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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月06日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂 「蕉風の隠者たち」より野々村勝英氏著

京都教育大学名誉教授

  

 芭蕉が俳諧の革新をなしとげるに当たって、直接間接にこれを助け、また声援を送る役割を担った者に、信徳・素堂・来山・言水・才暦・鬼貫らの人々があったことはよく知られている。これらの人々のうち、最も芭煮と密接な関係にあった者は、いうまでもなく素堂である。

 素堂は芭蕉と己れを中国の伯牙・鐘子期の故事になぞらえてひそかに芭蕉に対する鐘子期たらんことを期し(『野ざらし紀行』跋)、芭蕉また、ある禅師の問いに答えて、「詩の事は隠士素堂といふもの此道にふかき好ものにて、人も名を知れる也」(『三冊子』)と素堂に尊敬の念を払っている。このような互いの深い敬愛に支えられて、素堂は黄門の客分作家として、またその儒学・詩文の学識をもって、蕉風俳諧の進展に寄与するところ大であったのである。

 ** 素堂 **

山口素堂は、寛永十九年(一六四二)甲斐の国の富有な郷士の子として生まれた。芭蕉の生誕に先立つこと二年である。名は信章・別号蓮池翁。寛文初年二十歳ごろ、江戸に出て林春斎(羅山の第三子、鶴峰)に儒を学び、官に仕えた。延宝七年(一六七九)ごろ官を辞して上野不忍池近くに隠栖し、翌八年から素堂と号し、更に貞享二、三年(一六八五・八六)ごろ、鴨長明の隠遁を慕って居を葛飾の阿武に移した。その生活は「庵中蔵スル所書契数巻、及ビ茶器爨炊の鍋竈ノミ」(『素堂家集』序)という有様で、まことに「あづまの長明」(『とくノトの句合』駿)というにふさわしい隠者ぶりであり、またこの新居が芭蕉庵に近いところから、素堂と芭蕉および門下の人々との交わりもいっそう深まることとなった。

 芭蕉と素堂の俳諸上の交わりは、すでに延宝二年ごろから始まっているが、天和三年には、其角選『虚粟』に、素堂の

  浮葉巻葉此蓮(レン)風情過たらん

に始まる有名な「荷興十唱」が入集、漢詩調が著しい。「蓮」を「レン」と音読するのがよいと芭蕉が牧童に教えた(『草刈笛』)のも、この句全体に漢詩趣味を感じとったからであるが、この素堂の漢詩調も、延宝末から天和にかけて俳諧に流行した漢詩文調と軌を一にするものであることはいうまでもない。

                                   

** みのむし **

 貞享四年秋、芭蕉の「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の句に対し、『蓑虫説』の一文を草した。芭蕉は素堂の文の終わりに更に『蓑虫説跋』をそえているが、ここには芭蕉・素堂両者の高邁にして洒脱な交遊ぶり、隠逸ぶりがあふれている。

元禄五年(一六九二)秋、芭蕉の『三日月日記』 に序を寄せた。文中に、「我庵ちかきわたりなれは、月にふたり隠者の市をなさんと自から申しつることぐさも古めきて、入くる人々にも句をすゝむる事になりぬ」とあり、芭蕉・素堂の交遊ぶりが知られる。

 元禄七年十月十二日芭蕉没し、素堂は年来の友人に、追善の句

「旅の放つゐに宗祇の時雨かな」(『枯尾花』)

を手向け、また、元禄十三年十月十二日の芭蕉庵における芭蕉七回忌には、

「くだら野や無なるところを手向草」

に始まる七句を詠んで芭蕉の冥福を祈った。その後素堂は、宝永八年(一七二)に『とくくの句合』を著すなどのことあったが、さしたる活動も見せず、享保元年(一七一六)、葛飾に没した。享年七十五歳、法名は広山院秋山厳素堂居士であった。

 

** 素堂の作風 **

 元禄十五年、素堂六十一歳の時刊行された轍士の『花見車』には、素堂を評して、「はちす葉のにごりにはそまじとながれの身とはなり給はず、若き時より髪をおろして深川の清き流れに心の月をすませり」と述べているが、事実、素堂は延宝七年三十七歳の時不忍池畔に隠退して以来、一時元禄九年に甲斐の治水工事に関係したほかは、ずっと隠遁生活を続けた。同じく隠栖とはいっても、素封家の長子として生まれた素堂のそれは、門人たちの助力でやっと生活を保った芭蕉の場合とはなはだ異なった内容をもっている。いわば芭蕉の隠栖は、世俗名利の生活を断念することにより俳諧に己れのすべてをかけたものであったが、豊かな生活に恵まれ、詩文に詳しかった素堂の場合には、俳諧はどちらかといえは余技的なものであり、己れの全生命をかけるものではなかった。そこに両者の俳風の大きな相違を生む原因があったと考えられる。

 素堂は天和から貞享にかけて、

   浮葉巻葉此蓮風情過たらん

   春もはや山吹しろく苣苦し

などのすぐれた佳句を詠んで、芭蕉の俳諧草新・蕉風確立の運動と歩みを共にしながら、元禄以降においては、特に新しい俳風の展開を示すことはなかった。

   楽しさや二夜の月に菊そへて   (元禄三年)

