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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月04日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

松姫と千人同心 八王子の由来と要塞ぶり 

 

『歴史考証辞典』 第五集 稲垣史生氏著 昭和62年 発行

 

 八王子は地名にしては、いかにも由緒ありげなひびきを持つ。誰かの王子に囚むものか。仏典の

中にこの「八」の数字のつく語彙が、二百五十以上もあるという。たとえば「八皇道」「八大竜王」、

さらに「四天八王子」があり、この八王子の一人が「一切養成太子」、すなわち仏陀である。八王

子は、なにしろめでたい名に違いない。

 

ところで八王子の開祖は誰か。

 南多摩郡元八王子村字神護寺の曹洞宗宗関寺所蔵の古文書によれば、華厳菩薩なる華厳政経の大学

憎が諸国巡錫中、この地にとどまり華厳ケ谷に庵を結ばれた。だが、徳を幕う訪問者があまりに多いので、山頂の巌窟に籠ると、ある夜猛烈な嵐と雷鳴に襲われた。そしてふしぎや巌上から白色の大蛇が、八入の玉子を伴って這い寄って来た。

 名を聞けば大蛇は、「我は牛頭天王」と答え、八人の王子を託していずこともなく消え失せた。

延喜十六年(九一六)四月十五日のことで、時に菩薩は五十七才。すぐさま八人の童子を、天王嶺をはじめ八王峯を選んで、「八王子権現」と称した。これが「八王子」の名の起こりでもある。

 

 時代は移り織田の世、小田原北条三代目氏家の次男氏照が、東化の渡りとして永禄五年(一五六二)、城を築いた。仏教への信心厚く、八王子城内に朝遊軒なる修行道場をつくって禅学に心酔していたという。

 しかし、乱世では禅学も効なく、天正十八年(一五九〇)、本拠の小川原城が秀吉に囲まれ、籠城したのはよかったが、ねばり切れず開城した。

 城主は兄の氏政だったが、弟の氏照も副将格で切腹、その代わり龍城した諸将はゆるされてそれぞれ居城へ帰った。

 ただ、八王子城のみあるじを失ったので、秀吉の直臣大久保忠世が入り、降伏した北条の旧家臣を統治した。のちに家康が江戸へ入り、関八州を支配するとともに、八王子はその統治下に移されて家臣の権勢下に入った。

甲州口から八王子を守る柳沢の柵は、豪放尼崎義高が守っていたが、他の豪族同様、否応なしに家康の支配を受けた。

 「ここは江戸城北方の関門、めったな者を通したら容赦せん」

 巡察に来た家康からきつく言い渡され、尾崎義高は背筋を冷たくした。旧八王子城主の北条氏照が、いやいや切腹した様を思い出したからである。

 

話はこれより八年前に遡る。すなわち天正十年三月、北方の雄、武田勝頼が天目山に滅びた。

乱世の目まぐるしさ、その年六月二目には、信長が本能寺で明智光秀に討たれている。秀吉が急進、備中高松から駆けつけて先手を討ったが、その間に、家康は甲斐へ兵を入れて武田家滅亡のあとの戦後処理に当たらねばならなかった。

勝頼自害の翌七月三日には浜松城を発ち、江尻・大宮を経て八代郡精進に進み、九日にはもう甲府に着いている。

 さらに十二日には本巣(本栖)、二十四日に柏坂、八月十日に新府(韮崎)、二十日に古府(甲府)に着き、戦勝の盃をあげるという忙しさだった。しかし、何と、その多忙の中にも好色家の家康は、名将信玄の六女松姫の探索を片時も忘れなかった。松姫は当時二十二才で、信玄が眼の中に入れても痛くないほどかわいがっていた姫君であった。

もちろん、絶世の美人だが、それより新羅三郎義光の末裔という、毛並みの良さが家康にはたまらない魅力だった。

 「松姫を探せ。松姫を・・・・・」

 さすが戦勝者の厳命であった。幾日も経たぬのに、

「私がお尋ねの松姫でございます」

 と悲嘆のうちにも上﨟たけた姫君が、駕龍で家康の本陣にあらわれた。いかにも信玄の娘らしく、

悪びれるところもなく家康に謁見した。

 「よう参られた」

 と家臣は相好を崩し、はじめて戦勝者の喜びを味わった。

 ところが、いったいこれは何としたことであろう。二、三日するとまたしても、

「私が松姫でございます」

 と名乗り出た女がいた。松姫が二人!!さすが家康も尻餅をついた。

 どちらかが本物なのだ!!

