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2021年12月14日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
「武田勝頼の最期」『家臣の叛乱』
(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆)
天正十年二月末となった。
穴山梅雪入道雲殿は、一年ほど前から家康と内通しており、また駿河侍の岡部二郎右衛門も家康に通じていたため、この一味が勝頼公に叛いた。穴山梅雪の奥方は、勝頼公の姉上にあたられるが、その子息勝千代殿を、勝頼公が婿としなかったことを恨んで、甲府から本拠の下山へむかう三十里の道は穴山殿の領分であるから、引き揚げるのは至って容易だった。
 この報せが諏訪の陣中に届き、穴山殿の反逆が知れわたると、典厩信豊をはじめとする多くの人びとが、お屋形勝頼公をお捨てして、それぞれの本拠に引き払ってしまった。このため勝頼公のお旗本もあらかた逃げ散って、わずか千人ほどの人数となり、韮崎の新府中城につく。
だが、ここは去年秋からの普請で未完成であり、百人とは籠れぬ状態なので、またまた評定が行なわれた。
「武田勝頼の最期」【御曹司太郎信勝殿の考え】(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆)
 すると、御曹司太郎信勝殿が当年十六歳ながら賢いお方で、次のように仰せられた。
「勝頼公は、甲州一国のうちによい城がなく、古府中のお館も堀一重の屋敷がまえであることを、信玄公のお考え違いとそしり、日本国にかくれなく、唐国にまでその名のとどろく法性院信玄公を非難されました。そして勝頼公をはじめ、長坂長閑、跡部大炊の介、秋山摂津守、典厩信豊などの人びとが、こればかりは信玄公のお誤りであったなどと悪口しては、この城をかまえられたのです。いまになって未完成であるからと、ここを捨てて古府中に戻られるのは、武門の者の名折れであります。まして古府中のお館をことごとく取りこわし、信玄公まで武田二十七代より伝わる泉水の植木の、一かかえ、二かかえある名のある松の木まで切り倒されたというのは、跡に心を残さず、この城に早く移られるためであったと聞きます。すでに古府中に戻ろうとも、どこにも籠るべきところはございますまい。山小屋などに逃れるよりは、この未完成の新府城においてご切腹なさいますように。この期に及び、どこへ行ってよい目をみようとなさるのでしょうか。武田の御旗、楯無の鎧を焼き、この場で尋常にご切腹なさるべきと存じます。ただ、私はこのような場合、ものを申しあげにくい事情がございます。それはこの信勝の母の縁により、信長からは甥・城介信忠とは従弟にあたりますゆえ、お諌めすることができないのでございます」
 だが、勝頼公はじめ、みなの者は、信勝公にご返事もしなかった。
「武田勝頼の最期」【真田・小山田・地域人の裏切り】(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆)
 真田安房守は、上州吾妻におこもりになるようにと申しあげたが、長坂長閑は、真田家は一徳斎幸隆以来、わずか三代召使われた侍大将であり、それよりはご譜代の小山田兵衛が申し出た郡内岩殿へのご籠城がよいと判断、この旨を勝頼公に申しあげた。
 そこで勝頼公は新府をお立ちになり、古府中に向かわれる。
 その途中、お使役の小者たちが、長坂長閑を槍でたたいてやれなどという。これは日ごろ長閑のために知行を横取りされていたためであった。
【三月三日 家臣の造反】
さて、ご一行は古府中におつきになり、一条右衛門太夫殿の屋敷に入ったが、三月三日の朝、下級の侍たちが自分の住居に火をかけ、山中に逃げこもうとして、甲府の西、東、北は帝都の山中や御嶽方面、また穴山殿が坂道してこもった下山方面などへと散っていく。
