山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/12/17(金)15:16

甲斐 売りに出た山本勘助屋敷

     今川徳三氏著    昭和四十五年七月発行中部文学 第四号     定価三〇〇円  甲府市丸ノ内 一瀬稔方編集所 中部文学社 貞享元年(一六八四)の一月、甲府八日町の名主甚兵衛の許に、山本勘助の屋敷を売り払いたい、という願い出があった。 願い出を受けた甚兵衛は、番頭の三神庄右ヱ門という者を検分に行かせた。 屋敷は八日町三丁目の表通りで、間口五間。持ち主も勘助といい、父祖伝来の山本勘助の屋敷に相違なし、という書状があり、勘助の印形もちゃんと押してある。 検分役の三神庄右ヱ門が、証拠である書状を入念に調べたが、別に疑わしい点もなく、正しく山本勘助様のお屋敷に相違ありません、と甚兵衛に報告した。 甚兵衛はその由を文書で、町年寄の坂田家に届け出た。 その記録か、坂田家の日誌にその礎記載されて残っている訳だが、八日町名主甚兵衛というのは、同地で現在毛糸商を経営している太田屋の先祖に当る人で、八日町の旧家である。 文書によると、三神を我ら家来庄右ヱ門としているから、太田家は武田家臣団の一人で、徳川家康が織田信長から甲州一円を与えられた際、八日町の現住所の住居を認められて住みつき、名主になったものであろう。 貞享元年は、山本勘助が川中島で討ち死して、百年ぐらい経った頃に当る。 将軍は五代綱吉。この綱吉はその頃、将軍職について五年になるかならぬで、年も三十九歳。政治向きにも油の乗り切っている盛りで、改革に改革を加え、英才将軍であったものが、この後、間もなく元禄の太平時代を迎えると、政治向きは柳沢吉保に任せきりにして、……生類憐れみの令……などという、神がかり的な法令を敷いて、鈍才将軍に変り果てた。が、元禄太平の礎をきずきあげた、功績は買うべきであろう。 ところで甚兵衛の文書には、町内に山本勘助の屋敷があったことに驚いている節がみえる。しかし前出のようにチャンと文書が揃っているので、勘助屋敷に間違いなしとして、当時の売買条例に従って、甚兵衛が売り立ての代理人になった。 買い取った者が誰であったか、その記載はないが、間口五間というと奥行き二十間から二十二間、タソザク形の宿場町に見られる地割り屋敷と考えていい。 いくらで売れたものか、これも不明であるが、その頃の相場で十四、五両であったろう。しかし勘助屋敷ということで、高価を呼んだことも想像される。 ところが八年後の元禄五年(一六九二)には、太平ムードの反映で、地価は急上昇して、あっという間に、八日町三丁目は坪当り四両から五両にはね上って、庶民には手の出せぬ価格になった。 角地になると、その倍であったという。 何代目かの勘助は売り急いて、損をしているのだが、売り急ぐ事情があったかも知れない。それにしても、綱吉の元禄時代と、昭和元禄、はからずして共に地価の異常な価上りを見せたとは、興味の深い話である。 ところで、武田信玄の軍師といわれた山本勘助には、実在説とまぼろし説の二説あることはすでに知られた話だが、八日町三丁目に勘助の居宅があったのが事実とすると、実在説を裏づける重要なきめ手になる訳で、武田信玄を手がけ、勘助のまぼろし説を支持している新田次郎さんに、他の用事のついでに、坂田日誌のコピーを送ったら、折り返し山本勘助は実在しないのです、と甚兵衛文書を否定して来た。 届け出を受けた太田甚兵衛も笥いて、三神座右ヱ門を検分に行かせているくらいであるから、勘助屋敷の真偽についてその当時すでに、相当の論議をかもしたものであろう。 売り立ては、先にふれたように勘助死後百年足らずのことであり、町内の一丁ばかり先の目と鼻のような場所であるから、真実ならそれらしく口伝えの話が何かありそうなものだが、甚兵衛も初耳であったようである。 実は、山本勘助屋敷というのは、もう一つ古府中にある。 山梨県立図書館所蔵の古地図に記載になっていて、那濁が崎の信玄館を取り巻く、武将屋敷の外れに、足軽大将山本勘助屋敷と記している。八日町三丁目は、武田時代の上府中に対する下府中であり、百姓、町人の居住地である。ここに勘助が住んでいたとすると、面白い仮説がなり立つ。 勘助は承知の通り甲州人ではない。板垣信方に召し抱えか、又は食客の形で甲州に来て、信方の推盾で信玄の家来になった男だ。 軍師として、多くの隠密を抱えたということになっている。 隠密の情報を受けるには、警戒のきびしい武官屋敷街より、出入り自由の町方に住居を持つ方が、何かと都合もよく、そこで八日町三丁目という街道から少し入った場所に秘かに居宅を選んだことが考えられはしないか。 勘助には本妻はない。従って一代で絶えているのだが、男色であったという説もないから、妾でも置いたのであろう。後日の証として、文書を与え、妾との間に出来た子供が、八日町勘助として何代か続き、百年後の貞享になって、何かのきっかけで山本勘助の名が俄にタローズアップされ、素性を秘していた末裔が名乗り出て、甚兵衛その他の者を驚かすことになった、とすると小説の素材になるのだが、一つ引っかかるものがある。 屋敷の地形がタンザク形であったことだ。この宿場町特有の地割りというものは、関東では、家康が江戸開府にあたって、街道筋の宿場の家割りをすべて、タンザク形に制定しているのである。 甲州もその例外でなく、間口がせまく、奥行きの深いのが特徴になっている。 勘助屋敷も、間口五間としか文書に見当らぬか、奥行き二十間から二十二間の典型的な町方屋敷であるから、武田以後つくられた屋敷ということになる。 とすると、勘助の文書、印形もインチキくさくなってきて、何代目かの勘助も自称であり、怪しくなってくる。 甚兵衛が驚く節のあるのも当然だが、かといって、勘助宅に伝わる文書がインチキであるという決め手もなく、それによって実害が生ずる程のことでもない、という理由からか、売り立ての代理を引き受けざるを得なかったものであろう。 ともあれ、実在、まぼろし説は別にして、当時すでに信玄の軍師、山本勘助としてその盛名が上っていた事実を裏つける意味合いからは、この勘助屋敷売り立ての願書は、珍重すべき性質のものかも知れない。

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