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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月20日
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柳沢吉保 『元禄太平記』

 

1974(昭和49年)刊。矢切止夫氏著

 

『柳沢吉保 元禄太平記』なる実録本がある。これが種本になってまず上方では、 なる芝居が、寛政五年(1793)正月に大坂角座で上演されたし、江戸では文政二年(1862)五月に鶴屋南北作るところの、「梅柳若葉加賀染」が玉川座で大当りをとった。明治に入ってからは、「裏表柳のうちわ絵」を、河竹黙阿禰が書下ろし、中村座で、柳沢吉保役の九代目団十郎と、おさめの役の岩井半四郎のからみで、江都の人気をさらった。だから芝居を史実と思い誤る人や、実録本とあるのを売らんが為の能書きとは思わず、文字通りに受けとった人々によって、今でも、すっかり間違えられて、(柳沢弥太郎というのは、百五十石どりの小姓組番頭の身分から立身しようというので、悪事を働いた侫臣)といったことにされてしまい、「元禄年間の悪政は将軍綱吉が悪いのではなく、そそのかした柳沢が私欲を計って政治を勝手にしたからである」とするのが定説になっている。そして柳沢が軽い小姓番の身分から甲府十五万石までに、天下泰平の世なのに異常な大出世をする蔭には、「さめ」とよぶ妻女があったからだと実録本ではしている。

 

つまり柳沢弥太郎なる男は、

「なんとか立身したいものだ……」

と日夜その心をくだいていたが、これといって出世できるような手蔓がない。そこであせっていたが或る夜のこと。はっとヒラめくものがあった。そこで、その時は何も口にせずだったのが、次の日から非番の節には、

「所用がある…」

と外出して、明暦の大火から移転し建物も立派に並ぶ新吉原へ通いだし、散茶女郎、梅茶女郎、格子女郎、太夫の区別もなく片っ端から揚げてみた。

「わが妻女さめは、あれぞこの廓言葉で申す『みみず千匹』……つまり古原でさえその持主は居ない稀代の名器の持主でありしょな」

と、ようやく臨床実験の他流試合を重ね、その結果、おおいに納得するところがあった。そこで弥太郎は、

「これさ……わしの頼みをきいてくれぬか」

と、さめにきりだしてみた。

「はい嫁しては夫に従うが妻の道……なんなりと仰せなされて下さりませ」

と、答えるのに、

「其方の万人に一人……持つかどうかとされている稀代の秘所を、わしの出世のため役立ててくれぬか」

といった。そこで、さめは天性の美貌をそなえた色白な顔を紅潮させ、

「……と仰せなされますのは?」

恥ずかしそうに低い声で尋ねたところ、

「何も間かんともよい。唯、はいと承知してくれたら、それでよいのじや」

弥太郎は言い聞かせるごとく口にした。しかし女人の身ゆえ、およその見当はついたものの、さて、己が身にそなわる(みみず千匹の具合)など、自分では判ろう筈はなく、

「……して、この身に何を」

と、またくり返して聞きだした。そこで、弥太郎が叱りつけるごとく、きっとして、

「なにも妻とは申せ、いつもわしに抱かれて居るわけではあるまい……空いている時に何んせいと申すだけではないか」

と、すこし声を荒々しくさせた。そこまで口にされては、

「まあ…おまえさまは…」

と、さめも、仰天してしまい、おろおろしながら、

「他の事ならば何なりと、お云いつけは守りもしますが、そればっかりは……」

びっくりして拒もうとした。しかし弥太郎は泣き崩れる妻へ

「聞きわけのない……取り乱して何とした。用いて使うても減ずるものではないのに、なんで下惜しみ致すのか」

烈しい口調で怒鳴りつけてからが、

「そちやわしの出世を邪魔せんとするのか」

とまで口にした。それゆえ、

「滅相もない…」

と、怨めしげに、さめが顔をあげたところ、

「わが立身に協力せぬ、できぬというは邪魔致すも同断ではないか」

きつい声で難詰した。

「いくら云わしやっても、おまえさまという夫のある身が、なんでそないな…」

と、さめは困りまた泣き伏してしまうのへ、

「えい、めそめそ致すでない……夫がそうせいと申すに、それを聞かぬ妻があってよいものか。其方は己が身のことゆえ存じよらぬが、備え居るは稀代の秘宝。もし上さまに御賞玩して頂ければ如何ばかりお喜びなされようかと、忠義のために申して居るのだ」

