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2021年11月06日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

○特集/武田信玄の謎 出陣常勝-赤備え武田軍団

 

『歴史研究』武田信玄の謎 8 第447

宮代輝之著(静岡県会)

 一部加筆 山口素堂資料室

 

 「鞭声粛々……」、

朝露のうちに千曲川に対峙する甲斐・越後の龍虎による「川中島の合戦」は四度を数え、永禄四年九月十日いよいよ講談に名高い信玄・謙信の両雄相打つ一騎打ちを迎える。

「旅所法性の兜」を頭にかぶり身繕った威容は正しく「軍神」に尽きる。武田信玄の軍学は側近である高坂弾正志昌信の著による軍学書『甲陽軍艦』により、その軍法・行政・治政を今日詳細に知ることができるが、「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、あだは敵なり」の一文に要約されるごとく、「孫子の兵法」の集大成というべきものであった。つまり、″戦わずして勝利を収める″究極の戦(いくさ)を考究したのである。武田流軍学は後に、山鹿流・北条流・一統流の諸派を生ずる。

 特に、信玄の合戦におけるポリシーは絹地に紺漆、金泥の文字による「疾如風 徐如林 侯掠如大 不前知山」の孫子の旗に明示されている。

 信玄は「孫子の旗」以外にも多数の旗を用いているが、「諏訪明神旗」「諏訪梵字旗」「赤い軍旗」など、赤色を基調とした軍旗が多く見い出せる。古来、日輪を示す「赤」は、平家の「赤旗」に先例が見られるように、戦場での士卒の士気鼓舞に活用されていた。

 人が色彩を知覚するメカニズムを心理学のヤング・ヘルムホルツは、「三色説」において「網膜の錐体には赤・緑・青を感受する三種の過程があり、それらの興奮の程度によってすべての色彩が生ずる」と定義している。そこで、この三原色を色彩イメージによって分析してみる。すると、後者の緑・青の二色が健康、平和という静的なイメージを与えるのに対し、赤色は、太陽・興奮・スポーティと前出の二色に比べ非常に動的なイメージを持っていることが理解できる。

 ただし、赤色の持つ個性的なイメージも派生色のベビーピンク・海老茶・サーモンピンクに変化すればイメージは薄れ、異色なものとなる。併せて、配色的に見るならば赤色は、遠くにあっても大きく見え、風景から浮き上がる特色がある。全くもって、赤色は自軍の士気高揚、相手車の戦意喪失をもたらす最適な色調といえる。

 閑話休題、後年、徳川の鬼前節と恐惶された朱塗具足の「井伊の赤備え」もこれまた、信玄武田晴信の軍学の所産なのである。

 信玄は、甲山の猛虎の異名を馳せた武田二十四将の一人、飯富(おぶ)兵部少輔虎昌に、赤い甲冑・指料・馬の鞍・鞭に至るまで「赤色」で統一した、勇猛「武田赤備え」を整備させた。

 武田家滅亡後、徳川家康が信玄の遺臣を積極的に召抱えた折、飯富家の精鋭が、そっくり井伊直政に仕官し、再編成されて「井伊の赤備え」が成立した。火炎の如く燃え盛り、他を圧倒しながら人心を威圧する「赤色」、赤備えの常

勝武田軍団には、やはり″戦わずして勝つ″の孫子の兵法が深く浸透していたという事実を、ここに改めて実感する次第である。

 

○特集/武田信玄の謎 武田水軍の謎

 

『歴史研究』武田信玄の謎 8 第447

境 淳伍氏著(京都府会員)

一部加筆 山梨素堂資料室

 

 筆者はかつて「戦国大名の兵制」と題して小論を書き、

その最初に武田氏の兵制をとりあげたことがある(拙著『歴

史山脈』平成2刊)。

 そのときには「武田水軍」にかんする知識は全くなかったが、たまたま手にした『日本史こぼれ話』(山川出版社・平成5刊)という読み物ふうの本にとりあげられているのを見た。

