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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月18日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

● 伊能 忠敬(いのう ただたか)と甲州の測量

 

  弦間耕一氏著

『文学と歴史』第七号 甲州の和算家

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 忠敬は文化八年(1811)四月、六十八歳の時三河から伊那を測量して諏訪に入り、甲州街道を測量しつつ甲府大月上野原を経て江戸に帰った。

二度目は、同年暮れの十一月御殿場から須走を経由して甲州を測量している。

 伊能忠敬が作成した地図は、シーボルトによって、日本の測量技術のすぐれていること、が紹介された。

また文久元年(1861)には、英国の測量艦が日本沿岸の実測を強行しようとしたが幕臣の持っていた伊能図を見て、その優秀さに驚き測量を中止した話が伝えられている。

 忠敬は若い頃から和算や暦学に興味を持ち、学習を進めていたが、寛政六年(1794)に十九歳年下の高橋至時の門人になり研究を深め、特に測量の街に精通する。寛政十二年(1800)北陸道及び蝦夷地方を手掛け全国に及んでいる。

 

和算の測量衛の調査に手をそめてから、甲州と古歌の忠敬について興味が湧いてきた。

 忠敬が測量作成した地図は、

『大日本沿海輿地企図』

が正式な名称で

『日本輿地全図』 

『実測輿地企図』

ともいわれ、略名では『伊能図』という。

明治になってから

今府県で作成された管内地図は、伊能図を基礎におき発行されたものである。

 伊能図は長らく、幕府の紅葉山文庫に秘蔵され、一般が利用できるようになるのは、慶応元年からである。

 甲州の場合、明治元年(1926)に酒井虎三の手によって、伊能図の『甲斐図企図』が刊行された。

 江戸時代の甲斐国全図の端緒は、判然としないが、甲州文庫を手掛りにすると、宝暦六年(一七五六)の『甲斐国絵図』が最も古いものである。それに次いで寛致十二年(一七九九)の『甲斐四郡図絵図並村々高附』がある。これは若杉周斉によって出されたもので、村々の石高が記入されたものである。忠敬、が甲州を測量した次の年文化元年には、今前例を色分けした『甲斐図絵図』が小林頁助の編集で出される。文政八年(1825)になると、鰍沢、村田屋から『甲斐図絵図』が出版される。同八年、同じ鰍沢の古久屋から『甲斐国絵図』が依田生によって発行され、これは、四郡を色別に今村駅を明らかにしている。

それから天保十三年『懐宝甲斐図絵図』を藤屋伝右衛門が刊行する。その内容は、甲斐国を四郡に分け、色別に村名・神仏道・古跡などを記したものである。文久三年(1863)に井筒屋豊兵衛卒が携行に便利な『甲斐国絵図』を発行している。

 近世の甲州における地図作成の技術も、予想外に発達していたようであるが、伊能忠敬の全国測量の影響などを受けて、正確なものに修正されていくのである。

 さて忠敬が甲州を測量した時の様子を、『伊能忠敬測量日記』から紹介してみたい。

 

測量は文化八年(1811)四月二十一日から

 

甲斐国巨摩郡 野田松三郎支配御領所 上教来石村

           小休問屋尾 一里○六丁三十六門

   

山口御関所 救米石宿 河西六郎兵衛 駅道一里○六丁

 

鳥原村 白領村枝門前台ヶ原宿迄 教来石より一里二 駅道尾一里二

   十五丁五十一間 合二里二十二丁ニ十七間 四ツ半前ニ着 坂部

 

梁田上田箱田平助此日金沢駅出立 教来石駅 六郎兵衛小休 九ッ後

     (中略)

 

同廿四日 朝より晴 我等下河辺 青木 箱田平助六ツ後 甲府柳町出立 

山梨郡 府中西青沼界より初 野田松三郎御代官所

巨摩郡高畑村 同上下同村 下石田村 清水新居村 上条新居村

 河東中島村 河西村

布瀬村 山ノ神村 臼井阿原村 西花輪村(中略)

