山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/09/30(木)09:05

素堂講座 素堂の官職について考える 誤伝甲斐国司志

山口素堂資料室(513)

  素堂講座 素堂の官職について考える   『甲斐国志』を何回読み直して見ても不思議なのは、元禄九年の濁川改修工事に於て時の代官桜井孫兵衛政能が、山口素堂に依頼してようやく実現した事と、孫兵衛の「手代」として改修工事を指揮したとされる事である。  此工事は幕府の資金で実施された事業である。三百五十両弱の多額の出費を伴い当時多額の財政赤字があった甲斐は更に財政の悪化が予想され、幕府としてもおいそれと手を出す事は出来なかったと思われる。そうした事情が此工事を遅らせた大きな原因の一つである。当時は将軍綱吉の時代でかの柳沢吉保も元禄元年則用人に当用され、元禄七年には川越藩主となり、綱吉の絶対の信任を受け、その後も比例なき大出世をする。又甲斐に所縁ある荻原重秀も勘定奉行に元禄九年に登用されている。代官桜井孫兵衛は度重なる洪水と排水のままならぬ状況、地元民の困窮と田畑の不作に思い余って工事の至急着工を幕府に促した。そんな行き詰まりの中、素堂に懇願し素堂の助言に依り幕府も着工を決める。こうした事は孫兵衛より素堂が幕府に於ける位置も地位も上位だった事になる。  その素堂が孫兵衛の「手代」になって工事の指揮に当ると云うのは考えられない。孫兵衛の親族とされる、斎藤正辰の「碑文」にも「老臣歸愁」とあり、素堂翁の名は見えない。  又、地元の人々が建てたとされる 桜井靈神 ・ 山口靈臣 の生碑も、 桜井靈神 は有った事は実証されているが、 山口靈神 については後世の物とする先生も居る。とにかく『甲斐国志』以前の書物には「濁川改修工事と素堂」を結びつかる記述のあるものは未だに目にすることは出来ない。  『甲斐国志』の素堂の項は他の項とは突出して記述内容が異なっている。これは『甲斐国志の編纂者の中に桜井孫兵衛の関係者、もしくは家系に含まれる人物が居たと思われる、桜井孫兵衛をの業績を際立たせるために記述したものと推察される。『甲斐国志』の編纂者の江戸担当の中に「斎藤」姓が二名見える。素堂に就いて出生や甲斐甲府在住を書した歴史書や文献はなく、『甲斐国志』刊行の後に於てそれを引用した書物のみが散見出来る。それに私見を挟み現在の素堂像を創り挙げてきたと推察できる。『甲斐国志』の編纂は、甲斐と江戸で行なはれて、甲斐の編纂者の知る事のない記載内容もあった事も窺われる『甲斐国志』は編纂完了後は幕府に納められた。何時の時代から一般の者が見る事が出来たのだろうか。  真の歴史はその時代の資料の積み重ねである。山梨の歴史はその為政者の変遷に伴い主体性の無いものが多い感がする。素堂が甲斐の出身が『甲斐国志』を見て知りその後に於て歴史を確認し、祖先の出身が北巨摩郡上教来石村山口とあるのを、素堂が出生したとして、当時の甲斐の状況を鑑みても可能性のない甲府酒造業山口屋市右衛門をその生家と定めてしまったのである。そして「史実」でない「紙実」がまるで真実のように独り歩きしてしまったのである。  確かに素堂は甲斐に来ている。素堂の側の書物か実証出来るのは元禄八年の、亡き母(八月に死去)の願いを果たす為に身延詣でと、黒露追善集『みをつくし』(久住・秦娥編。)に見られる久住の句文である。句文には「露叟(黒露)の扉は府(甲斐府中)の柳町といふにつゝきし緑町と申所なり、町つつきのおもしろきにや、《むかし素堂も此所にしはし仮居せられしとなん》 柳には緑の名あり庵の琴 久住 とある。これは年代が明確には出来ないが、元禄八年の「身延詣で」の際か、元禄九年の濁川工事の時(事実とすれば)なのかは資料不足で断定できない。  元禄八年は素堂の『甲山記行』によれば外舅野田氏宅を宿にするとあり、これに依り素堂の在府中の宿は「外舅野田氏宅」であり、「緑町の仮居」は元禄八年ではないと云う事になる。この野田氏は素堂の妻の父親の可能性であると思われる。『甲山記行』に《甲斐は妻の故郷云々》の記述がある。では元禄九年の「濁川改修工事」の時であろうか。これも史実を示す資料は無く言及できない。又、元禄八年素堂が墓参とあるがこれも史実とは違う。素堂の『甲山記行』にはこの事実を示す記述はなく、又府中山口市右衛門の母の墓(甲府尊躰寺)もその没年の違いが明確であり、(素堂の母は没年は元禄八年夏)、元禄七年九月中には妻の死去により親友芭蕉の死にも忌中で立ち会えなかった。(素堂曾良宛書簡による)素堂の父親については資料がなくその没年については解からないが、この時代父・母・妻は素堂翁の墓所である谷中感応寺に埋葬されたとする方が自然である。  