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2021年11月10日
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白州町の歴史・史跡 曲淵氏(白州町誌)
 甲斐国志士庶部に「軍鑑ニ云フ曲淵壮左衛門(勝左衛門吉景・庄左衛門)ハ初メ鳥若卜云フ、板垣信方ノ僕ナリ、挙テ同心トナシ後山県氏ニ属シ勇功世ニ顕ハレタリ。天正十壬午年(1582)幕府ニ謁シ武川衆並ビニ召出サル、
編年集成ニ云フ天正十八年(1590)相州中村筋ニテ荘左衛門吉景ニ五百石賜ハル。片嵐村(現在は白州町花水)清泰寺ニ位牌ヲ置ク、広略院良臣玄張居士、文禄三午年(1594)十一月廿三日没ス」とある。
 寛政重修諸家譜に「庶流曲淵叔五郎英敦が捧るところの旧記を按ずるに、頼親の流にして朝日左衛門尉頼時が後胤、縫殿助頼定より曲淵を家号とし、其の子を若狭吉高とす、吉景はその男なりという」とある。
 寛政垂修諸家譜によって、その系譜をみると次のようである。
吉景勝左衛門
-吉清 助之丞 縫殿左衛門(筑後)別家となる。
曲淵叔五郎英敦が祖―吉重 助之丞
「甲斐国志」に
「慶長四亥年(1599)十二月、縫殿左衛門吉清始メテ拝シ、平岩主計頭ニ属シ、同六年本州ニテ釆地八拾石給フト云フ、吉清ハ清泰寺ノ位牌ニ風仙宗徹居士、元和五末九月朔日没ス」
とあり、
「また曲淵市郎右衛門ノ由緒書ニ吉清後筑後卜称ス、助之丞吉重ノ父ナリ、父子慶長中甲府勤番ヲ勤ム」とある。
-吉時 勝三郎     
武田信玄に仕へ、永禄六年(1563)二月二十六日上野国蓑輪にて討死、年十九
-正吉 彦助 勝左衛門―正次 彦助 勝左衛門―正長 彦助 勝左衛門
 -吉資 
七左衛門    
文禄二年書景が遺跡のうち相模国の内において三百石を分与せらる
-吉房 助左衛門    
文禄二年吉景が遺跡相模国の内において百石の地をたまう
-正行 勘右衛門    
実は下津某が男、吉景の養子となる多病にて終身仕えず
-信次 甚右衛門    
実は青木尾張守信親が五男、吉景に養われて、その女を妻とす
 
曲淵吉景、勝左衛門(庄左衛門)
 「武田三代軍記」に、天文十七年(1548)二月上田原の合戦には板垣信形(信方)の軍に属し「甲府勢には曲淵正左衛門、三科肥前守、広瀬郷左衛門など一騎当千の勇士一番に鎗を入れて戦えば」とあり、元亀四年(天正元年・1573)二月野田城を陥れ、吉田城を攻略する項に
「味方には曲淵圧左衛、長坂十左衛門、辻弥兵衛、三科肥前守…我も我もと馬を乗り放って鎗追取り取り人に先を越されじと塀際に近づく」
とあって余程の勇者であったようである。
 武田信虎および信玄・勝頼につかえ、甲斐国武川谷に住し、天正十年(1582)三月勝掠没落ののち剃髪して玄長と号す。
ときに織田右府(信長)より武田家の士を扶助することを禁ぜらるるといへども、東照宮ひそかに武川の者どもに月俸をたまひ遠江国桐山の辺に居らしめらる。吉景もその列にあり。
六月、右府ことあるののち北条氏政氏直等計策を設け武川のものを味方に招くといへどもみなこれに応ぜず、
七月、東照宮甲斐国に御発向のとき御麾下に列し、武川のものと共に御先手に加はり、信濃国の境小沼の小屋を攻め破る。 
やがて新府に御着陣のとき吉景・正吉父子ともに拝謁し本領をたまふ。
八月六日北条家と若神子において御対陣のとき敵近くよせきたるを御覧ありて、誰にても斥候して鋏抱をうちかけよと0仰ありしかどみな猶予して進まず、よりて吉景参れとの台命により、三男彦助正吉とともに軽卒を率いて馳せむかい、敵の様をうかがひ山上強右衛門某と詞をかわし、相戦うさまを台覧ありて、武功の老の振舞みなみよと仰あり、このときの上意に、吉景老たりといへども武辺のありさますこやかなること比瑛なし、正吉も父に劣らぬ若者なりと御感をこうむり御判物をたまう。
天正十七年(1589)重恩の地をたまひ、天正十八年(1590)八月関東にいらせたまうとき相模国の内において釆地五百石をたまう。
文禄三年(1594)十一月二十三日死す、年七十六、法名玄長、相模国足柄郡増色村の玄長寺に葬る。(寛政垂修諸家譜による)。
このことについては甲斐国志に
「家忠日記ニ北条氏直若神子ニ張陣ス、曲淵勝左衛門父子斥候ニ出テ功アリ御感状賜ハル」