坪井村 田安殿地領地 竹原田村 石和支配 左橋立村 右東原村

字林部 左本都塚村 末木村 左右末木村 一宮神前迄測迄測 

一宮浅間大神 木花咲耶姫命申祭神御朱印二百三十四石二斗余

 

勝沼駅九ツ後ニ着止 宿本陣組頭半裁 同縫右衛門

下青永三人鍛治皇孫兵衛 此夜大曇 不測 (後略)

 

詳細に甲州の測量について、記述しておきたいと思うが、誌面の関係で割愛せざるをえない。

 伊能忠敬と甲州の測量に関して、最も興味を待った点は、甲州の和算家が、どうこの測量にかかわったかであった。忠敬の直筆の測量日記を一読したときは、期待を裏切られたおもいであった。

 この誌面に紹介するために、筆写をしたところ、

「・…‥組頭幸蔵 同縫右衛門 下吉永三人 鍛治屋孫兵衛……」とあった、一瞬信じられなかった。

 この鍛治皇孫兵衛とは「甲斐の四星」といわれ、幕末の甲州を代表する和算家で、この「文学と歴史」では、

何回も触れている岩間孫兵衛智寿である。孫兵衛は、八代郡塩田村の住人だったから、坪井村・竹原田村・橋田村・宮村を経て勝沼駅(宿)に宿泊して測量に協力している。

 孫兵衛はこの頃すでに、和算家として測量の心得があったことが伺える。この孫兵衛が関沢の免状を許されるのは、この年文化八年(1811)より四十年も経った嘉永四年(1851)のことである。

 

測量の順路に従って協力者をあげておきたい。

 

巨摩郡教来石宿 河西六部兵衛

巨摩郡台ケ原駅 小松伝右衛門 丸屋弥湯治

巨摩郡韮崎宿  問屋兵助 宿屋弥左衛門 若竹屋文蔵

甲府柳町三丁目 太左衛門

巨摩郡鰍沢駅  弥一右衛門 嘉平治 佐左衛門

巨摩郡下山村駅 九左衛門 六部右衛門 太郎左衛門

八代郡石和宿  福田屋安右衛門

都留郡初狩宿  藤左衛門 伝内

都留郡猿橋駅  奈良奥右衛門 中富屋久兵衛

都留郡犬目駅  源右衛門

都留郡上野原駅 角屋七助 伊飾屋源右衛門 森右衛門

 

甲州では、約二十五名が測量に参加し協力している。

これ以外にも、

甲府町役人 伊右衛門 与論兵衛 弥左衛門 清兵衛 定兵衛

などがみえる。この人達は、町役人として案内に当っている。

 潮足に協力した二十五名のうち、和算家として著名な人物は、岩間孫兵衛ぐらいで、他は今後の追究が必要である。

 なお救米石村の河西六部兵衛は、同村の和算家河西儀七郎と関係のある人物だと推定される。河西六部兵衛はかって三菱商事の常務だった河西満重家の本格筋に当たり、教来石の本陣で問屋を兼帯していたと思われる。伝承に「代々苗字帯刀大問屋を以て相伝う」とある。

 和算家河西儀七郎もおそらく同族の一人であろう。

 儀七郎については、次回に取りあげ詳細に述べる予定であるが、甲州で現存する算額は唯一だと思われる。その算額は、北巨摩郡高根町村山西割の熱那神社にある。

 儀七部は、坂本彦左衛門 深沢佐兵衛 植松正尚 小宮山百済の五人で算額を奉納している。この算額を発見したのは、昭和五十元年六月九日であった。甲州の和算研究にとって、実に貴重なものである。

 伊能忠放流の「絵図仕立」を『江戸時代の測量術』を参考にして記してみる。

 下絵図を引く前に、正弦・余弦の値を用いて、側線の東西・南北を求め、集計して最後の杭の住設を求める。

坂道で、側線が斜めになっているときは、仰角・府角の余弦を掛げて、水平距離になおしてから行う。

 平行に白げいを引いた水張紙の上に、方位と距離の数値に従って、分度矩・厘尺で側線を書き込んでゆく。分度矩は南北徐に合わせる。最後の杭の住股が、計算で求めたものに合わないときは、絵図の引きちがいがあるのでやりなおす。(以下略)

 