 と将軍綱吉へ伽をするよういいつけたが、それでも、さめは首をふり、

「でも、あまりといえば余りな仰せ。お許しなされて下さりませ」

と、泣きくずれた。

「そちや、わしが上さまへ忠を尽くしたいというのを拒むのか」

と責められても、唯しくしく鳴咽するのみたった。それでも弥太郎は諦めようとはせず次の夜もやはりかきくどいた。

「いくら仰せられましても…、それは女として操を破ることになります」

 あくまで厭がるのへ、弥太郎は、これではならじと言葉を柔らげ、

「源平の昔に源ノ義朝の妻の常盤御前が、その操を敵の平ノ清盛に許し、やがては亡夫の仇をとり平家を滅ぼした故事を、そちや知らぬのか…操とは破っても棄てても、それが夫の為にさえなりや良しとするものじや」

 かんで含めるごとくいって聞かせ、

「……なにも妻とは申せ、わしが四六時中そもじを用いて居るわけではなかろ。なあ、わしが何んせぬ折りに将軍さまへ、お裾分けをしたらよいのではないか」

そっと声を落とし、

「そうじや裾を分けひろげて何するのじや…唯それだけのことだ」

 と、いってのけた。

「お、お裾分けなどとまあ、そないにお手軽な…」

「なにも其方を千代田城へ差し出してしまうのではない…・茶菓を出すごとくおすすめし摘んで頂くだけではないか」

 と、泣いて厭がるさめを脅かしすかし、ようやく納得させると弥太郎は、

「恐れながら…」と将軍綱吉へ、

「実はてまえ屋敷には門外不出の、世にも稀なる名器がござりまする」

秘かに訴えでた。

「如何なるそれは、珍器財宝なのか」

 そこで綱吉が、興味深く尋ねたが、弥太郎は、

「ここへ持参できるようなものではなく、又それは世に類のないもの…」

 とのみ申しあげ、

「なにとぞ手前の屋致へ…」

いくら間かれても、一点ばりで押し通した。そこで綱吉も、(こりや余程の珍奇な物であるらしい)と好奇心を抱くようになり、ついに

「では、ものは試し一度いって見ることにするか」

と、元禄四年三月。初めて柳沢の屋敷へゆき、そこで、

「これが、この世の無二の宝か…」

 すすめられて、さめを抱くと、千余の蛆矧がのたうち廻るような口にもいえぬ法楽に、さすがの将軍も夢みる心地にさせられてしまい、それから五十余度も柳沢家へ通うようになった。 そこで小姓の身分にすぎなかった弥太郎も、やがて甲府十五万石の柳沢吉保とまで立身、

「持つべきものは良き妻である」

と、おおいにさめをねぎらったが、妻の方は唯さめざめと泣いたというのが伝わるのが、「護国女太平記」の話の筋である。 柳沢は、明治維新まで続き、そして子爵になっている。別に御家断絶したわけではない。

そこで、 『福寿堂年録』とよばれる公用記録が、享保九年三月に甲府から郡山へ国替してからよりの、柳沢家の記録として伝えられていて、「戊辰戦争に際し郡山の柳沢の兵の二小隊百二十人が、鎮撫使四条降謌に従って奥州追討」「明治四年十一月に奈良県に統合される迄、柳沢保申が百四十七年間にわたって統いた藩主の地位はおりたが、郡山知藩事であった」のも明記されている。だから、いくら柳沢騒動が世に喧伝されたにしても、そう異説があってよいわけはなかろうと思われる。  

ところが実際は岩手十万石南部家に伝わっていた『福寿堂年録』などには、まったく変わった話がでている。そこで、盛岡市上目黒石野平の小笠原徳公邸に、保存されているそれを引用してみることとすると…  南部盛岡に聳える岩鷲山は、別名を岩手山ともよぶが、そこの麓に柳沢村というのが今もあるが、江戸時代にもあった。そこに生まれたのが、弥太郎で、

「変わりのごとしとの噂がありまする」

と言上をした。

「よし、では、まずその者をよべ」

と、鶴の一声。そこで呼び出しをうけた弥太郎は、翌朝、平川口より中の口へ上り、御当番の成田舎人、本田喜内、脇坂勘平、大久保伝五右らへ、

「われらの組頭伊奈半左衛門よりの差紙にて、かく出頭を仕りました」

 と登城のおもむきをのべたところ、差違いなきかを照合して調べた結果、

「よお候……」

と保科八郎左が同伴して、月番老中土屋相模守の許へ出頭。しかし御老中井伊掃部頭、酒井雅楽頭らは、この件を間こし召されて、

「前代末間なり、」

と不承知であった。しかし将軍綱吉は、あくまでも、

「柳沢の妻をこそ召せ」といいはるので、やむなく高家衆品川豊前守が代わって、すすきの間にて弥太郎に面接。というのは、弥太郎の身分では目見得できぬ仕来りだったからである。

