カテゴリ:甲斐武田資料室
甲斐源氏の動向 ◇源頼信◇ 長元3年9月2日(1030)《『日本記略』後編14》 ○甲斐守源頼信及び坂東諸国司に命じて平忠常を討たせ、追討平直方を召還する。 長元4年2月23日(1031)《『日本記略』後編14》 ○甲斐守源頼信、調庸使が流人藤原光清の使者を射殺した状を奉上する。 長元4年4月28日(1031)《左経記》 ○平忠常、甲斐守源頼信に投降し、伴われて上京の途次美濃国で病没、頼信その首級を携えて入京する。 長元4年6月27日(1031)《左経記》 ○朝廷、頼信の行賞と忠常の子常昌・常近の処分のことを議する。 長元4年7月1日(1031)《小右記》 ○頼信、忠常追討の賞として丹波守を望む。 長元4年7月13日(1031)《小右記》 ○頼信、右大臣藤原実資に物を贈る。 長元5年2月8日(1032)《類聚符宣抄第8》 ○平忠常の賞により甲斐守源頼信を美濃守に任ずる。 永承1年(1046) ○河内守源頼信、石清水八幡宮に告文を捧げ、祖先並びに自己の勲功を述べて、子孫の繁栄を祈る。 ◇源義光◇ 天喜2年(1054) ○義光、生まれる。 永保3年(1083)《奥羽戦乱と東国源氏》 ○義光、左兵衛尉。年三十九才。 ○長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、義光、援軍として上奉して暇乞をするが認められず、許可なく馳せる。 ○義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。《奥羽戦乱と東国源氏》 義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る(修理太夫藤原顕季の所領) 明簿奉呈(家臣になる意思表示)をする。義光受領、常陸介となる。現地に赴任し、大豪族大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に居を構える。 ○義光の勢力、佐竹郷を中心として、国内北東部一帯に定着する。 康和4年2月3日(1102)殿暦・武川村誌 ○刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。この時義光五十八才。 (殿暦……忠実の子忠通の日記)新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。刑部丞。平日住三井寺。 ○義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、佐竹冠者昌義を設ける。 ○義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。 ○義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。 ○義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。 嘉承1年6月(1106)《永昌記》 ○源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。 大治2年10月20日(1127)《尊卑分脈・大聖寺過去帳》 ●源義光死去。年七十三。 ○義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。《十訓抄》 注… 『韮崎市誌』には義光が甲斐守になったのは、 嘉保三年(1096)〜康和元年(1099)の四年間であるとし、その根拠として、甲斐守藤原行実、藤原惟信の間の任期不在期間を充てている。 が、この行実は承徳二年(1098)八月に見任として『中右記』に名が見える。また甲斐国司は甲斐源氏の勃興の間も引き続いて存在している。 注…『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。 ○大寳寺、佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山号とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し難し恐らくは訛なるべし。佐竹常陸介秀義以後敷世居住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字するは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399)鎌倉に多福寺を建とあり。 ○多福明神社…新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法号を神号とすと伝ふ、恐らは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々 ○鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ) ○鎌倉市大町大宝寺…大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたという。義光は頼義の子で、新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家衡を討った。(『歴史と旅』鎌倉興亡史) ○大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹屋敷といわれる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝えられる。(『歴史と旅』鎌倉興亡史) 注 常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所領の地は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。 ○義光は補任として甲斐守となる。その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷・石和御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・上条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二宮郷・岩崎郷など。 ○義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。 ◇武田義清◇・◇源清光◇ 承暦3年(1079)義清生まれる。(逆算) 《『甲斐名勝志』所収「武田系図」》 康和4年2月3日(1102) ○義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。 天永1年6月7日(1110) ○義清の子、清光が生まれる。 天永1年6月19日(1110) ○清光が市川平塩岡の居館で生まれている。(これは史実でない) 保安4年(1123)《武川村誌》 ○義清出家。 大治2年(1127) ○清光十八才。 大治3年(1128)《長坂町誌》 ○清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て嫡男光長と次男信義をもうける。 大治5年12月30日(1130)《長秋記》 ○源義清の子清光、濫行を以て告発される。 ○甲斐国市河庄に配流される。 ○常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり。子細目録に見ゆ。《長秋記》 ○義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷) 保延6年(1140)《『長坂町誌』》 ○清光の子十三歳元服の儀式 ○小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮(この記事の出典は不明) ○武田太郎信義…武田庄武田八幡宮 ◇源義清◇ 久安1年7月23日(1145)《武田系図》 ●義清死去。 久安5年7月23日(1149)《大聖寺過去帳》 ●義清死去。年七十。 ○刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。《武田系図》 ○保安四年(1123)出家。 治承4年(1180)《平家物語》 ○平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将。 ○逸見冠者義清・その子太郎清光(既に死去)武田太郎信義・加賀美二郎遠光 加賀美小次郎長清・一条次郎忠頼・板垣三郎兼信・逸見兵衛有義・武田五郎信光・安田三郎義定 ◇源清光◇ 仁安3年7月8日(1168)《新編常陸国誌》 ●清光没(年59)甲州卒。天永2年生。 ○茨城県那珂郡武田郷に起こる。新羅三郎義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住し武田冠者と称し、(佐竹系図)義光の嗣たり。 ○子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人たり。云々 ●若神子の居館で死す。《『武川村誌』(?)