2021/11/12(金)18:32
甲陽軍鑑を詠む 信玄死す 勝頼 馬場美濃守信房公
甲陽軍鑑を詠む 信玄死す 勝頼 馬場美濃守信房公「甲陽軍艦」品第五十 勝頼公の家督(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)天正元年(1573)勝頼28歳 元亀四年は天正元年(一五七三)に替わる。◇信玄の死の伝播そこで天正元年四月十二日に信玄公が御他界なされたにつき、その年五月から勝頼公が統治にあたられた。しかし他国の諸々の敵勢、越後の謙信、岐阜の信長、浜松の家康、そのほか関東の新町、足利さては飛騨越中などの小敵にまで伝わって、相州の北条氏政公は信玄公の旗下にあったけれども、法性院殿(信玄)御他界を聞いて、即座に敵討するといったようなので、諸国へ対処のため、信玄公の御他界を隠して御病気とだけ言い伝えていた。◇本格的な合戦は、川中島合戦と味方ケ原(三方)合戦 甲陽軍鑑を詠む 百年このかた本格的な合戦といってもそんなにはない。しかも二度の本格的な合戦ということになると、永禄四年の信州川中島合戦と遠州味方が原(三方)合戦、この二度の合戦である。北条氏康公は河越において上杉管領八万余りの軍勢に対して、氏康が八千の軍で勝ちなされた夜軍があるが、これは敵が油断したからである、そうでなければ、どうして八万余の大軍が八千の北条勢に敗れるなどということがありえよう。◇姉川の合戦 甲陽軍鑑を詠む下総の国府台(姉川)においても、氏康公は安房の里見義弘に勝ちなされたけれども、これは義弘が最初に勝ち、その油断のところを氏康が攻めかかって幸運をもたらしたものだ。このように、出し抜いたり、あるいは連合して小身な敵に勝ったり、あるいは堀をほり、柵をはりめぐらし、内輪もめから謀叛をおこさせ、旗下の配下の侍に合戦の途中で寝返りさせて敵対させたりする。そんな無理な勝利で相手を破っても、負けたとは心から思わぬものだ。世間でも真の勝負とはみなさない評を下すのである。◇真の合戦とは 甲陽軍鑑を詠む国持ち大将たちが、敵味方ともに二、三万の軍勢で、白昼に合戦に参じて、両軍勢がともに他国からの加勢はあったにせよ、総大将はそれぞれ一人ずつで、堀・柵・川・裏切りといった小細工なしに、軍勢そのものが鑓を合せて勝負をする。そこで決着をつけるのを真の合戦というのだ。この点からどの合戦が本格的かと考えめぐらしてみるに、それが川中島合戦と味方ケ原合戦なのであ。る。両度ともに信玄公の御勝利であった。敵味方ともに二千三千の軍による勝負は、あちこちの国で、それこそ数えきれぬほどあるであろうが、そういうのは大合戦とはいわない。大合戦でたければ、世間では取沙汰しないものだ。信玄公の御勝利となった相州三増の合戦も、氏康公、氏政公の父子が到着なさらぬ以前に、北条家の先鋒だけを斬り崩しなされての勝利だから、本格的な合戦だとはいいきれない。北条陸奥守(氏照)、安房守(北条氏邦)、助五郎(北条氏規)といったそれぞれ北条家一門の軍勢ではあったが、大将の氏康父子が戦場に着く以前のことだったからである。(中略)◇浅深表裏の十ケ条 甲陽軍鑑を詠む信玄公の御他界以後は、万事にわたり、長坂長閑・跡部大炊助の両人が、勝頼公をお諌めになっていることゆえ、申し上げたい。大身小身ともに、常にお考えになるべきことが五ケ条、深浅合せて十ケ条がある。◇ 慈悲深く、欲を浅く。ただし大名が乱国を攻め取られること、小身の人が忠節忠功の奉公によって所領を得ることは欲深いことではない。欲とは邪欲のことである。