「恐れながら七十俵取りの小普請の身分にては、妻女と交換でも登城さえもままなりませぬ」

 そこで御老中阿部豊後守が、諌めようと申し上げた。すると綱吉は、

「では苦しゅうない、柳沢とやらに役をつけてつかわせ」

と御納戸奉行を命じ、下総佐倉三万石の御加増を仰せ出され、しめて三万石七十俵となった。その内訳は、臼井、成田、安庭、海川、銚子、新川、屋多ら八部で、弥太郎は即日任官し、出羽守従五位下になった。そして二年後には、また綱吉の命令で、若年寄役にまで抜擢され、新たに下総古河にて二万石御加増で計五万石七十俵にまで、妻さめのおかげで累進した。 (……というのが『南部史料』である)

しかし下総佐倉に元禄七年に入府したのは戸田忠昌六万一千石、元禄十四年に戸田が越後高田へ移り、代わりに入ってきたのは稲葉正徳八万七千石。下総古河は大和郡山より移った九万石の松平信之で、元禄年間はその子の忠之がつぎ、他へ転封されてはいない。もっともらしくてもこうみてくるとまったくの嘘っぱちである。ついでにいえば、その時代の大老は堀田筑前。老中は戸田忠昌、松平信之、つまり前記の連中はまれな誤りなのである。高家衆の名前も同じく相違している。  では、どうしてこうしたものが、南部十万石の御城の中で、重要な御文書として取り扱われたり、現代に至っても、「史料」とされて居るかといえば、(元禄初年までは八戸藩へ二万石の分地をしたが、新田開発分を加えて前に上廻り順調だった南部藩の財政が、鹿角鉱山の産金が減ったことと、元禄年代の未曾有の冷水害で大飢饉が続いた際公儀に対し何度も救済万を申し出たのに対し、江戸参勤交代を免せられたくらいに止まり、いくら願い出ても御貸付金や米が来ず餓死者四万をだした)  という怨念が、藩主南部行信以下家臣一同に、これも側近柳沢めの取扱いの悪さからであると恨まれ、たまたま盛岡のはずれに同じ地名があるのを奇貨とし、儒臣か筆の立つ者が、

「……柳沢とはかかる卑賎な輩である」

と、昔は各藩がまったく別々でそれぞれの国だったからして、お構いなしに憎悪で作ったものを、勝手に御文書として門外不出で蔵って居たのだろう。つまり、昔の大名は自藩本位ゆえ、気儘にこうしたものをこしらえさせて、「史料である」としまいこみ、今になって郷土史家を誤まらせている、困ったものだが仕万がない。がおおっぴらに柳沢の悪口が一般にいわれるようになったのは明治に入ってから柳沢子爵が旧幕時代に比べして没落したからで、当時の人気役者九代目市川団十郎が鳥越の中村座で演じた芝居からであろう。それゆえ明治十二年六月三日脚届本の、東京日本橋松島町一の大西庄之助刊の木版刷り、「柳沢女太平記」「柳佐和実伝」の上下二巻を原文のままで紹介しておく。文献というわけではないが俗説柳沢騒動の最後のもので、大西が当時の芝居の筋書をそのまま、さももっともらしくまとめたものゆえ、珍しいものでおおかたの参考にもなろうと考えたからである。

 

「柳沢女太平記」「柳佐和実伝」

 

四代将軍徳川家綱公は温和柔順にして御政事向きは大老酒井雅楽頭へ御委任せられしゆえ、雅楽頭の威勢はおおいに盛んなり。さて家綱公には御子なくして御舎弟二方あり、兄を甲府宰相左馬頭綱重公、弟君は館林右馬頭綱吉公と申しあげた。  

さて甲府の緬重公は、生れつき大酒を好み給い日夜飲酒にふけり修身済家の道にうとく、忠臣根津字右衛円が、しきりに諌言なすといえども改めず、終にはうるさがって手討になし給う。しかし死した後も、その忠魂が出てきて君の飲酒を戒しめたので、緬重公も後には、その忠魂を尊敬し根津に祠を造る。今も下谷にある根津権現はこの祠堂なのである。が、それに反して綱吉公は怜悧にましまし仁義の道を旨とし給い、兄綱重公とは実に月とすっぽんの違いなりと世人はこぞって賞めたたえたものである。