忠敬の地図は優秀であったが、地球をまるい球体として扱ったため、楕円体とした場合に比べ、緯線の方向の誤認と緯度について誤差が生じた。経度についても若干の差があったようである。

 忠敬の甲州での斜図をみると、斜線は細かい朱線で、曲線なども詳密に描いている。また測量した沿道には、

国郡名と境界、代官名と領境 村落 校葬 社寺などの註記を入れている。

 

伊能忠敬の潮気隊は、文化八年五月二十八日に江戸に帰る。帰府して直ちに、地図を完成させるが、暮の十一月二十七日、九州第二次測量に出発する。主たる目的地は九州であったが、四月二十四目~五月四目にかけての十日間でやりきれずに、残された甲州の分も計画のうちに入っていた。

 忠敬に随行したのは、前の時と若干、参加者も異っていた手伝・下役・内弟子・竿取・長持宰領・従僕を含め総員十九石である。

 十一月二十七日東海道藤沢から測量を開始し、御殿場須走経由で吉田に入る。一行は二隊に分れ、本隊は甲州街道の大月へ、支隊は御坂峠を越え黒駒を経て石和へ斜進し、四月の側線に連結、それから合流して富士川を下る。身延で二つに分れ富士川に沿って斜進し万沢で合流しまた本隊は興津へ、支隊は岩渕へ出た。

 

● 村松弾正左衛門

 

この弾正左衛門とは、義政のことである。甲府勤番支配松平定能の委嘱を受け、内藤清右衛門らと『甲斐国志』

の編纂に当ったことで知られる。

 弾正左衛門は通称である。幼名を源太、偉を善政、字を徳面、号を 陽といった。明和元年(1764)十二月十三日、巨摩郡上小河原村熊野権現の神主村松常陸介義久の長子として生まれた。

 

 『文学と歴史』の三号に、内藤清右衛門は、関沢の和算を修めて天元・演段の高等数学に通じていたことを記

したが、弾正左衛門は、清右衛門以上に和算の造詣が深かったように思われる。

 弾正左衛門には『雨陽雑題』・『東王系譜』・『松葉葉』・『甲金譜』・『秘事指南』

それに、養祖父秋山章と共に編纂した『豆州志稿』などがある。地誌類・田制・税制・量制・国文・系譜と多方面にわたる著作を残した。

 弾正左衛門は学問を、加賀美光章に学ぶ。光章の環松亭は、山県太武、上野広俊、志村天目、古屋蜂城など俊

英が出している。こゝで儒学・神学・兵書・天文暦数・詩歌・書法を身につげる。寛政元年(1789)、二十八歳のころ、韮山代吉江川太郎左衛門英毅を訪ねてその門に入り兵学を学ぶ。江川塾の教授を勤めていた秋山雷雨に懇望され、秋山家の養嗣子となり、雷雨の孫娘の千世と結ばれる。

 宿所は、国串を巡行し、社寺、・史跡・名勝を訪ね、豆州志稿(伊豆国志)編纂を、富南の念願にしていた。私費を投じて調査に役人するも、協力者が少なく、事業はなかなか進まなかった。そこで、寛政六年(1784)に、韮山代官江川太郎左衛門英毅に後援を依頼する。

江川代官は、『豆州安久村秋山文蔵願之儀伺書』を、御勘定所宛に提出し、幕府の許可を求めた。

「河野頼母知行所伊豆国君沢郡安久村秋山文蔵ト申者申出侯

……村々巡行仕、土地山川古蹟寺社等之様子得と歌詞仕度旨頻出候

……同人 一存寄も無之侯由且右書類成就仕候ハバ

御益筋ニ茂相成御儀ニ御座候

………文蔵願之趣奇持戒能存候

……地理御調 一之御益言戊存候………」

 

右(上)の「伺書」が認められ、幕府から一刻も早く編纂を推進するよう激励され、雷雨を主任に、孫婿の弾正左衛門、広瀬奉貞、奉中仲、土岐柏の五人で調査をすることになる。そして、寛政十二年(1800)、『豆州志稿十三巻』が完成され、幕府へ献上される。