慈悲といっても罪を犯した者までもあわれむという意味ではない。◇ 人を深く思い、自分には浅く。◇ 忠節忠功の奉公の心がけを深く、自分の要求は浅く。◇ 遠慮して、礼儀を深く、遊山や遊興は浅く。◇ 人を使うには穿さくを深く、折檻は浅く。◇ 国持ち大名の慈悲第一に国持ち大名であって慈悲を知らぬものは、やたらに欲深い。理非もわきまえず欲深いと、その下にある立身した家臣たちも邪欲に固まり、土産や賄賂にふけり、自分に進物を贈る者を考えなしに取り立てて、諸奉行または諸役職の地位につける。するとその連中は、上の者にならって、国法、軍法に背いても自分の機嫌をとる者は罰せず、法外なえこひいきを行なって、罪のない者も妨害して倒し、大将が危機に陥っても知らず、ちょうど上杉憲政の家中のような、汚れた心根の連中ばかりが多くなる。◇ 国持ち大名の心得 甲陽軍鑑を詠む第二に、国持ち大名が、人を浅く、我が身を深くかばっておられるようであれば、重臣の人カをはじめ家中すべてが互いに功を誇り合って自慢し、たいした証拠もないことをお互いにほめ合い名誉とするから、国をあやまるものである。その上、民衆の困窮も知らず、下々の苦労も知ろうとしないから、あえて、すべきでない戦などを起し、ついその家中を減ぼしてしまうのである。◇武士の忠節忠孝 甲陽軍鑑を詠む第三に、国持ち大名が大切に崇敬しておられる武士たちに、忠節忠功の心がけが浅いならば、その家中は下々の者どもまで主君の御ためを思わず、手柄もたてずに所領ばかりをほしがる。大剛ですぐれた武士をも、小身であればなんの根拠もなく悪く非難し、たとえ臆病者でも親から多くの所領を譲られて金銀、米、銭を持っている分隈者でさえあれば、侍であればいうまでもなく、町人や地下人(百姓)でもほめそやして、よい証拠もなしに、功労者のように言って扱う。そこで裕福でさえあれば、町人までがのさばって、武勇すぐれた侍のいる席で武芸の雑談をするなど、皆無礼きわまる振舞いが横行し、かくてすぐれた武士は次第に見捨てられ、その国、その家中は戦に弱くたるものである。◇武士の遠慮と礼儀 甲陽軍鑑を詠む第四に、出世した重臣たちが、遠慮なくて、礼儀を失うようだと、その家中の人カはすべて先のことも考えずに遊山にふけり、身辺を飾り、恥を知らず、毎日の暮しにこと欠くようになっても恥とも思わず、国法を無視する者が多くなる。争いごとが起こり、あやまちを犯し、あるいは死ぬ必要もないことでむやみに命を落す者もでる。さては昼中から強盗を働く者まで出て、政治の秩序は乱れはて、見通しの立てようもない有様となるであろう。そのもとは、活動する臣下が遠慮しないところから起こる。◇国持ち大名の人材評価 甲陽軍鑑を詠む第五には、国持ち大名が人を使うのに、人材の評価をいいかげんにしていると、知行を取るべきでない人が取り、大将が崇敬する人の親類、大身の人の親類、財産家の身寄りの者ばかりが幅をきかせ、たとえ失敗があっても有方な縁者の庇護によって、我が身がに罪赤及ぶことはあるまいと考え、さらに、どのような悪事を働いて、もしもわが身に罪が及ぼうとも、千に一つも命に心配はないと考え、国法にそむくのをなんとも思わなくなる一方有力な親類もなく、しかも分別のない人々はこれをみてりっぱな人の身よりでさえ、あのように法にそむくのだから、我らのような下の者が大将のために尽くす必要はさしてないと心得、法にそむくことが多くなり、法度はあってもさまざまな悪事が起って、紛争の絶え間がなくなるであろう。以上の五ケ条、裏面と合せて十ケ条である。これをよくよく分別いただきたい。