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2021年12月22日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

信玄の子ども 勝頼

 

 『兜嵩雑記(とんがざっき)乾

 

然るに嫡子信濃守晴信公は豪勇智仁の大将にして、

所々の戦場に於いて勝利を得られ、日本の七大将と名を揚げ給う、

然るに天文年中二月十二日、

剃髪ましまし法性院大僧正徳永軒信玄と改名有り、

その御舎弟左馬頭信繁、

永禄四年信州川中島に於いての合戦で討ち死に成り給う、

惜しいかな文武の勇将也。

 その次同孫六入道逍遥軒信連と號す、

然るに大僧正信玄公の長男太郎義信、

陰謀の聞こえ有りけるに依りて自害する、

 次男隆實と申して盲目にして海野の名跡を継ぐ、

 三は女子にして穴山殿へ嫁し給う、

 四男伊那四郎勝頼、諏訪の名跡と定まり給う、

 五男五郎信盛は仁科家の名跡なり。

 然るに武田家の御名跡無き故に、

勝頼の長男信勝を武田の家督と定まり相続仕り給うように御定まる也、然ると雖も未だ御幼少まします故、

成人に成る間伊那四郎勝頼が後見として、

萬御心に任せ、大小と無く執行し給う。

 

信玄の死 兜嵩雑記(とんがざっき)乾

 

さて年月過ぎて、天正元年と成りける。

太守武田大腿太夫晴信公、風と御病気のところ、日を迫て重らせ給ひ、 終ひに四月十二日逝去仕給ふ、御歳五十三歳也、

則御尊骸は當國城東山梨郡乾徳山恵林寺に葬り奉る、

御戒名は『恵林寺殿機山信玄大居士』と唱え奉る、

住主は快川國師也、

 

 武田勝頼 終焉の道 兜嵩雑記(とんがざっき)乾

 

 

さて、天正九年夏、四郎勝頼、

御親類中を城内に披召寄被仰出ける様、

尊父信玄兼て被仰置候韮崎之城の事、

早建築可然と被仰けれは、

御一門中誰か一人でも意義申し者なく、

然へく由各々相談相究りける、

依て其年御普請始り、年内申に館一棟御建被成り、

同年極月廿四日に御移徒有けるなり、

明れは天正十年新玉の年立帰り、

猶々御普請可有旨夫々に被仰付ける、

一門の面々承知有りて皆帰城に及びける、

然るにその後御一家の内、木曽左馬頭逆心の風聞専らに致しければ、

勝頼聞きて一門と相談の上、自ら出馬にそ及びける、

信州諏訪に着陣ありて木曽の様子を窺う所に、

木曽左馬頭は勝頼自身出馬と聞く、

定めて大軍ならん然るとても叶わしやと思いけん、

全く逆心これ無きの旨、誓紙を以て御訴訟有といへ共、

勝頼更に承引無之に付、

木曾殿も不及是非、尾州織田信長へ加勢を被乞ける、

勝頼此趣聞し召しからば國元の城郭丈夫に拵へ、

信長勢を待受んと了簡定め、諏訪より新府中え御帰城有ける所に、

尾州織田信長は息男信忠を大将として出陣に及、

先信州勝頼の持城を攻落し、其勢い近日甲府へ押寄せへき旨、

飯田大島両城の勝頼更に承引無之に付、木曾殿も不及是非、

尾州織田信長へ加勢を被乞いける、

勝頼此趣聞し召しからば

國元の城郭丈夫に拵へ信長勢を待ち受んと了簡定め、

諏訪より新府中へ御帰城有ける所に、

尾州織田信長は息男信忠を大将として出陣に及、

先きに信州勝頼の持城を攻落し、其勢び近日甲府へ押寄へき旨、

飯田・大嶋両城の討洩されの者共駈来り、

一に訴けれは、勝頼は寝耳に水の心地してただ忙然と聴給ふ、

去共このままにては叶ふ間敷如何有らんと評定しけれ共、

いつれも愚安の腰抜け武士共なれは評義區々也。

時に御前伺公の長坂長閑、跡部大炊助、小山田河内守有けるか、

長閑斎進出て申上けるは、

如何如此櫓一ケ所無之城にて大軍を妨ん事中々思ひも寄らす、

御評義被遊候共無益の事也、

所詮御一戦相成間敷山申上けれは、勝頼尤と思召して小山田を被召、

被仰聞けるは、其方が居城岩殿山は堅固之地之由兼て聞及へり、

一足先に右之城え引籠り、領知の士卒を相催し、

大丈夫にして有無の一戦成るべく也、

汝は只今より直に罷越其用意を申付、早々迎に来るへく旨被仰付、

當座之御褒美給り其まゝ郡内岩殿之城に帰りける、

既に三月二日時刻移さす、

今晩八ツ時小荷駄三百疋ならびに人足五百人と相触れしか共、

早一國中騒立ければ小荷駄壹疋も人足壹人も參らざれは、

これは如何すべき殊に大守様をは輿にてと有しか共、

輿舁者壹人もあらざれは、

是非もなく御勞敷ながら、あやしげ成る小荷駄に乗せ奉り、

御供の女中拾五六人披召連れ、

三月三日のあけぼのに総勢四百餘騎にて、

新府城を落とさせ給ひし御有様中々浅ましき次第なり、

七日御逗留有ける、龍地が原へ出給い、城の方を見返り給へば、

並たる新館早一片の煙と焼けのぼる、

北の方を見給へば古府中(武田館)の屋敷群も寂びかえる。

涙と共に落ち給こそ哀れ儚き有様なり、

さて一條・和田平町を打ち捨て、

善光寺門前にて御供の老若それぞれ御暇被下、

その夜は柏尾山に御逗留、

次の鶴瀬にて郡内の御左右相待ち受け給はんとても、

この所に七日も御逗留ありける、

然れども小山田方より御迎も不参、却て三途川にて追付奉んと、

左も潔御挨拶成りければ、勝頼卿も御心持直し、

いざ生害と思ぴ給ふ所へ、

前後左右より鑓襖(やりぶすま)を作突懸しかは、

今は無是非御生害有ける。

 