 甲斐国志が完成するのは、文化十二年(1815)であるから、豆州志稿は、十五年も早い時期のものであった。

 豆州志稿の編纂での弾正左衛門の経験を、高く評価して、桧平定能は、甲斐国志の編纂に当って、弾正左衛門

に山梨・八代・巨摩三郡の担当を命ずるのであった。

 

さて、弾正左衛門には、田割・税政・量割に関する著作があることは知られているが、和算の実務的な知識は、

豆州志稿編纂の折に深めている。編纂員の中に、測量製図を業とした秦中仲がいた。弾正左衛門は、この秦中仲

に師事し、測量と製図の技術を習得している。

 秦中仲は、勢州山田の産で幕府に仕え、松平越中守(楽翁)が豆相海辺巡視の際には道案内を命ぜられているし、さらに、蝦実地へもたびたび渡って金山とか地理の調産をしている。寛政四年(1792)には房総を踏査し、サ房州図」も仕上げている。当時とすれば一流の測量家といえそうである。」

 弾正左衛門は、千世との間に一男一女をあげ、秋山家は繁栄するが、甲州の家は、跡目の弟たちが次々に病死

して絶家の危機に遭遇する。弾正左衛門は、親類一同と協議して、娘のワカを残し、享和二年(1802)九月甲州へ帰国、実家の再興をはかることになる。そして、秋山を改め、村松弾正左衛門を名乗り家職である熊野権現の神主を襲いだのである。

 甲州に帰ってきた弾正左衛門は、甲斐国志の編纂に従事するなかで和算に関する内容について、『奥乗』の『余禄』一巻の中に記述している。

 『憶乗』とはかわったタイトルである。この『憶乗』は、秋山富南が、豆州志の編纂の折に見聞したものを、

筆記し載せ、さらに甲斐国志の編纂に当って集収したものを含めている。

従って、その史料は、三十三巻、余録一巻の計三十四巻の膨大なものである。

 

『臆乗』について広瀬広一は次のように記している。

 

臆乗ハ、文化中巨摩郡小河原村熊野社神圭村松弾正左衛門善政

当千甲斐国志編纂集綴自所採之史料為三十三巻・余録一巻伝

其家首十巻係伊豆志者曽散逸第十一十二廿三之三巻後又焼失

現存二十巻曽孫弾氏蔵焉摘其要本合為五冊備資料云

大正五丙辰十二月

     山梨県志編纂員 広瀬広一識

 

右(上)には、伊豆志に係わる十巻は散逸してしまったとあるが、それは次のような事情があった。

 

秋山章氏、憶乗十巻アリ、嘗て氏が豆州志編纂に従事セラレシ

十年間ノ筆記ニシテ、其の見聞スル所小大載テ編サズ

   頗氏が積年ノ功労ヲ観ルニ足ルモノ也介ヤ本書ニ登載セザル限り

悉ク拾収シテ以テ其功ヲ没セザラソトス

   此書〔憶乗〕上豆州志原稿、〔氏が自筆ノ書入アルモノ〕ニ書

既ク散失シテ甲斐国某氏ノ蔵スル所トナリシヲ

   去明治十五年度山梨郡長八代駒雄ノ周旋ニ因リテ

再ビ本州ニ還リ本書ヲ増訂スルニ当り

採捨ニ供スル所トナル蓋偶然ニ非ルベシ。

 

 甲斐国某氏とは、村松家をさすのか明らかでないが、ハ代駒雄の周旋によって豆州に巡見され、豆州志増訂に

供している。

 弾正左衛門の『暗渠』には、甲斐国志にない興味ある史料が載っている。数年来、一宮町国分郷土研究会の講

師として年輩の方々と学習舎をもってきた。会員の中に武田浪人の子孫である田中さんがいる。その田中さん

の先祖の田中八左衛門のことが『臆乗』で明確になった。

 

一 祖父 田中八左衛門

権現様へ披召仕知行百三十石被下御徒目付役相勤申し侯

浪人之後四拾弐年巳前病死

一 父田中伝左衛門 大石和筋国分村

     浪人ニ国分村羅在 田中伝之丞

 