各領内の百姓どもがいきり立ち、侍たちの女房子供を奪って強盗を働く有様となったので、お旗本の人びとはいうまでもなく、各在郷の侍たちも、男として女房子供の始末をつけるのが第一と、情なくも譜代の主君勝頼公にお援けすることも忘れて散っていった。西郡に領地のある者は東郡に、東郡に領地のある者は逸見へとむかった理由は、自分の領内の百姓たちが、日ごろ年貢を取られてきた仕返しに、領主の財宝を奪おうとしていたためであった。
 この有様に勝頼公も、三月三日、東郡勝沼をさして古府中をお立ちになったが、ご父子のお供を申しあげる人数は、もはや六、七百人でしかなかった。(後略)(品第五十七)
勝頼に従う者四十四人、武田家の最期、信長・家康の甲州入り
(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆)
【勝頼公討死の事】
小山田兵衛が郡内の岩殿にお連れしようとしたので、勝頼公は鶴瀬までおいでになり、そこに七日間滞在された。途中、柏尾で人家をうちこわせと命じられたが、これは源氏調伏の寺があったためである。ところが山伏たちは、それはできないと申しあげ、最早お足もとから反抗する者が出てくる始末となった。
 さて小山田兵衛は、鶴瀬から郡内の方向にどこまでも木戸がまえをこしらえた。人びとが、これほどういうわけかと尋ねると小山田の家来たちは、「勝頼公を岩殿へお迎えするからには、ただちに備えを作らねばなりません」と答えた。
 また、小山田八左衛門という、当時名高い武士がやってきた。この者は勝頼公ご秘蔵の者であったためお喜びになり、鎧をつけずにきたので勝頼公のお召替の甲宵を賜わった。八左衛門は次の間で、この甲曽を着用する。また、初鹿野伝右衛門は参らぬかとのお尋ねがあったので、「伝右衛門は恵林寺の奥の川浦というところで、鶴瀬に行くといったところ、土地の者どもが伝右衛門の妻女を人質にとり、鶴瀬に行くことはならぬ、もしどうしても行くのならば二度とここには帰さぬといい、もし無理に行こうとすれば妻女を殺そうとする有様なので、鶴瀬にくることはできません。すでにいずれの山里においてもこの通りであります」とお答えした。
【武田の落日 三月九日夜・十日 小山田八左衛門・武田左衛門佐信光殿が裏切り】
 ところが三月九日夜のこと、この小山田八左衛門と、勝頼公の従弟にあたる武田左衛門佐信光殿が申し合わせて裏切り、人質にとってあった小山田兵衛の母親を奪って、郡内に逃れようと、作っておいた木戸がまえから鉄砲を打ちかける。左衛門佐殿は小山田兵衛の妹婿、小山田八左衛門は兵衛の従弟だったのである。
 この裏切りによってお供の人びとはあらかた散り、残るはわずか四十三人となった。鶴瀬のさらに奥、田野という人家が七、八軒あるところをさして、十日の朝、勝頼公は出発されたが、お馬に鞍を置く者もいないため、侍大将の土屋惣蔵と秋山紀伊守が鞍を置いて馬を引き出す。
また亀の甲の御槍は、阿部加賀守と勝板公お守役の温井常陸守とでかついだ。
【武田の落日 三月十一日 勝頼一行滅亡】
 さらに十一日巳の刻(午前入時ごろ)には田野の奥、天目山の土民六千人あまりが一揆を起こし、辻弥兵衛という侍がその中の大将となり、勝頼公めがけて矢や鉄砲を打ちかけた。一方、信長からの討手は、川尻与兵衛、滝川伊予合わせて五千の兵力で攻めかかってくる。土地の者どもがそれを案内して、勝頼公の裏側にまわってきた。これを三度にわたって突き返したのだが、ついにかなわず、滅び失せられたのである。
【武田の落日 小宮山丹後守の忠義】
 さて、武田のご譜代小宮山丹後守は上野国松枝の城代であったが、信玄公の御代に、遠州二俣の城を攻めた際、鉄砲にあたって討死をとげた。その嫡子小宮山内膳は、父の丹後に劣らぬ武士であったが、長坂長閑、跡部大炊介、秋山摂津守、この三人と仲が悪かったため、勝頼公は内膳を憎まれて、おことばもかけられなかった。とくにその当時は、小山田孝二郎という侍と内膳の間にもめごとがあり、彦二一郎はお気に入りの者どもと仲がよかったため勝頼公によく、これに反して小宮山内膳はお受けが悪かった。
 この内騰が十日の朝、田野にやってきて「もの申そう」と案内を乞い、土屋惣蔵にむかって、勝頼公のお耳にはいるように、