 以下その記述によりながら、「武田水軍」のなりだちな

どを考えてみることにする。武田信玄が本格的な水軍の組織をつくりだすのは、永禄十一年(一五六八)今川氏真を攻めて駿河を手中にしたときからだという。

 今川家の旧臣で、清水港を本拠とする岡部忠兵衛長宗と興津港を根拠地とした伊丹大隅守康直を、まず起用して船大将とした。

 ついで、伊勢海賊衆の小浜民部少輔景隆・向井伊兵衛政勝の両名を招いて船隊の指揮に当らせる。

 さらに、当面の仮想敵国である小田原の後北条氏の海賊衆にも手をのばして、間官武兵衛・同造酒丞(みきのじょう)の引き抜きにも成功する。

 このようにして、駿河浦の制海権を掌握するために、万全を期したのである。

 ところで、これらの武田水軍の首脳たちについて、若干の事跡などをしらべてみた。

 岡部長宗については駿河の旧族につながることはわかるが、それ以外は不明である。

 伊丹康直(一五二三~九六)は雅興の子で、はじめ今川義元の同朋衆だったが、氏真のとき転向して海賊奉行となった。                             

小浜景隆はもと伊勢畠山氏の水軍の将で、元亀二年(一五七一)七一)武田信玄に仕えた。安宅船(大型軍船)一般、小舟十五般持の船大将となったという。

向井政勝父は政重。伊勢北畠氏旧臣で、元亀二年父とともに武田信玄に仕えた。船五般持の海賊衆となったが、天正七年(一五七九)駿河用宗城で討死した。そして家督は嫡子正絹が嗣いだ。

間宮武兵衛・間宮造酒丞の両名については実名もわからない。しかし、後北条氏に仕えた間宮氏一族は、武蔵国久良枝郡杉田(現・横浜市)を本拠とする土豪であった。その一流で間宮左衛門尉信常という海賊衆がいるから、武兵衛

・造酒丞の両名はこの信常の縁者であろう。

それにしても、武田水軍の精強ぶりは信玄病没後に実証されることになる。すなわち、天正八年(一五八〇)三月の駿河浮島ケ原の戦いで、優勢を誇る北条氏直の水軍を相手に、武田勝頼の水軍が五分に戦ったのである。

そして、武田氏滅亡後も、武田水軍は徳川水軍に再編成されて、船手頭として続いたことはよく知られている。

 

 ○特集/武田信玄の謎 信玄の上洛と死因をめぐって

 

『歴史研究』武田信玄の謎 8 第447

川越富夫氏著 秋田県会員

一部加筆 山梨素堂資料室

 

戦国武将のうち、甲斐の武田信玄(晴信)ほど、智勇共に優れていた者はあるまい。

 なぜなら信玄、二十一歳で自立してから死を迎えるまでの三十二年間、「合戦頁二十余たび」(『甲陽軍艦』)。中世の騎士道を重んじて、常に陣頭に立って修羅の巷(ちまた)をくぐり抜けてきた武将だからである。

 しかも領国政治と人間管理に巧みであった信玄は、領民から圧倒的といってよいくらいの支持を得、一揆を起こすものがほとんどなかった。当然ながら、配下の諸将も信玄に全幅の信頼をおき、反旗を翻すものは丁人もなかったこ

とでも、実に卓越した政治家であり、同時に武将だったと思う。

 信玄がもう少し長生きしていたら、戦国時代末期の歴史が相当変化したのではないか。この武将にして最強の甲州軍団を率いていながら、ついに上洛の夢を果たすことができなかったのはなぜだ。

 まず第一のポイントは、遅すぎた信玄の西上である。領国甲斐を完全に固め、信濃の諸郡を着々と自領化し、隣国と同盟を結び、遠交近攻の策で敵国を牽制し、万全の用意を整え大兵を従えての上洛だった。

 信玄は、軍事・外交にも慎重すぎて、時機を逸したのと、当時としては、五十二歳という老境に達していた。甲斐の山国を領国とした環境と地理的不利が、かれの雄図を挫折させたと、いえなくもないが。

 第二点としては、軍略面での神経過敏なことは、類がないくらいで、むしろ異常な感すらする。信玄は戦う前に、敵情を調べに調べて、その位置する地形や一木一草までを数え上げ、自分の眼で確認し知悉せねば、たとえ一兵たりとも動かさなかったという。

 以上、信玄の長所ともとれるが、反面、なにごとも算術的な計算の結果起こす行動や戦法茫と、負けぬまでも激しく動き変る戦国の世では、重い鎖を断ち切って、日本に近世の夜明けをもたらすにはいたらなかった。

 第三の最も重要な点は、信玄には初め天下取りの志はなかったことである。今川家を駿河へ追放してから、やっと中原に旗を立てようと、一歩を踏み出したところで、残念ながら寿命が尽きて無念の死を遂げたのである。

 さて、信玄の死因については諸説入り乱れる。中で病気か鉄砲傷説が有力だが、『松平話』には、野田の城兵が落城に際し、退陣しながら信玄の本陣に発砲したところ、たまたま信玄に命中し、その傷がもとで死亡したとある。優勢な武田軍が突然囲みを解き、退却を始めたのだから、虚構でもなかろう。

 しかし、真実味があることでは、病死説に軍配があがるだろう。『甲越軍記』によると死の六年前、つまり駿河出陣の時も喀血し、侍医の板坂法印から労咳(肺病)と診断されている。信玄画像の体形から考えて、肺結核説を否定する向きもあるか、考察するに、老人性肺結核に無理な軍旅がたたり、山桜の散る四月、戦国の英傑武田信玄は逝く。






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最終更新日  2021年11月06日 15時16分22秒
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