とあり、また
「吉景死スル時願いニヨリテ遺領五百石ヲバ次男七左衛門、助左衛門、勘左衛門三人ニ分ケ賜ハル」と記している。
曲淵吉清(縫殿左衛門、筑後)・吉重
甲斐国志に
「慶長四亥年(1599)十二月、縫殿左衛門吉清始メテ拝シ、平岩主計頭ニ属シ、同六年本州ニテ釆地八拾石給フト云フ、吉清ハ清泰寺ノ位牌ニ風仙宗徹居士、元和五末九月朔日没ス」
とあり、
「また曲淵市郎右衛門ノ由緒書ニ吉清後筑後卜称ス、助之丞吉重ノ父ナリ、父子慶長中甲府勤番ヲ勤ム」とある。
〔吉重〕 
吉重については甲斐国志に
「助之丞ハ本州ノ御代官ヲ役ス、文書等今伝ル所アリ、慶長郷村帳ニ二百二拾六石七斗四升片颪村曲淵助之丞とあり、清泰寺ニ嘉嶽宗英居士、寛文八申(1668)十二月十四日没ス」とある。
青木
尾張守の女を妻とし、清蔵、助之丞、雨宮権兵衛(雨宮勘兵衛の姉を妻とす)の三男子があった。
 「寛政垂修諸家譜」
「吉景の長男、父とともに甲斐国武川谷にあり、天正十年(1592)より東照宮につかえたてまつり月俸をたまい、天正十七年釆地をたまう。のち相模国において釆地二百二十石余をたまう。慶長五年(1600)信濃国
上田城を攻めたまうとき台徳院(秀忠)殿にしたがいたてまつり、大久保相模守忠隣が手に属し、のち相模国の釆地を旧領たる甲斐国にうつされ、武川津金の者とともに甲府城を守衛す。其の後駿河大言納忠長卿に附属せらる。
元和五年(1619)九月朔日死す、年七十五、法名宗徹、片颪村清泰寺に葬る」とある。曲淵筑後書清、助之丞吉重父子は甲府城番時代武川十二騎として城番に勤務したのである。
曲淵正吉、彦助、勝左衛門
武田勝頼につかえ、天正十年(1592)父書景とともに東照宮の御麾下に属し月俸をたまい、八月六日甲斐国若神子において父書景とともに斥候におもむきて戦功あり、この月諏訪安芸守頼重したがいたてまつらずして龍城せしかば、大久保七郎右衛門忠世、柴田七九郎康忠仰をうけてかの地にむかう、このとき正吉武川の士とともに嚮導となりてかの城を攻む、城主頼忠偽りて城を渡さんと乞う。両将信じてすみやかに軍を収めんとす、
正吉とどめていはく、城中の旗色を察するに戦いをふくむに似たり味方くりひきにしてこれにそなへんといさめしかども、敵の小勢をあなどりおもい思いにひきとりしかば、案のごとく城中より兵を出してこれを追うこと急なり、正吉武川のものとかへしあわせ乙骨(長野県富士見町)において城兵をうちやぶる。これによりて惣軍もとのごとく備を整う。十二月七日、平井名取において本領及び加恩の地をあわせ五十貫文の地宛行はるべき旨の御朱印を下さる。
 天正十三年(1585)八月、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親書等に属し真田昌幸がこもる信濃国上田城を攻め、すでに囲をとかんとせしとき城兵跡を追い討ちて出しかば、正吉武川のものとおなじく殿して功ありしにより一紙の御書をたまい、十七年釆地を加へ賜はり、関東御入国のとき武蔵国鉢形領において釆地百五十石をたまう。文禄二年(1593)父吉景病篤きにのぞみ、遺跡を正吉に譲らんとすれど、正吉は別に釆地をたまうにより辞してうけず、弟七左衛門吉資に三百石、助左衛門書房、甚右衛門信次に各百石をわかち与える。
 慶長五年(1600)関ケ原の役にしたがいたてまつり、慶長九年(1604)三月三日武蔵国のうちにおいて釆地八十石を加へられ、すべて二百三十石を知行す。のち大飯両役に本多正信が手に属してしたがいたてまつり、元和二年(1616)致任し、寛永十二年(1635)十一月二十八日死す、年七十六、法名宗樊樊、要は折井淡路守次昌が女(寛政重修諸家譜による)。
 甲斐国志にも、武川衆にして天正二十年(文禄元年・1592)家康関東移封に際し、武蔵国鉢形にいたる。慶長八年(1603)家康征夷大将軍となり江戸幕府を開くにあたり、第九子徳川義直が甲府城主となり平岩親吉が城代となった。武川衆はそれとともに慶長九年(1604)旧地武川に復帰し「武川衆御重恩之覚」として、それぞれ釆地を賜わった。その武川衆十四人の一人が曲淵勝左衛門(庄左衛門)正吉であると記している。
曲淵書房 助左衛門