「三代にわたって互いに信じ合っていたご主君は、人を見当てられたのか、見誤まられたのか。ご用には立たぬものと思われて押しこめられていた自分が、お供申しあげれば、お目がね違いを立証する結果となる。さりとて、お見当てになられたとおり、ここをはずして逃れれば、武士の義理にそむく。ままよ、ご恩にあずかったことはなくとも、お供申しあげよう」といわれた。土産惣蔵、秋山紀伊守をはじめ人びとが、涙を流して内膳をほめたのも、もっともなことであった。
【武田の落日 離反者続出】
内膳は土屋惣蔵の了解を得て、自分の母、子供、女房などを弟の又七に預け、逃れさせようとした。又七は帰るまいと思ったが、土星惣蔵が、「自分も、わが子供、女房を配下の脇又市に頼んで逃れさせた。又七殿も必ず内膳殿の母上、子供、女房たちを守っていただきたい」と無理にすすめて押し帰した。
 次に内膳が惣蔵にむかって「長坂長閑ほどうしたか」と尋ねると、「きのう鶴瀬において逃れた」と答える。跡部大炊介はと問えば、「これも昨日逃れた」。秋山摂津守はと尋ねれは、「十日も以前に逃れられた」 という。
「では、わが争い相手の小山田彦三郎は」と問えば「これも十日前に逃れた」と答えた。
 内膳は涙を流して、
「さてもさても、勝頼公はご運も末となられたことよ。お目がね違いのため、お取り立てになった者どもがすべて逃げてしまうとは」 と嘆いた。
 また十一日には、最後までお供したいとお約束申しあげたご婦人方二十三人そのほかに、すべてお暇を出された。
 また勝頼公の奥方を、石黒八兵衛とお坊主の何阿弥に申しつけられて天目山奥の部落へと落とされる。
【武田の落日 勝頼と信勝の最期】
勝頼公は信勝公にむかって仰せられた。
「信勝は武田重代のお旗と楯無の鎧を持って山道を越え、武蔵国に出て、奥州にまで逃れるように」
 これを聞かれた信勝公は、
「勝頼公は北条氏政の妹婿ゆえ、氏政も面倒をみられることと思いますので、ここからお逃れくださいますように。私は当年十六歳となりましたので、十年前の信玄公のご遺言どおりご家督を頂戴し、ここにて切腹をつかまつります」
といわれ、退かれる様子は少しもない。
そうしているうちに、いよいよ敵軍の旗が見えはじめてきた。このときその場には、ご婦人方とその介添えの小原丹後守、その弟の下総、金丸助六郎がいた。この助六郎はもともと金丸姓を名乗り、土屋惣蔵の兄にあたる。そのほかは勝頼公、信勝公を含めて四十三人であった。
 左側では土屋殿が弓を持って射られると、敵軍は多勢のため、無駄な矢は芸もない。
 勝頼公は自の手拭を鉢巻にされ、太刀をとって前にうしろに斬りつけられる。右には信勝公が、いまは十文字の御槍も捨てて太刀で戦われていた。
 やがて土屋殿は、矢が尽きはてて刀を抜こうとされたとき、敵の槍が六本、一時に突きかかってくる。勝頼公は土屋殿をあわれと思し召したか、側に走り寄って、左のお手で槍をはねのけ、六人の敵をたちまち斬り伏せられた。だが、つづいて三本の槍が勝頼公に突きかかり、喉に一本、脇の下に二本を突き通し、勝頼公を押し伏せて、お頸を取り申しあげた。
阿部加賀守は先刻の戦いで川端にて討死する。
【武田の落日 武田勝頼の首級】
 なお敵方は、はじめ勝頼公のお頸を見つけられなかった。それというのは、小原丹後がご婦人方の介錯をしたのち、毛髪を敷いて切腹したその頸を、勝頼公のお頸と思って公卿(白木の台)にのせていたからである。ところが尾張浪人の関甚五兵衛という者が、信玄公の御代から武田の足軽大将として、駿河用宗の城番を勤めていたところ、三年前から織田城介信忠殿に内通し、
寝返っていた。この者が勝頼公をよく存じあげていたため、召し出されてお頸をえらび出し、小原丹後の頸を捨てて勝頼公のお頸を公卿にすえたのである。
 勝頼公はご生前、つねに、
「たとえ大名であろうとも、追いつめられて腹を切るのは口惜しいことである。相手さえあれば斬り死にして果てたいもの」
と仰せられていたが、そのおことばどおり斬り死になされた。そのご様子は、太郎信勝公のお納戸奉行であった侍が、自分の領分の山村から山伝いに田野に出ようとしたところ、遅くなって地元の者たちにさえぎられ、田野の後ろの山にかくれてご最期の場をよく見ており、人に語ったものである。