時に延宝八年五月、右大臣征夷大将軍徳川家綱公が病にかかり給うに世子なく、臣下の面々御相続の評議を色々なきったところ、大老酒井雅楽頭が、しきりに我意をおしたてて傍若無人の挙動なり。家綱公まだ御元気の頃より御弟君の内のいづれかをと仰せ出されていたけれども雅楽頭は、これを拒みしが家綱公思い止り給わず、雅楽頭へ御内談には、もし君たらんには甲府と館林とは何れがよろしきや、と仰せありたれば、雅楽頭御答に甲府公は飲淫にふけり国事を顧りみず、もとより御主君などは思いもよらず、館林公は怜悧にて和漢の書に達し給へども惜むらくは文あって武なし。もし将軍にならせられても今日のような有様にては狡猾者にそそのかされ、終に国家危急に急に及ぶべし。まずまず御養君の御沙汰はおとどまり給うべし、と諌止したというのである。

さて、おのずからこのことはいつしか世上に洩れ聞こえてたからして、綱吉公の御附人牧野備後守思うよう、我君が御養君にならせ給い万一家綱公が蒐じ給い将軍に任じ給はばよし、さもなくば我々までも昇進はかなうまじ、何卒大願成就なさしめん、と独り心をいためたのであった。 時に京都真言の学寮智積院へ御武運長久の御祈祷を頼みたる所が、寺僧に随高坊という者ありたり。 彼償は元永田あたりに住み居りし松並道三といえる医者の子にて、博学秀才観相に抄を得て、すべての事が掌を指さすがごとき念力ある者なりしが、手続きをもとめて御祈蒔を頼みたるところ、それ以来牧野備前守邸内に滞留していた。  さて、牧野は深く随高坊を尊敬し綱吉公の人相を観せたところ

「御主君は、当然天下を掌に握らせるは必定なり」

と、申したれば、綱吉公もおおいに喜ばれ、

「我もし天下の主とならば、何なりとも貴僧の願いを叶うべし」

と、仰せあれば、感激した随高坊は平伏して、

「やつがれの願いは、なんとか大僧正の身分に昇りて、天下の御祈祷を仰せ付けられたく」

と、申し上げ、

【筆註】……ここから柳佐和弥太郎(柳沢)が登場する》それより「妹婿の柳佐和弥太郎」の住居を志ざし立ち出でける。そもそも柳佐和弥太郎といえるは小普請役柳佐和刑部左衛門の子にして才知押すぐれし者にて妻は松並道三といえる医者の娘にて「おさめ」という容顔美麗にして才智すぐれたものだった。

さて随高坊は、麹町二番町の弥太郎方に滞留して、牧野術後守より綱基地の御武運長久の御祈祷依頼を請われるまま、

「綱吉公の御容貌を観相したるに、必ずや天下の主と成り給うは疑いなし」

など、弥太郎にも物語りきかせた。 さて立身出世を願うは人の情なれども白分には縁故がなきためなんともならずと、かねて弥太郎、は深く歎き居たりし身ゆえ、この事を聞き小躍りなして歓び、随高坊の紹介にて牧野備後守屋敷へゆくと、進物をもってゆき礼をつくして尊敬し交り深くなりぬ。さても牧野は弥太郎の才知あるを知ったからして、綱吉公へ上申し御伽番に周旋したからして、浪人だった弥太郎の歓び大かたならずであった。しばしば側近習番にもやがて召出され、百五十俵二人扶持を給いたのに感激して、それより、茶の湯、或いは詩を作り歌を詠じ、雑談等して、日々御側をさらす勤仕したればなお百五十俵くだされ都合で二百俵二人扶持となりたるしくみであった。 さて綱吉公とは性偏頗にして学問をこのませ給い、折々御気分欝々になられるを家臣一同は牧野備後守はじめ皆々心配していた。そこで弥太郎は、ここぞ我が力を売る所と張りきり、綱吉公の御心を慰めたれば、いつとなく御気分もまぎれ何気色うるわしくならせ給う。そこで綱吉公の御母堂も深く喜悦あらせられ、牧野備後守に間合せられたれば、牧野は、柳佐和弥太郎が才知機転より仰素読もなされるよう御病状も次第に御全快あらせられたと、しきりに弥太郎を賞めたれば、母君桂章院殿にも御満足の上意ありたれば、弥太郎は厚き御沙汰に伏して喜びを申上げたり。ここに館林公の御家来にて本庄次郎左衛門とて万百石賜りたる人は柱章院殿の御甥でありたれば、今は家臣となれども正しくは綱吉公には本庄は伯父にあたっていた。そこで手づるを求めて立入なば、

