山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/12/20(月)07:33

『徳川慶喜公伝』と渋沢栄一 『日本名勝天然記念物』所収記事

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 『徳川慶喜公伝』と渋沢栄一  『日本名勝天然記念物』所収記事一部加筆 山梨県歴史文学館 明治財界の大物が取り組んだ本格的伝記編纂の過程を貴重な資料を基に追跡する *        著者 長沢玄光(ながさわげんこう)(渋沢青淵記念財団龍門社資料室主任)   一 編墓所の組織 渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』の編纂刊行を思いたったのは、その書の自序によれば、「明治二十六年夏秋の頃」となっている。それから完成までの二十五年間、栄一は文字どおり寸暇を惜しみそのことに当った。 はじめ資料の蒐集を旧桑名藩士江間政発に頼み、執筆を旧友福地源一郎に委嘱し、書き上った原稿を自分が校閲するという手順であった。しかしこの計画は明治三十九年一月、福地の病没にあい中断の已むなきに至った。 翌四十年六月、栄一は構想を改め、新しいスタッフを編成し、兜町の渋沢事務所に編纂所をおき、女婿の穂積陳重(のぶしげ)、阪谷芳郎の二人を顧問に、監修者三上参次、編纂主任荻野由之両文学博士を迎え、実際の初稿執筆者には小鉢生次郎(文学士、『幕末史』の著者)を常勤させて再スタートした。この間の消息を物語る資料の一つとして渋沢家に、つぎのような記録が遺されている。 「渋沢同族会議案」  (中略)  第四号  徳川慶喜公御伝記編纂ニ関シ左ノ通り決定スル事 第一、編纂所ヲ兜町事務所楼上ニ置ク事 第二、編著ノ部署ヲ左ノ如ク定ムル事  一、著者、自分ノ名義トス  一、立案者、文学士小林庄次郎氏ヲ新ニ任用ス  一、校修者、文学博士三上参次、文学博士荻野山之ノ二氏ニ嘱託ス  一、記料蒐集者、従前ノ通り江間政発ヲシテ継続之ニ当ラシム  一、編纂所主任、荻野博士ニ嘱託ス  一、庶務掛、元方員橋本明六(のち増田と改姓、栄一の秘書となる)ノ兼務トス一、勤務、小林氏ハ日勤(当分水曜日ヲ除ク)トシ、荻野博士ハ毎週一回トス一、福地原一郎立案の原稿ハ之ヲ記料トシ伝記ハ更ニ之ヲ立案スル事 第三、編纂所費ハ毎半期初ニ予算ヲ作り、同族会議ノ承認ヲ経ル事。決算又此ノ例ニ依ル 第四、編纂所費ハ寄附会規定ニ準シ之ヲ支出スル事    但、従前ノ支出額金弐万八千八百七円九拾六銭五厘モ此ノ例ニ依ル  明治四十年六月二十九日     提出者  渋沢栄一 ㊞  とあり、穂積陳重、同歌子、阪谷芳郎、同歌子の四人の決議印が捺されている。 栄一がこのように、巨額の私費を投じ、この伝記の完成に努力した理由の第一は、慶喜を命の恩人と思っていたし、「主従は三世」という考えに因るものであった。 編纂主任荻野博士は、跋文の中に 「実際小林氏が起稿の筆を執れるは、明くる四十一年の初よりなりしが、同四十二年九月安政大獄の章の起草中に病に罹りて頓に逝去せられしは、思ひもかけぬ不幸なりき。此後は編纂員数人に章を分ちて担任せしめ、各自材料を恚調査し、文案をも起草し、其統一訂正は余専ら之に任ずる事となる。局中には文学士渡辺轍氏、同藤井甚太郎氏あり、小林氏没するに及びて、井野辺茂雄、高田利吉の同氏も加はりて、四人編纂員となり……江間氏は大正三年の頃より病に親しみて、採訪纂輯意の如くならず、五年八月遂に逝く……」と記している。