カテゴリ:山梨の歴史資料室
甲斐源氏検証
鎌倉時代に源頼朝をして恐れられた力を誇示した甲斐源氏、しかし現在の山梨県に於ける甲斐源氏に対する認識は必ずしも確かではない。これは無理もない話で、武田信玄に繋がる甲斐源氏は山梨県にとっては汚れなき武将であり、地域の英雄でもあるからである。 しかし山梨県内で発刊されている武田関係の諸書には大きな誤差が見られる。今回、甲斐の国司について調べる機会があり、甲斐源氏についても調べてみた。甲斐源氏についてもやはり『甲斐国志』の調査が群を抜いている。しかし甲斐国内の寺社や神社の由緒などの不確かな部分を正面から捉えすぎているきらいもある。 歴史は有効な史料の積み重ねから導き出されるもので、後世の伝説に近い話を拡大解釈して正当な歴史とすることは許されない。私はこれまで私的に「山口素堂の研究」・「甲斐の御牧」・「甲斐の古道」・「甲斐の古墳」などを資料を基に研究してきた。私の歴史調査は、史料がすべてである。それも山梨県周辺の図書館や博物館にある研究史料である。県内でも私論を挟まない古文書や先人の研究書は参考にしている。 山梨県の歴史書は私論と推論から組み立てられている書が多く見られ、真実の歴史を伝えているとは思えない。 十数年前に二度、武田発祥の地といわれる現在の茨城県勝田市に訪れてみた。 図書館廻りが主であったが、開発の進む中では当時の面影は見られない。しかし武田の発祥は間違いなく茨城県勝田市武田である。 しかしこれは近年まで山梨県では一部の人たちしか知らなかったことである。 以前から茨城県の歴史書には「源義清、甲斐配流」とあるのに、山梨では「武田発祥の地」とか「甲斐源氏発祥の地」など確かな史料に基づかない、真実を逆なでする伝説が観光の目玉になっている。 最近の武田関係のイベントは歴史感覚を疑いたくなるものが多い。歴史関係のイベントはともすれば、一般の人々に誤った歴史認識を与えることにもなる事を主催者は留意しなくてはならない。 古代の遺跡についても一考を要する問題である。大開発による遺跡破壊は深刻で、遺跡調査は開発の速度にはついて行けない状況であり、工事完成の期日を迫られる関係者とっては遺跡調査ほど迷惑な存在はないのである。市町村の中には古代の遺跡発掘を広報に載せたり、子供たちと土器作りや発掘までも実施している所もあり、好ましい限りである。それは如何なる情報時代であっても、自らの住む地域を知らせ、教える事は大切な情報であると思われる。現在開発の進む中山間地こそ古代遺跡の場であることを関係者は理解して欲しい。調査報告されないで破壊されていく遺跡の中には甲斐源氏や古代解明に欠かせない遺跡・遺構は多くあるのに違いない。 今回の『甲斐の御牧』と『異聞甲斐源氏』も、源義光の悪行や武田一族の裏切行為など正面から見ている書物を参考史料とした。 県内の著書は意識せずに書したつもりである。将来山梨県を支える子供たちには地域や歴史を真っ直ぐに見てもらいたい、そんな気持ちである。小説的や感情的で、さらに史料を持たない説を市町村や山梨県の歴史として伝える事は歴史関係者の為すことではない。又、不確かな部分は後世の解明に委ねる勇気が必要であり。伝記的な甲斐源氏像からの脱却こそ峡北の古代及び中世の真実に近づく事となるのである。 ここで奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』を中心に甲斐源氏関係の事蹟を抽出して見る事とする。それは、これまでの甲斐源氏のイメ-ジを一新し、再確認の機会を示唆する内容である。
奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』は
1. 天皇家多田源氏 2. 奥羽戦乱と東国源氏 3. 東国源氏の京都進出 4. 源平合戦と鎌倉三代 5. 南北朝争乱と足利一族 6. 新田諸侯と戦国争乱
の6巻から構成されている。特に2,3、が甲斐源氏について書されている。
詳細は先生の著本を参照していただきたい。
一、清和源氏の家系 《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
清和源氏は、清和天皇の六男貞純親王の子孫だということになっている。一書には親王が生まれる十二年以前に親王になったとまで記されている。また、父清和天皇がまだ二歳だった時に生まれたとする系図もある。 生年・没年・生涯の経歴などあまりにも謎が多すぎる。 明治十三年(1900)に発表した星野恒の論文では、清和源氏の祖は清和天皇ではない、貞純親王も清和源氏には関係ないという論文であった。この根拠は永承元年(1046)付けの源頼信の告文で、それは、
《石清水八幡宮の納めた願文で頼信自身が「自分は陽成天皇の末裔である」》
と明瞭に断定していたのである。
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最終更新日
2022年01月02日 12時12分23秒
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