未だ推察の域を脱しないが、素堂の親族の墓所は府中には無く、尊躰寺の墓所は素堂とは関係のない、後世の山口氏ものと考えられる。尚、尊躰寺の山口家の墓所は二箇所にあり、山口屋市右衛門の墓石もなく、甲府勤番士の名もあり、時代の変遷が窺われると共に、 山口殿 と云われた富家の墓とすれば余りにも淋しい。(この項別述)  拝読した諸文献・資料によれば現在の段階では素堂は甲斐の出身を示す史実はなく、教来石山口で生まれたという事実はない事しか浮かんで来ない。 『甲斐国志』の記述で確証がなく、定かでないものに就いては諸説又は後世の課題としている箇所が見える。それは、甲斐側の編纂者の誠実さの現れであり、編纂も当時、既に歴史の史実資料も少なく後世に伝えるものの少ない事を憂れいた、松平定信の発案により事業が開始されたと云う。素堂死去より約百年弱経ての編纂である。その間の素堂に関する俳書や解説書にも素堂翁と甲斐を結びつける文献は少なく、『国志』の孫兵衛と素堂との出会いは講談調で他の項と比べて異質であり、もし事実であるならどんな資料や文献から引用されたのであろうか。時代差がありすぎて今では如何ともし難い事である。しかし、歴史は創られた部分と事実の部分が混同されて成り立つものであるが、その時代の創作歴史を信じて疑わない事の方が情けない気がする。 「甲斐国志」(かいこくし)71巻。(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)松平定能編集。1814(文化11〕年11月成立。 江戸幕府の甲府勤番支配であった松平伊予守定能が、幕府の内命を受けて、1806(文化3)年に編集にかかり、同11年に完成した甲斐の地誌である。編集主任定能1805(文化2)年、48歳で甲府勤番支配として着任し、公務の余暇に甲斐の故事を探り求めたとろ、武田氏減亡後、・わずか二百数十年であるのにはなはだしく散逸しているので、慨然として地誌編集に志した。地区担当は巨摩郡 西花輪村(田富町)長百姓内藤清右衛門兎昌(55歳)、都留郡 主任は都留郡下谷村(都留市〕長百姓森島弥十郎其進(同44歳)、山梨・八代、巨摩3郡 担当は巨摩郡上小河原村(甲府市〕神主村松弾正左衛門善政(同42歳)で、みな甲斐におけるすぐれた学者であった。​なお、編集員に協力した人々としては、松平定能の家臣に広瀬勇八・佐久間寛司・斎藤伝兵衛・斎藤惣左衛門、関文太郎、黒木宰輔、橋本某があり、甲斐国内の人に内藤景助(清右衛門息〕、獲辺与九郎、三井益之助、小野新八などがあった。​内藤、森島、村松の3人は、定能の家臣の待遇を与えられ、出身地にちなんで花輪先生、谷村先生、小河原先生と呼ばれた。1806(文化3)年正月に、調査項目が決定された。 定能は斎藤伝兵衛に命じて2月1日、村々の名主、長百姓あての回章を作らせ触れさせた。それによると調査項目は、御朱印、黒印除地、古い書物系図類、寺社の縁起伝来の宝物、什(じゅう)物、古器、古画の類、古城跡、古屋鍬古墓所、石碑の類、珍しい草木、薬種の類、山林、川沢、名所、古跡、古歌の類、国境、古道、小道の類、申し伝えのある噺(はなし)、物語、雑談の類などである。社寺へは別に触れて、書き上げを提出させた。こうして村々寺社で資斜を収集、用意させるとともに、編祭委員は各村を巡回し、諸資料を一層精確に調査検討したのである。初めは定能の役宅を編集所として仕事を進めたが、1807(文化4)年8月に定能が西の丸御小姓組番頭に転ずると、編集所を西花輪の内藤清右衛門宅に移したり、谷村と江戸にも編集所が設けられたりして、草稿ができあがると、江戸の定能宅に送り、そこで校正を受けて清書するというありさまであった。内藤清右衛門の子孫である西花輪の内藤家には、当時収集された御改め村方蓄上帳(731冊)・同書上(97点)、御改め村方絵図(684枚)、寺社由緒書上(1120点)、個人由緒書上(167点)、古文書等書上(64点)が伝存されている。厳密な考証を整えるため9年の歳月を費やして1814(文化11)年、ようやく「甲斐国志」は完成し,提要・国法・村星・山川・古跡・神社・仏寺・人物・士庶に分かれ,付録に武田家重宝橘無鎧(たてなしのよろい〕・旛旗(しょうき)、花押、印章、古文書、古記録、産物、製造などの資料が集められている。編集態度は科学的で、この期に編集された諸国地誌中の白眉と推称されている。松平定能は序文を自著して巻首に掲げ、本又は家臣に清書させて和本に装丁し幕府に献上した。この「献進本甲斐国志」は現在、内閣文庫に所蔵され、数多い「甲斐国志」の写本の中で最も権威ある原興となっている。

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