◇天正5年5月◇ 天正元年五月よりその年のうちに、諏訪、富士浅間神社、戸隠神社をはじめ五カ国の諸社諸寺へ、勝頼公の家督相続の御朱印を出す。右のうち諏訪、富士、戸隠の三社の事を書き記す。残りの神寺は多いので省く。 〔定〕従法性院殿被渡下侯御判形之旨、自今以後弥不。可相違者也。仍如。件。(信玄公法性院殿から下された書き判の主旨に今後は相違しないことを誓う。以上)元亀四癸酉年(天正元年.1573).九月五日◇ 甲州郡内の安左衝門という者は、安蔵主という出家がえり(還俗)である。信亥公の御意向をうけて俗人にかえり、一騎をあやつって諸兵にまじって御陣にお供いたし、二、三度すぐれた武功をたてたりした。右の安左衛門が信玄公の御他界にともない、御跡目の御武運長久の為にと諏訪大杜へ祈願を、六月一日より八月晦日まで九十日間おこなった。そのうち七十一日目に夢想をえた。その歌に〃諏訪明神たる武田の子と生まれ代をつぎてこそ家をうしなへ〃というのだ。その夢を見たあと諏訪の祠官にこっそりと話した。祠官はそれを聞き、このたびの続目の御朱印を拝見いたすに、諏訪の御神体の御判と勝頼公の御判とが同じなのは不思議だと語ったことだ。『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)◇天正元年四月十二日 信玄の死天正元年四月十二日に、信玄公は御他界なされたけれども、三年間そのことを隠し、三年目に御死骸を、仰せになられたように弔い、信玄公の御遺言にそった。けれども逝去以来おおかた御他界を推測してか、北条氏政から越後の謙信へ、信玄公の御他界の模様ということで使者がとんだ。内々に浜松の家康へも、小田原の氏政から連絡が届けられた。駿河の先方衆の内にも伝えられ、朝比奈駿河守、岡部丹後守の両人は、信玄公とは親密だったからひそかに涙を流した。その報がもたらされた夜は、岡部次郎右衛門(正綱)をはじめとするすべての者が顔色をかえたことだ。とくに三州の先方、奥平美作守(能成)の子息九八郎(信昌)は態度を一変していったが、右の者は先をよむことに長け、生意気なところがあったから、勝頼公が天正元年の御占いより前の元亀三年の十二月末にはすでに易考により急亦をうらなっていた。それには、馬前に人去りて仮軍となる、といった卦が出ていたのを、奥平父子は知っていて、信玄公が生まれた年の次の午年にかけて、おおかた御他界なさるだろうと疑わず、それで変節していったのだ。◇天正元年六月 勝頼公は、東美濃に出陣を計画〔新旧家臣団の意見の相違〕ところで勝頼公は、東美濃へ同年六月に出陣なさるとい出しなされた。それで馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛、高坂弾正の四人をはじめ各家老衆は申し上げた。信玄公の御弔いを今年から三年目になされて、それから敵がこちらへ攻めかけてくるまで御待ちになるのがよいと申す。長坂長閑、跡部大炊助も申し上げる。御屋形の御意と、家老衆のお考えを勘案して申し上げたいという。まず当年は、五か国への総軍勢の配備をやめ、甲州一国の軍勢を二つに分けて、山県三郎兵衛を先頭にして穴山殿(信君)、一条澱(信竜)に逍遥軒を大将になさって遠州へと攻めるのがよいと考えます。また三河へは馬場美濃を先陣に、小山田兵衛尉に典厩を大将にお決めになって、長篠の城へ家康を追いこんで、その後陣に他の軍勢は御廻しになるのがもっともよいと申し上げる。そういう長閑・大炊助の諌言を勝頼公は尊重なされて、三河へは典厩・馬境・美濃小山田の軍が出動する。