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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年10月20日
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カテゴリ:山口素堂資料室

誤伝!山口素堂の実体 山梨県歴史紹介書

生き神様になった俳人山口素堂―濁川治水の業績

 この書は 山梨県の歴史紹介書の記載事項

記事

目には青葉山時鳥初鰹

山口素堂の代表的な俳句である。芭蕉の時代に生きた俳人として有名だが、治水工事の一級技術者であったことを知る人は少ない。

 今から二百八十有今年まえ、甲府代官の桜井孫兵衛政能の熱意に打たれ、技術的にも難しい甲府南東部の濁川の改修工事の監督を引き受けて川床を下げる堀り瀬工事を督励して、度重なる水難から住民を牧っている。

太平の元禄九年(一六九六)のころである。

のちに住民は桜井、山口両人の偉徳をたたえ〟生き神様″(生祠)として祀り、[桜井明神]「山口霊神」の石碑を建て、朝夕、供物をあげて礼拝した。この二つの生祠は甲府蓬沢町の濁川のほとりに現存している。

 素堂こと本名山口官兵衛は、寛永十九年(一六四二)、甲斐国巨摩郡教来石村山口(現山梨県北巨摩郡白州町山口)の郷士の子に生まれた。十六歳のとき、甲府に移り、まもなく江戸へ出た。はじめから技術者になりたかったらしい。江戸の林春斎の門下生になって朱子学をまなぶ。寛文七年(一六六七)、信章の号で、加友撰「伊勢踊り」に投句し、五句入選したことが俳諧入門のきっかけになった。

 素堂三十三蔵の延宝二年(一六七四)、上洛して俳人・歌人として知られる近江出身の北村季吟のもとを訪ねて、俳句の教えを乞うている。その翌年、ユニークな談林俳諧の提唱者だった西山宗因を江戸に迎えて庶民の文芸としての俳諧運動を起こした。素堂はこの時、芭蕉と初めて出会った。

延宝七年(一八七九)四月、長崎旅行から江戸に帰った素堂は幕府の治水事業の職を辞し、江戸不忍の池のほとりに移って俳諧に専念する。素堂の俳号で活躍しはじめたのはそのころであった。

                                                 

天和二年(一六八二)十二月二十八日、不忍池のほとりに火事があって芭蕉庵が類焼した。芭蕉は甲州の谷村などで半年ほど過ごし六月半ば江戸へ帰った。素堂は芭蕉庵の再建に心を砕き、勧化文を書き、俳人、知人から寄附金を募って芭蕉庵の再建に努めた。芭蕉と素堂との交流は個人的にも親密さを加えていったが、元禄七年(一六九四)十月十二日、芭蕉は大坂の旅先で病死した。素堂には大きな痛手だった。

 翌八年(一六九五)八月、亡き母の遺言に従い、江戸を出て身延山詣でをしての帰り、甲府に立ち寄り甲府代官の桜井孫兵衛政能と会う。政能が江戸詰めのころからの旧知の間柄だった。

甲府代官として着任して一年目の政能は、町を流れる濁川が毎年のように氾濫して住民を苦しめている話をした。政能は治水工事の技法に卓越していた素堂の技量を借りて、濁川を徹底的に改修する決意だった。もともと甲州人の素堂、政能の熱意に打たれてわが郷土の治水工事の采配を快諾した。

 元禄のころ、笛吹川の本流はいまの平等川の流域だった。その水量は豊かで出水のたびに川床が上がり、その支流の濁川の川尻が土砂で塞がれて排水ができなくなり、大雨が降ると、濁川の濁流があふれて花沢、西高橋、七沢の各村々現甲府市)などの家屋、田畑などの冠水と流失が続いた。

 天和二年(一六八二)正月に記録した「中郡筋蓬沢村濁川除御役儀御赦免奉願侯御事」の陳情書によると「天和元年夏の水害では全村の九割に達する耕地面積が土砂で埋まり、たび重なる水害で転出者が続出している」と報告、その復旧工事の労力、資材購入の負担に耐えられず、「荒廃したままである」と訴えている。蓬沢出身の小野家所蔵の元禄七年の水害状況を記述した文書によると、この年の五月から八月まで四回、濁川が氾濫し、八月二日の大水害では十三日まで水が引かず、九月四日には三たび出水して麦の種蒔きもできず、一河水が張るというきびしい冬の訪れを告げている。

 桜井代官は、水害に苦しむ村民を水魔から救う決意を固め、素堂と会う前に濁川の水を抜くための掘り瀬工事の検分を済ませていた。数学に強く、上木工事では第一級の技術者である素堂の協力を得て、自信がついた。

 当時の甲府宰相は松平綱豊。政能は綱豊の治水工事の許可をもらうため江戸へ出立した。その出立の朝、見送りの住民代表に

 「万一、許可が出なかったら、貴公らと再び顔を合わせることはないだろう。拙者は代官という職をかけて江戸へ行く。身命を賭けての上京だ。必ず許可を得て帰るから安心して待つがよい」

 と決意のほどを語り、政能を見送る住民たちは両手を合わせて感涙にむせんだという。数日後、政能は首尾よく許可のお墨付きをもらって欣喜雀躍として帰国した。

 濁川の治水工事は元禄九年(一六九六)四月九日から開始された。蓬沢村など被害を受けた各村から大勢の人足が朝早くから集まった。工事現揚に立った素堂こと山口官兵衛、五十歳成。白髪頭を剃り坊主頭だった。木綿の小豆色の筒袖の上衣に作業用の袴をはき、大小を腰に差していた。

工法の絵図面をひろげ、数人の村役人に資材搬入、作業の分担などをてきぱきと指示していた。

 工事現場は今の甲府市蓬沢町の濁川の川尻である。工事は連日、体みなく続けられた。出水期までに完成しなければ再び水魔に襲われ、折角の工事も台無しになるとあって官兵衛の督励をよく守って各村の良民も一致団結して急ピッチに工事を進めた。濁川の川床をさらう掴り瀬の工事が完工したのは五月十六日であった。

  右の堀瀬五月十六日八ツ時分に堀落し申し候へば、

川瀬早川などの様に水脚早く落ち申し候、

  野田の儀は二十日の昼時分野良中水落ち申し候

 

小野家文書に記されている濁川改修工事の完工時の状況である。

官兵衛の指導で完成した堀瀬の治水工事のお蔭で周辺の田畑の冠水がまたたく間に流れ落ちて、美しい田園が甦ったことを伝えている。

 再び俳人素堂に戻った官兵衛は、感謝する桜井代官、村役人たちに別れを告げて江戸葛飾の隠居所に帰り、俳句三昧の余生をすごし、享保元年(一七一六)八月十五日、葛飾で七十四歳で病没した。

墓は上野谷中の感応寺中髄音院にある。戒名は広山院秋巌素堂堂居士。

 蓬沢周辺の住民たちが、水魔から救った生き神様として桜井代官と共に「山口霊神」の生祠の石塔を建てたのは宝永二年(一七〇五)である。素堂六十三歳のときであった。

 








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最終更新日  2021年10月20日 19時30分28秒
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