資料無》 《筆註》この若神子の居館などについての史料は、神社仏閣の由緒以外に全く見えない。「逸見」と称したことから、多くの歴史学者が、市川から逸見に移り、それから信義らが武田(韮崎市)に移動して甲斐源氏の基礎を築いたとしているが、基本的な史料は『吾妻鏡』に見える「逸見山」の一言だけで、逸見氏や武田一門の居館が山梨県の峡北地方にあったとする説は、歴史学者の「創作歴史」である。多くの武将は石和や甲府中心に居て、その知行地が逸見地方にもあったとする説も成り立つ当時の状況であり、一考を要する。 正治1年6月19日(1199)《甲斐名勝志(?)》 ●清光没。 ○武田郷の地名初見…和名抄 ○『新編常陸国誌』 東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。即和名抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。或いは云う、甲斐武田氏も亦此村より出ツ、云々 ◇伊澤信景◇ 平治1年12月9日(1159)《平治物語》 ○井沢信景、平治の乱に源義朝の軍に加わって奮戦、負傷して帰国する。 ○甲斐の国には井澤四郎信景を始めとして、宗徒の兵二百人、以下軍兵二千余騎。云々 ○井澤信景は(中略)遠江に知りたる人ありしかば、それにおちつき、傷を療治して弓うちきりて杖につき、山伝いに甲斐国井澤に落ちけり。 ◇武田信義◇ 治承4年9月7日(1180)《山槐記》 ○武田太郎信義、甲斐国を領す。 ○平井冠者、平氏方甲斐国平井冠者、被討取。 ○大太郎、烏帽子商人大太郎、頼朝を助け石和に百町の名田と在家三宇を与えられる。(『源平盛衰記』) 治承4年9月24日(1180)《吾妻鏡》 ○武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和御厨へ移動する。 ○甲斐源氏、北条父子と駿河国に赴く。 『武家時代分限帳』(『翁草』) 禄高(鎌倉右大臣の時) 四万五千石…北条四郎時政(?) 五万石………武田太郎信義(甲州の内) 一万八千町…逸見三郎(山城の内) 三千町………一条次郎槇義(甲州の内) 五千町………板垣四郎高房(甲州の内) 千町…………成田小兵衛房次(武田五郎息男) (一万町は当時の十万石) 禄高(足利尊氏時代) 五千貫………武田伊豆前司信氏 二万貫(?)安田民部大輔仲景 治承4年10月13日(1180)《吾妻鏡》 ○石和御厨をたって、若彦路の大石駅に宿泊する。 ○武田太郎信義・次郎忠頼・兵衛尉有義・安田三郎義定 ・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊澤五郎信光 治承4年10月14日 ○甲斐源氏、武田・安田の人々神野並びに春田路をへて鉢田に入り、駿河目代軍を破る。 治承4年10月20日《平家物語》 ○武田信義兵略を廻らし、敵の後面を襲う所、水鳥群立てし軍勢の装いをなす。追討使軍敗 走する。 治承4年10月21日《吾妻鏡》 ○武田信義…駿河守護、(治承4年1180〜元暦1年1184) 日本史辞典角川書店 治承4年11月5日《玉葉》 ○甲斐源氏、富士川西岸に布陣した追討使軍を夜襲、追討使軍戦わず退却する。 養和1年3月7日(1181)《吾妻鏡》 ○武田信義、御白河法皇から頼朝の追討使に任じられたいう風聞を否定、誓書を提出する。 寿永2年(1183)義仲追討使として、甲斐源氏も出兵する。 武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼・小笠原次郎長清 ・井澤五郎信光・板垣三郎兼信・逸見冠者義清(有義の誤りか) 元暦1年(1184)近江国粟津の戦いで甲斐源氏が活躍する。 源平盛衰記 一条忠頼・板垣三郎兼信…先陣、七千余騎 武田太郎信義・加賀美次郎遠光…二千余騎 逸見四郎有義・伊澤五郎信光 三千余騎 小笠原小次郎長清・範頼・義経群、摂津国に入り、一ノ谷に陣を構える平氏軍と対峙する。 平家物語 武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼 ・小笠原次郎長清・井澤五郎信光・板垣三郎兼信 武田信義 文治2年3月9日(1185) 武田信義死去(『吾妻鏡』には建久元年十一月七日の項に、武田太郎とある) 卒年…59才。 ◇安田義定 治承4年10月21日(1180) 安田義定…遠江守護 吾妻鏡 (治承4年1180〜建久4年1193) 日本史辞典角川書店板 養和1年8月12日(1181) 源頼朝、安田義定を討つとの風聞、京都に伝わる。玉葉 寿永2年(1183) 安田遠江守義定も義仲の負死を報告する。