この四名の編纂員のうち高田は渋沢事務所関係者であるが、藤井、井野辺、渡辺の三名は当時新鋭の歴史学者であった。 二 昔夢会 栄一が、このように考え、この事業に取組んだのは、栄一の歩んで来た足跡を顧みれば頷けるものがある。 文久三年(一八六三)十月、高崎城乗っとり、横浜異人館焼き打ちの計画が挫折して身の危険を感じた栄一は、海保漁村(かいほぎょそん)の塾に学んでいたころ知り合った一橋家の家臣平岡円四郎を頼って京都に走った。そして平岡の斡旋によって慶喜の家臣となり、辛くも捕縄の厄を遁れたばかりか、慶喜の弟昭武に従って渡欧したため、好運にも戊辰戦争の危地をもくぐることなく身の安全を保ち得た。もしこのような運命の展開に恵まれなかったとしたら牢死したか、あるいは自分の養嗣子平九郎のように、戊辰の動乱に討死していたかも知れない。 前に記した金額は、編纂所員の手当だけではなく、資料として買入れた書籍等の代金もふくまれていただろう。それにしても実業家渋沢栄一なればこそ成し得たことである。 別に、資料蒐集の方法として、慶喜から直接その閲歴や、幕末のあらゆる政情等について聴きとりする会を催した。慶喜は欣(よろこ)んでその席に臨み、会の名を自ら「昔夢会」と命名した。このことは栄一にしてみれば、旧主の 無聊(ぶりょう)を慰めることでもあった。 明治四十年十 一月十目の栄一日記に「……午後二時半王子ニ帰宅ス。三時徳川両公爵(慶喜・慶久の両名を指す)、三上、荻野、小林、江問ノ諸氏来り会シ、公爵伝記ノ事ニ関シ協議ス、夜食後更にニ雑話ニ更ヲ重ネ、夜九時散会ス。」の記事があり、その後の日記にも、同じような記事が、随所に認められている。栄一の旧主を敬慕する情の厚きこと、とても第三者の測り知り得るものではない。この昔夢会は、大正二年五月までに十七回も催された。そのほか、八回におよぶ編纂員の慶喜訪問筆記がある。両者を合わせて上中下三巻とし、二十五部だけ印刷して編纂関係者の手控え本とした。これが『昔夢会筆記』である。慶喜の寿命が、大正二年十一月二十二日をもって尽きることなく健在だったら、まだまだ回は重ねられていたであろう。この本の印刷されたのは大正四年四月である。巻頭に栄一は例言として、つぎのような意味の文章を書いている。 一、『昔夢会筆記』は、慶喜公がわたくしたちの質問にこたえて、その御閲歴を話された際の筆記である。            m一、わたくが、公の御伝記を編纂するに当り、公を自邸にお招きして編纂員とともに親しく拝聴したのは、明治四十年七月二十三日が最初である。この会を昔夢会と名づけられたのは公である。公はこの会に十七回も出席された。稿本が出来上るとそのたびごとに正誤を指摘して頂き、編纂員が公の邸に行って親しく教えを承ったことも八回、それらを筆記したものが、これである。公の語られたどんな小さな言葉のはしはしも貴重な史料である。 別に、資料蒐集の方法として、慶喜から直接その閲歴や、幕末のあらゆる政情等について聴きとりする会を催した。慶喜は欣(よろこ)んでその席に臨み、会の名を自ら「昔夢会」と命名した。このことは栄一にしてみれば、旧主の 無聊(ぶりょう)を慰めることでもあった。明治四十年十 一月十目の栄一日記に「……午後二時半王子ニ帰宅ス。三時徳川両公爵(慶喜・慶久の両名を指す)、三上、荻野、小林、江問ノ諸氏来り会シ、公爵伝記ノ事ニ関シ協議ス、夜食後更にニ雑話ニ更ヲ重ネ、夜九時散会ス。」 の記事があり、その後の日記にも、同じような記事が、随所に認められている。