 

千人同心の暮らしと任務

 

家康は別々に会見した。どちらも美しく、しとやかで、真偽の判定はつけられなかった。双方、

松姫というならそれでもよい。両手に花で家康は、二人を松姫として浜根城へ連れ帰った。

『武徳編年集成』によれば、帰国に当たって家康は、

 

「武田家の小人頭屋胤従、荻原昌友、石坂森道等に命じて武州八王子郷に居住せしめ、甲州境小仏口を守らしむ」

 

 とある。また、『桑都日記』大正十八年七月二十九日の条に、

「命あり、甲州小人頭及び小人組二百五十人を武州八王子郷に移して甲州口の保障と為す」

 ともある。 

自称松姫のほかに、甲州勢の中からも役立ちそうな侍を採用して連れ帰っている。なぜ彼らを浜松ではなく、武州八王子へ派遣したかといえば、小田原落城まえに家康は、秀吉から武州江戸への転封を命じられていたからである。

 当時、江戸はまったく荒蕪の地で、築城と城下町の建設を急がねばならなかったし、八方を敵性国に囲まれて油断がならなかった。特に仙台の独眼竜伊達政宗に、海から攻められてはひとたまりもない。その場合は武蔵野のジャングルを掻き分け、甲州路へ侵入するのが家康の腹積りらしかった。逃げ道確保のため、やたら八王子の兵力増強を計ったのだ。二百五十人の小人組はいつか千人となり、「八王子千人同心」とも「手槍隊」も、また「長柄同心」とも呼ばれて幕府の職名となった。御槍奉行に属す番方(武官)で、任務の重さから老中支配に属する。

 その編成は、総員千人を十組に分け、各組に組頭および世話役を十人ずつおいた。その総指揮官を「干人頭」といい、役高二百俵で俗に「御頭」と呼んでいた。お頭以外は「同心」または「平同心」で、一般には甲州から来た武田の遺臣だったが、中には土着の農民で、由緒正しい者も加わったので、八王子を中心に四里四方に住んでいた。

しかし、集中して住んだのは今の千人町で、組屋敷のように並んでいたのでこの名を生んだ。

 ところでこの辺まではいいのだが、千人同心は戦時に甲州口を守るだけ、あとは武術の稽古とあくびの遅発。そうなると千人同心も、ろくなことはしない。八王子上館から大戸橋をわたって町田市

へ抜けるところに「恋路の坂」という艶しい名の坂がある。これはむかし八王子千人頭の某が、不義密通を働いた娘と、相手の宗匠をこの峠へ連れて来て、無残にも首をはねたところだといわれる。ふたりの遺骸を葬った塚は旧道の東にあり、「千人塚」と名づけられた。とんだところで隊名を汚している。

 

 これではいかんというわけであろう。承応元年(一六五二)六月から新任務が与えられ、日光東照  宮の御霊屋修復、霊廟警備および火消役を特命した。五十人ずつ、年二回交替でつとめるのである。

 これはいい。神君のお側近くでは、妙な行為は恐れ多くて出来ないから……。

 日光山内の東照宮警備のため、神橋口をはじめ十一ヵ所の一番所があった。千人同心の勤務心得と  いうものがあり、それを見ると、まず魚鳥の肉は絶対に食べてはいけない。それに、女人は神域へ入るどころか、近づいてもいかんからよく見張っていろというのである。単身赴任の千人同心は、この一カ条には困ったらしく、飯焚き女、洗濯女の名目で、だいぶ怪しいのが出入りしたようす。

 男はどうも浮気で困る。

 

しかし警備の巡回コースがきまっていて、規定どおりやるとなかなかの激務だったという。

 激務というのは例の赤鎧を着て歩くからだろうか? これは目元についての最高の愚問だそうで、パトロールには千人同心も禰宜さんと同じに白衣を着たそうである。

 現代人の知識では、すぐ祭礼の日の千人行列を思い出す。千人だからてっきり八王子の千人同心を連想し、神君の御霊日光へご返座のとき、警固に当たった千人同心の再現だろうと早合点する。

 ばかな話で、「井伊の赤備え」じゃあるまいし、敵もいないのにぞろぞろ千人の警備がつくわけもなし、人数もまだそんなに揃っていなかったであろう。

 現在、日光の祭礼千人行列の赤鎧は、祭礼用に作った玩具同様のもの、全然、重くも窮屈でもない。その代わり斬られたら鎧もろとも真っ二つなりますぞ。ご用心。

 