 『臆』にはこうした家系をつかむことのできる貴重な未見の史料を、提供してくれるので、郷土史を研究す

るものにとっては魅力がある。

 『臆乗』の説明が長く続いたが、ここで和算の内容に軌道を戻してみたい。

 

弾正左衛門は次のような内容を余録に収めている。

   o当国年貢   o日米     o小切  o大切 

o籾納     o大小切由来  o検地  o御取善    

o御蔵前入用  o六尺絵米   o大豆納 o荏上納    

o煙草斤代   o木綿     o越石  o質物田地之事 

o永代売之事  o検見取善之事 o取箇付帳認様式 

o検地仕様之事 o検地ニ用る道具

  

所絵図 寺社絵図 案内帳 番付帳 野帳   竿二組

   管竿  水桶   曲尺  磁石  かけや  つるぱし 

   鍬   鋤    十露盤 硯紙  分度道具 見当四本

o地普靖之事  o山林竹本仕立様之事

 

上には主たる項目を掲げたのであるが、農民生活の全般に亘っての内容を持っていて、検地・年貢・運上などについて詳述されている。

 この余録は民政官である代官にとっても、よき手引書になる内容を持っていた。地方書の甲州版ともいえ、類似書には、『地方凡例録』・『地方問答書』などがあげられる。和算家の著述したもので比較するとなれば、『算法地方大成』に多くの共通点があるように思える。

『算法地方大成』は、関沢の門下で筆頭の地位にあった秋田義一の著作になっているものであるが、山本一正のところで記したように、実際は長谷川寛の手になるものである。

 この『算法地方大成』は好評で、古田光由の『塵却記』とはいかないまでも大変売れゆきがよく、関沢の評価を高めた。そのため他流から攻撃をうけるはめになる。辛辣な非難をあびせた人物に、日下誠の門人の栗田宣貞がいた。

 幕臣の栗田は、『算法地方人硯屏非問答』という書を刊行し、

 

……有ふれたる算書にして僻郷の初学を導く

一助にもなれば敢て是を咎るに不及、

地方の説に至りては彼が長ずる所にあらざるを、

利を射るが為に杜撰の書を刻せしめて愚蒙を欺くもの也……。

などと非難している。

 

特に、地方については得意でもないのに、もうけ主義で一般を欺くものだと酷評している。さらに幕臣の立場から、農民に地方の支配の内容を詳細に教えるべきではないと官僚的な発言もみえる。

 さて、『暗渠余録』と『算法地方大成』の類似の一例を掲げておきたい。

 

甲州公納口ハ古代籾納時甲州桝弐斗に

摺減升入都合弐斗弐升にて口籾壱升取る。

其後籾を六合摺に積りて米納になる。

但し甲州桝壱升ハ京桝にて三升なり。

右州桝の松弐寸鉄升を摺て京桝にて米三寸九升六合、

また甲州桝の口籾弐升を摺て京桝にて米壱升八合となる

ゆゑに、米壱石に日米四升五合四勺五才余に当るなり。

 

右は口米永についての記述である。

口米永は正租額(年貢)に応じ各藩で所定の率を乗じて徴集し、藩庁などの経費にしたが、享保年間に廃止して、藩庁などの経費は別途に支給し、口米永は官庫に納入することにした。

しかし、甲州だけは他国とちがい、本米壱石に付口米四升五合四勺五才にして、他領に比し多額であったから、納願のうち三升を官庁の経費にて、三升口と呼び、残米壱升五合余を官庫に納入して、公網口と称した。 

 弾正左衛門の『暗渠余録』には、こした口米永や、甲州の特殊な税制である。大切・小切さらにその由来などについても詳細な記述がある。

 記述内容等からみて、弾正左衛門は、井上昌倫の『峡算須知』などを参考にしたであろうが、むしろ、甲州算法を体系づけ、弘化三年(1846)に発行された花輪宣清の『峡算法』の先導をなしたといえよう。

 さらに天保八年(1837)に発刊された『算法地方大成』にも影響を与えたであろうこと、が推測できる。

 

 参考文献 

『甲斐国志』 『算法地方大成』など。






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最終更新日  2021年12月18日 15時40分42秒
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