栄一の旧主を敬慕する情の厚きこと、とても第三者の測り知り得るものではない。この昔夢会は、大正二年五月までに十七回も催された。そのほか、八回におよぶ編纂員の慶喜訪問筆記があ る。両者を合わせて上中下三巻とし、二十五部だけ印刷して編纂関係者の手控え本とした。これが『昔夢会筆記』である。慶喜の寿命が、大正二年十一月二十二日をもって尽きることなく健在だったら、まだまだ回は重ねられていたであろう。この本の印刷されたのは大正四年四月である。巻頭に栄一は例言として、つぎのような意味の文章を書いている。 一、『昔夢会筆記』は、慶喜公がわたくしたちの質問にこたえて、その御閲歴を話された際の筆記である。一、わたくが、公の御伝記を編纂するに当り、公を自邸にお招きして編纂員とともに親しく拝聴したのは、明治四十年七月二十三日が最初である。この会を昔夢会と名づけられたのは公である。公はこの会に十七回も出席された。稿本が出来上るとそのたびごとに正誤を指摘して頂き、編纂員が公の邸に行って親しく教えを承ったことも八回、それらを筆記したものが、これである。公の語られたどんな小さな言葉のはしはしも貴重な史料である。    三 墓前奉告式 ほぼ二十五年という長い年月と、多くの人の協力と、莫大な費用を投入して、編纂を完了したのは大正六年七月、原稿はただちに印刷にまわされ、本伝・付録・索引合わせて全八冊の刊行をみたのはその年の十一月であった。 出来あがった本を手にした栄一は、誰よりもさきに、それを慶喜の嗣子慶久に贈呈した。慶久は感激してその月二十二日、慶喜の命日を期し、谷中の墓前において厳粛な奉告式を挙行した。 当日の参列者は、公爵家側から嗣子慶久以下、徳川家達(いえさと)、同夫人、峰須賀茂詔(もちあき 慶喜四女筆子の舅)、徳川厚(慶喜四男)、同夫人、松平浪子(慶喜七女)、四女糸子(庭喜十女)、大河内輝耕(きこう)、同夫人国子(慶喜八女)、勝精(慶喜十男)、同夫人の一族と、公爵家の顧問山内長人、石渡敏一・植村澄三郎、家令三輪修三の諸氏、 編著者側からは、 渋沢栄一、穂積陳重、阪谷芳郎、三上参次、荻野由之、八十島親徳、井野辺茂雄、渡辺轍、藤井甚太郎、高田利吉、増田明六、土屋新之助、山沢健一郎の十三名であった。このほか、伏見吉博恭(ひろやす)王妃経子(慶喜九女)殿下も特に臨席された。 神式による型どおりの礼拝の後、慶久は大要つぎのような奉告文を朗読した。   先考幕府の末造にあたり国歩類難の際に処し、尊王愛国の大義を完くせんことを念(おも)い、政権を朝廷に奉還して維新の皇謨を賛襄(さんじょう)し、王師を迎えで恭順苦節を守り、以て幕府有終の美を済し給えり。然れどもその初めにおいては、心事未だ世に知られず、天下の誤解を受けたる事も少なからざりき。  男爵渋沢栄一君は橋府以来の知遇に感じ、先考が戊辰前後の心事を開明しもってその偉績を発揚せんとし、私財を拗(なげう)ちて伝記編纂の業を起し、拮据経営すること二十余年なりしが、今茲大正六年に至り始めて稿を脱し印刷を終えたるをもって、今日の忌辰をもってこれを霊前に奠供せんとす。先考の霊希くは嘉納せさせ給え。  思うに先考の心事は、この書によりていよいよ明かなるべく、先考の偉業はこの書によりて長(とこし)えに不朽なるべし。これただに家門の幸慶たるのみならず、また実に国史の光彩たらん。而してこの大著述を成就せる渋沢男爵および編纂にあずかれる諸氏が多年の労苦は、慶久の深く感謝するところなり。編纂の顛末は著者男爵より申すところあらん。先考の霊希くは昭鑒(しょうかん)せさせ給え。 