吾妻鏡 建久5年8月(1194) 幕府軍、梶原景時甲斐に攻め込み安田軍と戦い、安田義定菩提寺放光寺で自刃。 ◇一条忠頼◇ 寿永3年1月27日1184 一条次郎忠頼等飛脚参 着鎌倉義仲の負死を報告する。云々 吾妻鏡 元暦1年6月16日1184 武田信義の後継者と目されていた一条忠頼、鎌倉で頼朝に謀殺される。吾妻鏡 ◇板垣兼信 文治 3年 3月17日 1187 板垣兼信、西国より使者を遣わし、土肥実平の専権を訴えるも、頼朝、退ける。吾妻鏡 4年 2月 2日 1188 板垣兼信、尾張国津島社領の所当年貢を修理大夫に不納の為、訴えられる。吾妻鏡 建久 1年 7月30日 1190 板垣兼信、違勅の罪により隠岐国への流罪に処せられる。吾妻鏡 々 8月19日 板垣兼信の所領、遠江国質侶荘の地頭職を解くこと約束する。吾妻鏡 々 9月13日 板垣兼信、配流の官符の後在京しているとの風聞が流れる。吾妻鏡 々 9月27日 御白河上皇、板垣兼信の配流を頼朝の上洛以前に完了するように強く命ずる。玉葉 々 11月 7日 頼朝入洛。随臣者、武田太郎(信義?)武田兵衛尉(有義)・浅利冠者 ・奈胡蔵人・加々美次郎・安田義資越後守・河内五郎 吾妻鏡 文治 5年 5月22日 1189 頼朝、院宣を受けて、板垣兼信の駿河国地頭職を解く。吾妻鏡 ◇武田有義 治承 4年12月24日 1180 平清盛、京にいた武田有義の妻子を殺し、門前に梟首にする。山槐記 門前に梟首にする。 寿永 2年 2月 5日 1183 範頼・義経軍、摂津国へ入り平資盛・有盛らとの戦いに、武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信・遠江守義定の名が見える。吾妻鏡 々 8月 6日 武田有義ら、平家追討のため西国下向にあたり、御所で饗され、餞別として馬一疋を与えられる。吾妻鏡 々 8月 8日 武田有義、頼朝に従い平氏追討のために鎌倉を出立する。 吾妻鏡 々 10月 政所造営、安芸廣元を別当として甲斐四郎秋家らを寄人として吉書あり。(中略) 元暦 2年 1月26日 1185 範頼の豊後国に上陸に際し、武田有義ら 吾妻鏡 随行する。 々 3年 1月 3日 1186 頼朝、鶴岡八幡宮に参詣する。 吾妻鏡 武田有義、板垣兼信ら随兵として従う。 文治 3年 3月15日 1187 武田有義、頼朝の鶴岡八幡宮での大般若 吾妻鏡 供養に際し、御剣役として供養するを壓い遂電する。 々 5年 6月 9日 1189 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。 々 6月 9日 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八 吾妻鏡 々 7月19日 浅利冠者遠義・武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・加々美次郎長清 加々美太郎長綱・加々美信濃守遠光・安田遠江守義定、頼朝の奥州征伐に従軍する。 建久 2年 2月 4日 1191 頼朝の二所参詣の随臣、 吾妻鏡 伊澤五郎(信光)・加々美二郎(長清)・武田兵衛尉(有義)・浅利冠者長義 安田義資越後守・奈胡蔵人義行 建久 5年10月 9日 1194 頼朝、流鏑馬以下の弓馬の道を武田有義らの堪能の者に評議させる。吾妻鏡 射手、武田兵衛尉有時・小笠原次郎長清。新編相模国風土記稿 々 11月21日 武田信光、鶴岡八幡宮で射手を努める。 武田信義の名が見える。(?) 武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・武田信光・加々美遠光・安田義定 武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・奈胡義行・安田義資 建久 6年 3月10日 1195 頼朝、東大寺供養、随臣、武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・伊澤五郎(信光) ・奈胡蔵人・浅利冠者・南部三郎・加々美三郎・河内義長。 々 5月20日 頼朝、四天王寺に参詣、随臣、武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光 奈胡蔵人義行・浅利冠者長義・南部三郎光行・加々美二郎長清 吾妻鏡 建久 8年 3月23日 頼朝、信濃善光寺への参詣、随臣、武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光 加々美二郎長清・浅利冠者長義・南部三郎光行 吾妻鏡 正治 2年 1月28日 1200 伊澤信光、甲斐国より参上、武田有義が梶原景時に通じて逃亡した由を報告する。