   髭宗祇池に蓮ある心かな     (元禄七年)

などの句からもわかるように、その多くは緊張を欠いた平板な句に堕している。もちろん、元禄以降にも、

ずっしりと南瓜落て暮淋し    (宝永元年)

蔕おちの柿の音きく深山哉    (享保六年)

などの佳句もあるが、これらは例外といってよい。

 かように、素堂が元禄以降、ほとんど見るべき新風も佳句も生まなかったのは、漢詩文に詳しい素堂にとって、俳諧は趣味にとどまったからであり、いわば彼の漢詩文の教養がマイナスに働いた結果であるといってもよいであろう。

 (中略)

 

素堂の芭蕉文学への寄与

 

 右に述べたような生涯を送った素堂が、芭蕉の文学に寄与するところあったとすれば、それは何であろうか。芭蕉に欠け、素堂に豊かであった儒学・漢詩文の面での影響・寄与であったろうことは、さきに引いた『三冊子』の一文からも十分推測されるところである。

 以下、この間題を、漢詩文のうち芭蕉の影響を受けること最も大であった杜甫の場合を例にして考察してみたい。

 芭蕉・素堂の活動した近世において、思想界の中心にあったのは、いうまでもなく宋学であった。したがって、近世の人々が杜甫に対していだいた見方、杜甫観も大なり小なり宋学あるいは宋代における杜甫観に影響されるところがあったと考えられる。

かような明代の批評からも、宋代において、憂国愛民の詩人としての杜甫像がいかに強く印象づけられていたかが想像できよう。宋代の文学界は、元祐・紹述の両党に分れて烈しくあらそったが、杜詩尊重はそのいずれの派にも共通する所であり、宋の学問思想の影響を受けた日本近世の杜甫観も、宋代風の杜甫観につよく影響されていた。たとえば

  杜陵語句絶比倫--丹心忠義心在--独悲天子又蒙塵

(『羅山詩集』六八)

という羅山の詩にはっきりそれが現われている。また、朱子学を

学んで幕府に儒官として仕え、素堂とも親交のあった人見竹洞も、                                                       大雅興らざること久し、此の翁(杜甫-筆者)天の遣はす所、愁の中唯酒あり、……萬然たる忠義の気、永く英雄をして知らしむ                (『竹洞全集』二)

とやはり同じようなとらえ方を示しており、更に、朱子学老中、比較的道学臭の少なかった木下順庵にしても例外ではなかった。

(「読杜律集解寄石徴君」『錦里文集』二)。

 (中略)

 

素堂の芭蕉文学への寄与

 

素堂が、芭蕉の文学に寄与するところあったとすれば、それは何であろうか。芭蕉に欠け、素堂に豊かであった儒学・漢詩文の面での影響・寄与であったろうことは、さきに引いた『三冊子』 の一文からも十分推測されるところである。

 (中略)

 芭蕉・素堂の活動した近世において、思想界の中心にあったのは、いうまでもなく宋学であった。したがって、近世の人々が杜甫に対していだいた見方、杜甫観も大なり小なり宋学あるいは宋代における杜甫観に影響されるところがあったと考えられる。

 (中略)

芭蕉が杜甫の作品から読み取り、これを生かすとすれば、憂国愛民の情ではなく、より普遍的な人間の愁い、わび、悲しみの情などである。ここに芭蕉と羅山をはじめとする儒者との姿勢の相違が生まれたといってよい。

 更に考えねばならぬのは素堂の存在である。素堂は儒を学びながらも、ついに友人竹洞のごとく官に仕えることなく、早くから隠遁的生活を送った。この素堂はまた漢詩文について、「詩は隠者の詩風雅にて宜し」▲(『三冊子』)という考えの持ち主であった。素堂のいう隠者の詩がどういうものかは判明しないが、素堂の隠遁的生活、および彼が漢詩の中に杜甫をうたいながら、杜甫を憂国愛民の詩人としてとらえようとしていないことなどを考え合わせると、素堂のいう隠者の詩風もほぼ推測することができる。素堂のよしとする詩風が、世塵から政治から絶縁したところに生まれるものであったことはまちがいない。素堂の右のような姿勢を考えれば、芭蕉が杜甫の作品に憂国愛民の情をくまず、むしろ「わび」の方向へ転じて行った歩みに、終始隠遁の生活を送り、そして芭蕉が尊敬の念を払ってやまなかった素堂の姿の投影を見ることができるであろう。

 

中国の文芸が政治と密接に結びつくのに対し、日本文学がきわめて.非政治的性格をもつことはしはしば指摘される(たとえば吉川幸次郎氏「中国の智誠人」「中国文学の政治性」など)、芭蕉と杜博、芭蕉と漢詩文の問題もかような日本文学の傾向の一つの現われとも考えられるが、直接には、蓑虫のあわれを愛し、長明の隠逸ぶりを慕ってやまなかった隠者素堂を媒介することにより、芭蕉の漢詩文摂取に一つの方向づけが与えられたことによるものと考えられる。そして、このような漢詩文摂取を基盤として芭蕉の文学が築きあげられたことを思う時、芭蕉文学の形成に果たした素堂の役割はきわめて大きなものであったといわなければならない。






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最終更新日  2021年11月06日 04時52分50秒
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