これに続いて栄一は、一般に市販する装幀とは異なる三方金の典雅に特装せる本を墓前にそなえ、一礼ののち、この伝記完成のいきさつを述べた。その大要は、  維新の際、朝廷と幕府の間相乖戻(かいれい)し、ついに伏見鳥羽の変を生じたが故に、朝廷においては将軍慶喜公をもって朝敵となし、討幕の詔を発せられた。 然れども公は水戸家祖宗の遺訓を奉じ、尊王の志かたく、当時すでに大政奉還の意を決しておられた。けれども、事志と違ったために、一身を犠牲にして国家のため、皇室のためその安泰をはからんと欲するの一大決心をもって、恭順の意を表せられたのは事実の証明する所である。然るに世人多くはその真相をきわめずして、慶喜公の行為をもって朝敵となしたるもの少なからず、私はこれを遺憾とし、その冤(えん)をそそがんがため、公の伝記編纂の志をおこし、而してこれを故福地源一郎にはかった。福地は喜んで同意してくれたのでその編纂を福地に嘱託したのである。  爾来幾星霜、公が犠牲的精神をもって報国尽忠の誠をつくされたるの事実ようやく明瞭となり、先帝は畏くもその功績を認めさせられ、公爵を授けられた。 ここにおいて、公の雪冤のために伝記を編纂するの要なきに至ったけれども、公が国事多端、国歩類難の際勇断果決、一身を犠牲に供して国家のため、皇室のため尽忠報国の誠をつくされたる崇高なる犠牲的精神に至っては、百世に伝えて範とすべきものたるを信じて疑わないのである。 今や功利ようやく進みて道徳これにともなわず、個人主義ようやく盛んにして国家的観念とぼしく、殊に犠牲的精神に至っては各方面において欠如せるがごとき観なきにあらず、ここにおいてその事実の真相を後世に伝うると同時に、犠牲的精神を鼓吹するの意味をもって編纂を継続し、さらにこれを荻野博士に嘱託して今ようやくその完成を告げた。これを読めば、贈ったもの、贈られたものの心境がよく理解されるばかりか、最後の将軍とその家臣のこまやかな情愛を、無縁のわたくしたちさえ肌に感ずるのである。   四 伝記の大要と世評 この伝記が著者渋沢栄一、発行所龍門社、発売所冨山房として一般に発売されたのは、大正七年一月であった。本伝四冊、付録三冊、索引一冊の八冊をもって全巻とし総計四千二百五十七頁。本伝各冊の巻頭に慶喜の肖像、慶久の題字、百十六枚のコロタイプ写真版を分けて挿入、菊版葵紋章入り・天金、総クロース装という豪華本である。 本文は三十五章、千百六十六項に分けて構成され、各頁を罫線で囲んだ中に、五号活字三十二字詰十四行組、囲みの上段は狭く区切られてそこに小見出しを組み、欄外上部の余白に年月日を示している。 これはもちろん読者の便を配慮せる編集で、定価は全巻二十円とされたが、発行所の龍門社会員には十五円で売られた。初版二千部、その後どれほどの部数が売れたのか記録はないが、どの道採算のとれた出版ではなかった。 いかなる犠牲を払っても、出版しなければならない本は出す……これが栄一の信念であった。新聞・雑誌は筆をそろえてこの書の刊行を紹介した。『中外商業新報』は、「専門的史家 ではないのに、このような企てをたて、多数の歳月と多額の費用をかけ、晩年に至ってようやく完成を遂げたことは、事業の性質よりみて、渋沢栄一の生涯の一大事業として称讃せざるを得ない……」と称え、雑誌『歴史地理』は 「渋沢男爵の実業界における功績はもとより縷々を要ぜざれども、男爵の名を不朽に伝うるものは恐らくは本書編纂その第一にあらんか」 とまで誉め称えた。(了)  

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