◇逍遥軒の敗北けれども信玄公が御他界した後だから、上から下の者まで底力が出ずに、長篠の向かいの小山に典厩が御到清した時は、すでに長篠の城を信州の先方衆(室賀行俊ら)は家康に明け渡していた。そして遠州の森という所で、逍遥軒が御思慮浅かったために、家康の家老、本田作左衝門・本田平八郎(忠勝)・榊原小平太(康政)の三頭に逍遥軒は負けなされたが、穴山般・一条殿の二勢力によって撃退した。山県三郎兵衛は、家康が保持していた心屋落に兵力をさいてさし向けたが逍遥軒の御敗北を聞いて、ただ一騎で森へ駆けつけたけれども、家康は、勝って冑の緒をしめて早々と引きはらったので、五日間のうちには山県をはじめ各武田勢も甲州へ引き上げた。信玄公が御他界されたために、武田の軍船の様了も変化のきざしが現われつつあった。◇天正元年九月◇ 同年九月、勝頼公は遠州へ出馬なされ、磐田まで進攻して、二俣、乾、光明、あまかた、天竜方面の各御所持されている城々をさらに完備して、家康持ちの懸を御巡視なされて御帰陣となった、が途中、家康の深慮によって、懸川の城代石川日向守に命じて、勝頼公を鉄砲をもって入坂の切通でねらわせた。◇ けれども馬場美濃守の工夫と思案がはたらいて、謀略にかけては名人だからこれを見破り、家康衆の三人のうち勝頼公をねらっていた味岡という者を甲州側で生け捕ってしまった。◇ 馬場美濃守が申すのに、信玄公の御代より今年まで三十一年間、こういう場面を心がげてきた。甲州と信州の境、あるいは信州を平定してからの信州・飛騨の境、越中・信州の境、東美濃・東三河あるいは上野・武蔵の境、新田・足利との今度の遠州入坂と、すべて難所で危険な場所は常に思慮をめぐらし、分別して処してきたので、だから勝頼公が本年で二十八歳の若さだというのに、この御大将を失敗に追いこまずに支えられたのだ、と馬場美濃守は、はじめて誇らし気に言ったものだ。この御帰陣のおりに遠州諏訪原城(牧ノ原城)を落城させた。馬場美濃守、典厩両大将の縄ばりである。以上。 『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)天正二年(1574)二月 勝頼公、東美濃へ発向天正二年(一五七四)甲戊二月中旬に、勝頼公は五カ国の軍勢を召集して、信長軍に対し進攻した。信玄公の御代に、東美濃の岩村霧ケ城(岐阜県恵那郡)を攻め落して、その城代に秋山伯耆守(信友)がおり、信州の先方では座光寺(飯田)をはじめとする三頭、合わせて秋山耆守ともで四将、二百五十騎あまりが右の城の守備に命じられていて、郡代も秋山伯耆守であった。◇織田信長と勝頼・秋山伯耆守の確執◇ この秋山伯耆守は、居城下の美濃の侍、岩村殿(遠山左衛門尉景任)の後家を妻としていた。その後家は織田弾正ノ忠(織田信秀)の妹で、信長にとっては叔母に当るので、内密のうちにいろいろと信長から伯耆守の方へ和睦が申し入れられた。だが、伯耆守は少しも受けないので、信長から配下の美濃先方の侍衆で、小城をかまえている人々にむけて、信長衆を十騎ばかりづつ、警備に廻して補強し、ほかに砦も造り、全部で十八カ所とした。秋山伯耆守を押えこむためのそうした策は、そのころは美濃に岐阜、信長の居城があるから、用心のために多くの城を領有しようとしたのだ。けれども岐阜へ上道(京都までの里程)七八里近くまで武田勢が浸透し、秋山耆着守が焼き払う働きを続けた。ことに勝頼公が、出馬されるにおよんで、二月半から四月上旬までの間に、信長が築いた砦、あるいは美濃先方衆、信長に降参した人々の城十八すべてを、勝頼公の御代に攻め落したのだった。