【武田の落日 天正十年(壬午)三月十一日】
 天正十年(壬午)三月十一日、勝頼公は三十七歳、御曹司信勝公十六歳、土星惣蔵二十七歳で落命なされた。
お供申しあげた侍四十四人は、土星惣蔵、秋山紀伊守,小山田平左衛門、岡掃部、子息弥介、同お小姓十六歳、土屋惣蔵、金丸助六、秋山民部、同子息、お坊主円首座、阿部加賀守、温井常陸、小宮山内膳、小原丹後、小原下総、岩下惣六郎、小原下野、多田久蔵、大竜寺麟岳和尚、お鷹師斉藤作蔵、山居源蔵、お徒衆山下杢介、みない小介、ぬきな新蔵、これ以外はさらに調べて記す。徒の二十人衆まで含めて、このようにお供したにもかかわらず、その人数はわずか四十四人であった。以上。
【武田の落日 信長の頸検分】
 三月十一日に勝頼公、信勝公のお頸を取り、これを都に送るというので、信長はその途中、お頸を検分されたが、このとき勝頼公のお頸にむかって、
「そのほうの父信玄は、わが嫡子城介を婿に約束しながら、天下を望んで縁を破り、そのほかさまざまな裏切りをされたために、都へ攻め上ろうとしたところを天罰によって俄かに病いが重くなり落命された。信玄は在世のとき、たとえ頸となってでも都に上り、宮中に参上したいと願っていたとのことなれば、勝頼父子は都に上り、宮中に参上ののち獄門にかけられて、京わらべに見知られるがよかろう。信長もすぐあとから参る」と仰せられ、お頸を都に送られたのである。(品第五十七)          
武田勝頼、落日の序奏 『甲乱記』より
「殿、大変でござるぞ。高遠の城が墜ちました」。負傷し息も絶え絶えで、高遠城を必死に逃げ出したてきた者どもが、十人ばかりが勝頼の居る新府中へ逃げ込んできた。「昨日高遠城が落居しました。また主城を守る多くの者も打ち果てました。」と、事の顛末を申しあげた。新府城に籠る勝頼を始めとして居並ぶ諸将は大いに驚き慌てふためいた。
高遠城は、堅固の城であり、守る諸将も勇猛な者が多い。立て籠もる人々は、仁科五郎信盛を始めとして小山田備中守兄弟の他に率いる兵が千余人籠めていた。矢楯・粮物・鉄抱・玉葉なども十分にある。力を合わせて守れば、二十日間も、三十日間も城を守ることが出来ると信じていた。
その間に新府城の普請を進めてきた。又軍の僉議(せんぎ)以下落着くべしと評定ある処に、思いの外、急に、高遠落居との由を聞いて、勝頼公や諸将はすっかり力を落してしまった。
さては新府城にて、大敵を迎えることも大切なり。何処かへ一旦引退き、北の方を始めとして各妻子たちを隠し置いて、ここで防戦を成し遂げる話し合いもあったが、現在まで準備不足で、のぞんで、乾いた井戸を掘ったり、急いで戦いの準備をしても間に合わないとの意見が大勢であった。
跡部尾張守が申し述べるには、当国には都留の郡ならでは、谿谷峻岨(けいこくけんそ)にして、大敵が押し寄せる地形はないと存じます。幸い小山田出羽守が参上して、私が召し出される事があれば、お申し付けくださいと申し出た。勝頼公は、意を得て小山田を御前近くに召寄せて、本来なら当地(新府城)に於いて、防戦しようとも思うが、未だ櫓の一間も普請完成していないので、戦うことは出来ない。その方が申し出る都留の郡は、境内堅固にして、戦う場所としては最適のようだ。ここは新府城を立退き、各々妻子どもを指置いて、敵が襲来して来たら、勝沼辺りに打ち出て一戦を交え雌雄を決すべきである。
武田家の興亡について、小山田出羽守、「つつしんで申し述べるには、仰せのごとく都留郡の地形は狭いが、数ある境は堅固にして、峻道溢路を抱えています。敵が容易く攻め入ることは出来ません。そのうえ味方が心を一つにして、これまで受けた武田の武恩の為に一身を捧げ戦えば、必ずご運が開きます」と頼もしげに申し上げた。





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最終更新日  2021年12月14日 14時53分25秒
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