終に天正十年三月十一日、

田野に於いて御歳三拾七歳にして御生害有ける。

甲斐源氏の根本御家滅亡なせし御事、是非もなき次第なり、

御名を後代によこし給ふ事残り多けれ

 

 甲斐の織田信長 『兜嵩雑記(とんがざっき)乾』

 

ここに人皇五拾代桓武天皇より十二代の後胤、

平相国清盛より二十代の末葉、

織田備後守平信秀之次男に上総助平信長と申は、

武勇名高く西國を討隨へ威を遠近に震れける。

然るに此度武田滅亡に付、天正十年三月下旬、

禁裏仙洞へ奏聞有之、近衛殿御同被遊

甲斐国府中へ御入有て御誅罰有と也、

是は武田家御高家たるに依る、天子院宣を以御誅罰有也。

 

夫より甲府には信長下知として、川尻與兵衛を肥前守に叙任有て、

甲府城代として岩窪村の城に差置給ひ、御身は東海道を御帰り、

近衛卿には中仙道を御登り被成りける。

さて城代川尻肥前守國中巡見して恵林寺に被參、使者を以申人けるは、此度勝頼の死骸無断引取被申祝事上使に対し無礼之仕方なり、

其上門前に小屋銭を掛らるれ事、

殊更勝頼一類等圓置候條公儀を恐れざる致方甚不軽から、

一々出家に不似合致方不屈至極之由、使者を以申遣しければ、

取次之僧住主に告ければ、快川国師之御返事には、

勝頼卿御死骸之事は、武田御代々常山之大旦那たるにより葬候なり、一類不残引とる事も右同事也、

また使者に對し無禮之儀立合たる事未。

無之山地中へ小屋銭之義愚僧之不存事也、

武田所縁の者とて一人も隠し置候儀無御座候、

と御返事有けれは、

川尻然は寺内を捜へしところ、

出家衆は不残山門に上り候得と差圖しければ偕達皆々山門に上りける、川尻與兵衛を始め雑兵不残寺申え踏込捜といへ共、

侍たるへき人一人も見へざれは甚怒り門前之草舎を壊し、

山門の下に積かさね、一度に火を懸けれは、

折節魔風烈敷吹来り、

堂塔伽羅に燃付一宇も不残一時の煙と成りにける

あゝ勿體なき事共哉。

 

快川国師を始奉り紫衣の東堂四人、

黒衣長老九人、其外同宿児竜子都合七拾三人、

一朝の烟と成りて失にける、

 そもそも常山乾徳山恵林寺と申は、

古しへ足利大将軍足利尊氏公御建立有て、夢窓國師を開山として、

武田家を大檀那と被成り、永禄年中に武田家に於いて七堂御建立、

殿堂悉く甍を並べ、楼高く聳え、その風景を郡懸に冠たり、

其の上寺領三百貫、境内三萬六千坪新に寄附せられ、

則信玄公御存生の内、木像を御刻、末世の行儀に及とも、

これぞ信玄か像なり被仰、不動明王の像に作り、

後に火焔を立て、左りの手に縛の繩、

右の手に利剣を持たせ安置仕給ふ故にや、

此度焼失に不思儀に火難を遁れ給ひ、今の世迄も拝誦するこそ難有けれ。

 

本能寺の変

 

 さて天正十年六月二日に織田信長は上洛しける處、

家臣明智日向守光秀日頃之意恨を報せんと逆意を起し、

主君たる信長を討奉らんと軍勢を催し、

一夜の中に首尾の御首を討取ける、

是勝頼公御生害の日より八十一日目なり、

武田ほどの舊家を無漸に滅亡に及びける報いにて、終に亡び給いける。則京都本能寺にての討死に成り故、

そのまま親子共共寺に葬けると也。

法名號 『相見院殿泰嵓大居士』、御歳四拾九才、

右之子細に依て徳川家康公より甲州川尻肥前守へ使者を遣わし、

本田百助を以右之次第被仰遺ける、

本多百助は右之趣を承、夜を日に継て甲州え急きける、

程なく甲州に到着いたし、

川尻肥前守え主人之御口上之趣、

 

  今月二日之夜京都於本能寺に、

  明智日向守光秀逆心を起し、

  織田信長親子を討取候間、

  急き罷登り一戦を被懸へき

 

との口上なりと申けれは、肥前守如何思ひけん、

彼使者たる本多百助をただ一刀に討果しける、

知れ者なれ共誠に油断の酸なれは、敢なく最期を鐙られける、

然るに未を武田の残党衆所々に隠れ忍び居て、

川尻肥前守か子末甚だ憎いと思へども、

すべき様もなく徒らに思い居ける所に、此度の子末聞て、

等敷彼浪人衆相談して近在の百性共相語らい、

二・三百人引連れて岩窪目指して急行、既に城近く成りければ、

百性共に下知を伝え、城を十重二十重に押取巻き、

無二無三に攻めつけ、終に川尻を討取たり、

右之趣早速に徳川家康公に訴えける所、家康公甚だ甚悦び給い、

神妙也とて、同意之輩へ恩賞を被下ける、

川尻を討取しは山縣源四郎か郎等に、

三井弥市郎なりと人々感し悦びける。

 






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最終更新日  2021年12月22日 16時07分00秒
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