし、頑張って生きるのだ、大学へ行こう卒業して高校の教員になろう」 二十九歳の春だった。 昭和二十七年、甲府高等学校の図書室に勤務しながら法政大学文学部日本学科(通信教育部)に入学。 一日の仕事が終ると、県立図書館に寄って参考書を借り出して家に帰る。 夕食をすませ、子供を寝かしつけてから本格的な学習時間が始まるのであるが、昼の疲れにテキストを読みはじめるといつの間にか目の前が霞んで活字は見えなくなってしまう。 冷たい水で顔を洗うなどということは少しも効果はなく、メンソレータムを目のまわりに塗るとピリピリと目にしみて瞼の上と下はくっつかない、その間に必死でテキストを読み進めるのであった。 しかし、読んでも、読んでもわからない個所にぶっつかる。そんな時自分の能力の限界をせめ、苦しさにいたたまれずテキストを庭に放り出したことも何度あっただろう。 涙がとめどなく頬を流れていく------ 時には、声を荒げて息子にまであたり散らしてしまうこともあった。 しかし波のように押し寄せる苦しみが去り、心の中には言いようのない虚しさが流れる。 そっと目を閉じ-------放り投げたテキストを拾いあげるとかじりつくように静女は読み続けていくのであった。 厳しい孤独との戦いは己の精神力との戦いでもあった。静女は四年間、一切の娯楽は断とう、貧乏に耐えよう、一分の暇も惜しもう、この三つの信念を貫こうと固い決意のもとで奮い立ったのである。 北は北海道、南は沖繩から集って来た三千人の友は汗と埃とにまみれながら、心の中は学問への情熱が燃えたぎっていた。だが、家で勉強してリポートを出し、夏休みにはスクーリングに参加して、四年目に卒業したのは静女を含めて二〇人。厳しい通信教育での独学に耐えきれず学問の道から消えていった仲問たち------ 「戦いの間に得たものでなければ、花冠に値するものは絶えてない (ゲーテ) 四年間の苦しみを乗り越えた、卒業証書の紙の重みこそ何にも替えがたい至上の宝であったのである。 そして、この栄冠を手にした幸福を通信教育に学ぶ教え子と分かち合って過すようになろうとは、その時の静女は夢にも思っていなかった。ひむがしの 野にかぎろひの立つ見えて かへりみすれば月かたぶきぬ」 (万葉集 柿本人麻呂) 苦しい人生を歩んでいても、いつか必ず幸せがくると信じて生きている静女。 大学の通信教育で勉強して、高校の国語教師になったが在職二十五年のうち十九年が通信制である。 現在のように高等学校全入学のような状況ならともかく、過去においては、どんなに勉強したくても家庭の事情その他で進学を断念せざるを得なかった人々が多かったが、学ぼうという意思さえあれば誰でもいつでも入学できて、どこでも学ぶことができるのが通信教育の特徴であり長所である。 生徒不在の職員たちは、送られてくるリポートを待ち、そして添削をして送り返す。又、日曜日になるとスクーリングに登校してくる生徒たちの相手をする、この二つが通信のおもな仕事であるという。 かつては静女がそうであったように、共に笑い共に悲しみ共に励まし互いに心を温めあったりしながら、いつか知らない間に生徒も先生もみな心の絆が深く結びついていくのであった。 しかしどうしても事情が許さず、学習についていけず一人こぼれ、二人こぼれいつのまにか消えそしてまた新しい顔が現われる。 静女はリポートの余白に励ましのことばを書き、ある時は手紙をだし、けれどそれに答えることもかなわず落ちこぼれていく生徒たち------ 通信教育が孤独な厳しい自分との戦いであることを身をもって知っている静女は、救いあげる手だてもなくどんなにか胸をいためたことか……。 実は、私もおちこぼれ組の一人なのです。 恥を書きますと、六年間慶応義塾大学の通信教育で学んだのですが、卒業証書を手にすることなく挫折。今になり色々の意味で悔いることが多いけど多少なりともその辛さがわかるので、初心を貫き通した人々の強靭な精神力にはただただ敬服するのみである。 二十五年間の教師生活の中でただ一筋に通信教育の道を歩んできた静女であるが、その間には胆石症との闘病生活と教師としての使命の葛藤もあった。 また、お嬢さんで育った静女が世間の波風をうけ、いつしか身についた明るくざっくばらんな人柄が、不幸な身上をもった生徒たちにはどれほど生きる心を与えてくれたことであろう。そして昭和四十一年より十五年間続いた矯正施設の一つである、甲府刑務所での国語学習、月に二回刑務所に出張して現代国語1・2を受け持ったが受刑者のほとんどは、父親はあっても無いに等しい家庭、父親を失って母親の細腕に生活が耐えられなかった家庭、父も母もなくその愛情を知らないで育った者、こうしたさまざまな欠損家庭で成長し、思春期を迎えて、いつしか悪に染ってしまう。自主性に乏しく理性に欠けているひ弱な心の持ち主たち、情けないことだと思うがこれが悲しい現実であった。 つい最近新聞紙上をにぎわした結婚詐欺男M(故、向田邦子の親籍と偽って)は受講生の一人で静女は新聞をみた時、「あっ、またやった。」彼は世界を股にかけた詐欺男で、「講釈師見てきたような嘘をつき」で刑務所内でも静女を煙にまいていたという。しかし、欠損家庭の子女だから悪の道へ踏み込むとはいえない、現に静女の息子も欠損家庭を乗り立派に成長し、現在は東京で医者になっている三元の父親でもある。 調さんに電話でお伺いした所、 「ボクのお母さんはいつも勉強していた、まわりの者もそうだった。だから人問って勉強するもんだと思って生きてきた」と明るく答えてくれた。 昭和五十六年三月定年退職。 翌年の九月、半生をまとめた「かぎろひの記」を出版。大きな反響をうける。 通信教育で卒業後、社会で活躍している教え子たちに、盛大な出版記念会を祝ってもらった静女であるが、第一線から身をひいたもののチャレンジ精神は旺盛で、その後も詩吟、和裁、エレクトーンに挑戦。 なんと驚いたのは、自転車に乗れなかった静女が、まず自転車に挑戦そして次はバイク、その次は車と一年間に全ての免許を習得。 長年の拘束から解放された静女はたて続けにヨーロッパ、中国と気軽な旅を楽しんできたというが、中国へいった時は「万里の長城八達峯で漢詩『子夜呉歌』をうなってきたのよ」と屈託なく話してくれた。 「私と通信教育は私の歩んできた人生の大部分です」ときっぱり語る静女。 したたかな甲州女である。