曲淵勝左衛門吉景の五男、はじめ書房のち吉次に作る、文禄二年吉景が遺跡相模国の内において百石の地をたまう。時に四歳。のち台徳院殿(秀忠)につかえ、元和九年(1623)駿河大納言忠長卿に附属せらる。寛永元年(1624)正月十七日死す、年三十五、法名日心、四谷の西迎寺に葬る。その子行明(小十郎)大猷院殿(家光)に仕う
曲淵信次 源次郎 甚右衛門
曲淵勝左衛門吉景の養子、実は青木尾張守信親が五男、天正十九年(1591)めされて相模国足柄郡の内において釆地百十石余をたまい、仰によって武川の者とおなじく東照宮に仕え、文禄二年(1593)吉景が追跡相模国の内において
百石の地を分与せらる。
のち関ケ原の役に台徳院殿(秀忠)中山道より御発向のとき従軍し、真田昌幸がこもれる上田城を攻む。十九年大阪の陣にしたがい、元和九年(1623)駿河大納言忠長卿に附属せられ、寛永四年(1627)三月十日死す。年五十七、法名芳春、妻は曲淵勝左衛門書景が女、
 その子信貞、源二郎、源五左衛門、元和元年(1615)めされて台徳院殿(秀忠)に仕え、小十人をつとめ廩(くら)米百五十俵をたまい、寛永三年(1626)の上洛に際して付き従い、のち百俵を加増せらる。其の後御納戸の番士にうつ
り、承応元年(1652)二月十三日組頭にすすみ、寛文元年(1661)十一月二十一日務を辞し、小普請となり、三年(1663)正月六日死す。年六十六。法名良心、四谷勝興寺に葬る。
押越村(昭和町)に曲淵という小字がある。甲斐国志古跡部に「本村本妙寺:古碑存セリ、享保中曲淵下野守勤番支配タリシ時、此ニ詣シテ祭奠ヲナスト云フ」とあり、曲淵下野守景衡は享保十年(1725)十月十八日より同十二年(1727)七月六日まで甲府勤番支配であったので、その時のことであろう。
【註】この記載事項は一部
白州町の歴史・史跡 白須氏(白州町誌)
 一条源入時信が武川衆の祖にして、その第三子貞信が白須三郎を称したと記しておいたが、「寛政重修諸家譜」では次のように述べている。
家伝に其の先、新羅三郎義光の庶流にして一条上野介貞信がとき白須を称すという、「官本尊卑分脈」に武田太郎信義が男一条次郎忠頼あり、また武田大膳大夫信光が男に一条六郎信長みゆ、その子孫上野介貞信なるもの所見なし、
としてこれを否定し、
按ずるに信光が子武田小五郎信政が四代の孫甲斐守貞信、その二男を上野介貞政という、家伝に上野介貞信というは、もしくは貞信・貞政父子の名を混ぜしかといい
しかれども貞信父子に一条の称号見えざることはうたがうべきもなきが故に、しばらくこれをしるして武田庶流の下に記す」として、一条時信を祖とする武川衆でなく、信長の兄信政の裔であるとしている。
 「姓氏家系大辞典」では「清和源氏武田氏族、甲斐国北巨摩郡白須より起りしなるべし。
「武田系図」に甲斐守信長―八郎信綱―甲斐守時信―貞信(白須次郎)と見ゆ、
「一蓮寺過去帳」長禄元年に白須蔵人、
「太平記巻」三十一に(観応三年・文和元年 1352)白須上野守あり、此の族か。寛政系譜に白須氏二家を載せたり、其の家伝に一条上野介貞信の後なりという、家紋亀甲の内輪違」と述べている。
 「甲斐国志士庶部」白須蔵人の項
府中一蓮寺ノ過去帳ニ法名ハ老阿、長禄元年(1457)十二月廿八日小河原合戦討死ノ内二見ユタリ、余ハ名ヲ全ク記セザレバ挙ゲス」と言っている。誠に不明な点が多いわけである。
しかし国志は他の資料によって、その事績を次のように述べている。
 「太平記」観応三年ノ条二甲斐諸将ノ中白洲上野守アリ、軍鑑長篠ノ役典厩信豊モ馬乗ハ只三騎、慕フ敵ヲ追払ヒ追払退キ玉フ、「甲陽伝解」ニ白須又市、青木主計、横手源七郎三騎ナリ、始メノ返シニ主計ハ討死トアリ。 
白須平次ハ又市ノ男、竹重信勝ノ小姓也。武家盛衰記ニ壬午ノ(天正10年)後幕府ニ召出サレシガ小姓衆卜口論アリテ御旗本ヲ立退キ、稲葉蔵人道通ニ依頼シ名ヲ又兵衛卜更メ後ニ家老トナル。関ケ原ノ時勢州岩手ニ於テ九鬼方堤荘蔵卜戦ヒテ功アリ、同藩種田喜左衛門ノ二男金三郎ヲ婿養子ニシテ白須十郎兵衛ト云ヒ、食禄五百石ヲ譲レリ。慶安中稲葉紀通ノ家断絶シテ白須ノ子孫ハ豊州(大分県)臼杵藩ニアリト云





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最終更新日  2021年11月10日 10時49分56秒
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