吾妻鏡 ◇武田五郎信光 寿永 2年 1183 武田信光の讒言により、頼朝、木曾義仲攻撃の為に信濃へ出兵する。 源平盛衰記 文治 1年10月24日 1185 武田信光、勝長寿院落慶供養に際し、先随兵として頼朝の行列に加わる。吾妻鏡 々 3年 8月15日 1187 武田信光、鶴岡八幡宮の流鏑馬に射手として参加する。吾妻鏡 々 4年 1月20日 1188 頼朝の二所詣に、武田信光・加々美次郎 奈胡蔵人。 6月 9日 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八 吾妻鏡 幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵 として参加する。 々 5年 1189 幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。 信光、安芸守となる。 建久 2年 7月28日 1191 武田信光、新御所落成に伴う御移徒の儀々に、参加。安田義資・浅利長義。 々 8月16日 鶴岡八幡宮流鏑馬、射手 東鑑 武田五郎・小笠原二郎・武田小五郎々武田信光の進上した十六疋の馬が新御所で披露される。 吾妻鏡 信光…黒と白の斑毛 建久 4年 3月21日 1193 下野国那須野での狩りに弓馬の達者と選ばれ随行する。武田五郎・加々美二郎。 吾妻鏡 5月 8日 武田信光、駿河国藍沢での狩りに随行。 吾妻鏡 小笠原次郎。 5月29日 工藤祐経を討った曽我時致の尋問に武田 吾妻鏡 信光・小笠原二郎らが立ち会う。 建久 5年 8月 8日 1194 武田信光、日向山霊山寺参詣に随行する。 々 12月26日 頼朝、永福寺落慶供養参列の随兵、 吾妻鏡 源頼朝 正治 1年 1月13日 1199 源頼朝没(年53)子頼家跡目。 源頼家 鎌倉幕府二代将軍着任。 正治 2年 2月26日 1200 頼家の鶴岡八幡宮の参詣に随行する。 小笠原弥太郎長経の名が見える。 承久 3年 7月12日 1221 信光、籠坂峠で藤原光親を斬る。 々 7月26日 信光、安芸国守護となる。 寛喜 1年10月 6日 1229 信光、伊豆守となる。 々 3年 1231 安芸国守護、武田信光伊豆守。 日本史辞典角川書店板 延応 1年12月13日 1239 武田光蓮(信光)の名護屋敷若者の方違 の候補となるが、出家者の為選に漏れる。吾妻鏡 中座町教恩寺(大聖院)諏訪屋敷の項、武田信光入道光蓮が名越の家。新編相模国風土記稿 仁治 2年12月27日 1241 信光、次男信忠を義絶する。吾妻鏡 武田信光 宝治 2年 8月19日 1248 武田信光死去。一蓮寺過去帳 々 12月 5日 武田信光死去。年八十七。(諸家系図纂) 中座町教恩寺(大聖院)諏訪屋敷の項、武田信光入道光蓮が名越の家。新編相模国風土記稿 ◇加々美・小笠原 加々美次郎長清 治承 4年11月12日 1180 長清、頼朝の側近となる。陸奥南部一族 々 12月12日 頼朝、大蔵の地に幕府屋敷の建立する。加々美次郎長清侯、御駕籠左右。 々 5年 2月 1日 1181 長清の結婚披露、上総守広常の娘。奥南部一族 文治 4年 7月 4日 1188 加賀美遠光の女、頼朝の嫡男頼家の養育係として出仕、9月大弐局の名を賜る。陸奥南部一族 小笠原長清 承久 3年 7月29日 1221 小笠原長清、前中納言源有雅を甲斐稲積荘小瀬村で斬る。吾妻鏡 荘小瀬村で斬る。 文治 1年 8月 1185 遠光、信濃守となる。 〜 5年12月 1189 加賀美遠光 5月19日 1189 鶴岡八幡宮塔供養の馬八頭を見る。(これは加賀美信濃守遠光などが献上) 小笠原弥太郎 文治 4月20日 1189 小笠原弥太郎・比企三郎、同弥四郎、中野五郎等従類者、於鎌倉中、縦雖被狼籍云々 新編相模国風土記稿 小笠原弥太郎 正治 1年 7月20日 1199 源頼家、安達彌九郎景盛が妾女を北向御所に置く。小笠原彌太郎長継の被居。新編相模国風土記稿 所に置く。點小笠原彌太郎長継の被居。 南部三郎光行 文治5年7月19日 1189 頼朝、奥州征伐に出陣。光行初陣。 建久1年11月7日 1190 頼朝上洛。長清、光行 随兵となる。 小笠原六郎 寛元1年8月16日 1243 鶴岡八幡宮流鏑馬射手。東鑑 小笠原六郎・小笠原六郎・小笠原四郎太郎
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最終更新日
2021年12月14日 15時48分51秒
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