「槍売りのしきりに通る時があり」  古川柳

  

「勧進帳」の千人組新版

 

 ふたたび話を天目山の武田方敗戦にもどそう。

 

武田勝頼夫妻は韮崎を追われ、古府(甲府)を追われ、武蔵との国境天目山をめざして敗走していた。天目山の麓の豪族小山田右兵衛尉は裏切るはずのない臣だったし、山中の寺々の憎も武田家には重恩ある者どもだ。まず寝返りはあるまいと、最後の拠点と信じていた。それなのに、勝頼の一行が近づくと、がらりと態度が変わった。要所、要所に見張りをおき、一人も逃さじと待ち受けているのである。

 「もうこれまでじゃ。ここで果てよう」

 かつて織田・徳川を向こうにまわして戦った勝頼も、主従三十三人、山麓田野の観音堂で自害して果てた。

 ところが、信玄公の六女、本物の松姫だけは名家の滅亡を悲しんで逃げた。何としても生きのびよう。家臣石黒八兵衛と、同胞竹阿弥に助けられて藻は天目山の臭ふかく逃げこんだ。

 天目山は甲武信岳に連なる巨峯で、丹波山・雲取山が前後に峨々とそびえ立ち、松姫の前進の歩を拒んだ。夜は不気味な山犬の鳴き声におびえ、何度蔓草に足を掬われたことか、気息奄々、一刻も早く甲州をあとにしたかった。

 ようやく天目山の奥を出て、栗原の海洞寺に置き、永い間の苦労と悲しみを忘れようとしたが、とても忘れられるものではない。特に家康は松姫の肉体を狙い、甲州全域に、発見したら届け出よと厳命しているという。ただわずかの慰みは、そんななかでも旧家臣の妻と美しい甲州女が、「自分こそ松姫」と名乗り出たという噂を聞いたことである。家康はその二人をそのまま、本物の松姫として江戸へ伴ったという。

 それにつけても甲州に留まるのは危ない。国を出て武州(あん)()山に潜伏の後、同朋すがたの竹阿弥に様子をさぐらせた。当時、八王子千人組はまだ発足していなかったが、相当数の旧臣が八王子に集まり、家臣との間に協力関係が生まれつつあることもわかった。

 しかし、まだまだ油断はできない。本物の松姫があらわれたとなれば、すぐ欲情の生贄にされるだろうし、偽者はただちに斬り捨てられよう。しかしいつまでも山中にいるわけにはいかず、勇気をふるって山中を出ると八王子をめざした。

 しかしその問には柳沢の柵がある。そこには家康に帰順した尾崎義高が依然、関守として眼を光らせていた。今、家康の機嫌とりに、松姫の逮捕・献上は最高にして無上の材料であった。姫は髪を解き、短く切り、勇を鼓して柳沢柵にさしかった。

 そこには番所があり、捕物三つ道具が飾られており、立派に八工子への関所であった。

 「何者か」

 と番士が型通り訊問し、石黒八兵衛以下の笠を取らせた。竹阿弥はすぐ饅頭笠を脱いだが、さすがに松姫はためらい、笠のまま石黒の背後にうずくまった。

 「これ、なぜ笠を取らぬ? 笠を取って面体を見せよ」

 番士が怒って笠をもぎ取ろうとするのを、石黒がさえぎって持参の杖でひたひたと松姫の背を打った。「この茶坊主め、はきはき動くかぬからお番士の疑いを招くのじゃ。身にこたえたか。こたえたか」と打ちつづける。騒ぎを聞いて関守の義高が現われ、事情を聞いたあと思い入れあって、無事関

所を通したところは芝居の「勧進帳」そっくりであった。

 松姫は無事八王子城下へ入り、応源寺に入って修行した。新八王子城主大久保長安が姫の正体に気づき、さっそく家康に報告したが、ただ微笑みが返ってきたにすぎない。

 「何を言うぞ、長安。松姫はとっくに大奥へ入って、わしの寵愛を受けておるわ」

 松姫はのちに精進を認められ、信松院の庵主となって一生を終えた。特に草庵の外に千人同心が詰めかけ、号泣の声は天地に満ちたといわれる。信松院には今も松姫の木像が残されている。

   






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最終更新日  2021年12月04日 05時43分30秒
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