◆ その城は苗木・神箆・武節・今見・明照・馬籠・大井・中津川・鶴居・幸田・瀬戸崎・振田・串原・明智、これらの城を占拠して遠山与助(勘右衛門)を攻めにかかったが、このとき信長は六万あまりの軍で後陣をしいた。◇ 明智(恵那)の向かいの鶴岡というところへ、信長軍の先鋒が陣を張った。山県三郎兵衝の軍は与力や予備軍も合わせて六千の兵力で、予定通りの戦力で道筋を制圧していった。◆ 信長勢はそれを見て、山県勢の左の方へ廻りかげて攻めるとみせて、信長勢は早次退却した。◇ 山県衆は笠にかかってその退却をくいとめようと追跡する。上道四里を、山県衆は六千の軍で、信長勢六万あまりを追ったことになる。けれどもそれ以降は山県が命令を発して追わなかった。◆ そのあとまた信長は上道の里程で四里程後退して陣をしいた。信長勢は山県三郎兵衝をおそれて都合八里におよぶ後退をしたわけで、明智の城を簡単に勝頼公に明け渡した。信長を警備していた十六騎のうち九騎を討ちとった。残り七騎は逃がれた。その後、飯羽間(いいばざま)の城へ、信長川中島衆のうち三軍勢をもって攻めた。◇ 馬場美濃、内藤修理をはじめ家老衆がそれぞれ申し上げた。この飯羽間の攻めはこの度はとりやめて次に廻し、早々に引き上げた方がよい、と勝頼公に諌め申し上げた。あまり完全に攻めるのはどうかというのである。◇ そこでまた長坂長閑、跡部大炊助が申し上げる。各家老衆の提案はいかがなものであろうか、やはり飯羽間の城一つばかり押えてみてもしかたのないことです、と申す。◇ 勝頼公も長閑・大炊助の言うことも、もっともだと裁定を下す。そこで牢人衆の名和無理介・井伊弥四右衛門・五味与三兵衛の三人をはじめ諸浪人が訴え願い出て、御代が替わったのを機に浪人衆に御奉公として飯羽間の城を攻めとらせていただきたい、と進言におよんだ。これを聞いて、御旗本近習衆・外様近習衆のそれぞれが、御代替わりに、我ら旗本勢がこの城を落したいという。そもそも御家老衆が、攻めはこれで十分とお考えになるのはいったいどういうことか。遠慮する態度は内々のことでよい。数カ所の要害を皆落した後で、この飯羽間だけを攻めないでそのままにして置くというのでは、敵勢の情報の拠点となる。それを浪人衆が攻め落そうと婆言するについては、統治に関する重要な所も浪人衆にさせるといった評判が諸国におよんでは、勝頼公の御ためにどんなものかと案じ申す。だから是非ともその城は御旗本勢に命ずべきだという。これももっともだと長坂長閑・跡部大炊助も合点し、すぐに申し上げる。勝頼公、熟慮されて御判断なされよという。旗本の意向を聞いて城を攻め、とりまいた先鋒勢は、あの城は御工夫なされて攻めるべきだと言っていたが、牢人衆・近習衆がきそって攻めたいと願い出ているので、先鋒方衆はおくれては恥とばかりにすばやく攻勢に出て、瞬時のうちに飯羽間を落してしまった。信長より派遣された警備衆十四騎の武者も一人残らず討ちとり、飯羽間右衝門を本城の蔵へと追いこんで生捕ってさしあげたので、勝頼公は上機嫌であられた。各々大小上下とも武田勢は言い合ったものだ。御代替わって飛ぶ鳥を落す勢いの勝頼公、その御威勢は勇ましいものだと。 そして足軽・かせ悴者(かせもの)・小者ども下級侍たちは歌をつくって唄ったものだ。その歌とは信長は いまみあてらや いひはざま 城をあけちとつげのくし原(信長は今見・明照・飯羽間・明智といった城を明け渡すまいと浅はかにも告げたが、串原の砦も落ちて、黄楊櫛のようだ)こう謡ったが、甲州・信濃の下劣な言葉で、〃あてら"は浅はかなことをいうので、今見・明照といった城にかけて言ったのである。四月上旬に御帰陣となった。