立身出世の早道ならんと交りを結びしあと、弥太郎はしきりと賄賂を送りたれば、本庄も弥太郎を愛顧するようになった。  或るとき弥太郎は次郎左衛門へ改まって申したるは、「先生の御厚志にて、度々拝領ものなどを賜っておりますれば、

「愚妻さめをば御局側年寄福井さま御殿まで伺わせたく存じますが、なにとぞ良ろしゅうに……」

と相談をした。本庄が承知して便宜を計ってやると、

「有難うこざる」

と柳佐和弥太郎はおおいに喜びて、色々な珍貴な品々を収り揃えさせてから、おさめに申しふくめ、局の許まで差し出した。さて、兼ねてよりとりなしがよくしてあったので、御手寄福井さまは、「おさめ」伴ってゆき、桂章院へ献上のうえで御目見得の仰せもうけてきた。

「夫の弥太郎の骨折りで、綱吉の不快が直りかけは満足なり、そちも時々は館へまいるべし」

 桂章院殿はねんごろに仰せられて上々の首尾であった。さても綱吉公は学問にのみ御心を傾けられ女色をきらいカ男色を愛し給うが故に、御母堂の御心労ひとかたならず、よって牧野備後守に仰せられるは柳佐和弥太郎はきけ者ゆえ、女色を進めまいらせんためと存じ万事を弥太郎に任せたり。それゆえ柳佐和は仰せかしこみ、もっぱらその事のみ心を砕きたる。  さても延宝八年五月六日に、四代将軍家綱公卿養生叶わず御他界あらせられたれども、御世継ぎ君の御決定なきゆえ、御三家をよばれて大老酒井候御老中も列席にて、御評議の上ついに綱吉公と定りたれば、ここに至って家綱公薨去の仰せ出されありて即日綱吉公は大納言に任じ西の丸へ入り給いたり。時に大老酒井候は病気として引こもり、己が意のごとくならざりしため切腹してはてた。それゆえ堀田備中守が大老を仰せつけられた。綱吉公天下の主となり給いたれば御母君の弟本庄久郎右衛門へ五万石賜り因幡守に任じ、牧野備後守には二万石御加増あり、その他餌林家に仕えし輩ことごとく御取立あり。  

なかんずく柳佐和弥太郎は西京より美女を召し下し、綱吉公の仰伽ぎに差出したれぱ御愛顧ひと方ならず三千石下しおかれ御側役をも仰せつけられ出羽守と任官し、なお一万石御加増にて都合一万二千石を賜り御側御用人にまで立身したのでその威勢は日々に盛になった。また知積院の所化随高坊へは兼ての約定もあれば大僧正に任ぜられ、一つ橋外に地所を清め御武運長久のため一字の祈願所を建立せられ御城の鬼門を護持の文字をもって護持院題僧正と改めて、寺領千石を賜りその荘敢さは人の目を奪う程であった。時に京よりの側室は、若君出生せしかば一層御寵愛も深かったが、柳佐和夫婦に注意されて彼女は御台所を大切になし、将軍にすすめまいらせ折々は、奥方さまの許へも入らせたれば、奥方も遂に御懐妊あそばしたれば、御着帯の御祝儀として柳佐和出羽守へ二万石の御加増あり総高五万三千石となりたり。しかるに御台所は女子を御安産、また側室は御男子を御出生にて徳松君と称し西丸へ移らせられしが御疱瘡にて逝去ましましたれば、彼女は深く歎き悲しみについに病死されてしまった。

 柳佐和は大いに力を落し、綱吉公も若君及び彼女の死を歎き給い以前の御病を又も脳発し、日々欝々として入らせられたれば、御病気平癒の御祈蒔を護持院へ仰せ付られることとなった。網吉菅公は戌の牛なりとして市中の犬を大切に取扱い殺生を禁じ給いたる。また柳佐和の取なしを以て綱吉公には牧野備後守、堀田備中守、本庄因幡守等の邸へ成らせられ、御慰みに御能などを催したのであった。中にも柳佐和出羽守は容顔美麗なる舞妓を召抱え諸芸を御覧に入るべきと将軍家におなりを願いたるに、御土産として三万石賜り、御能の後には美麗の舞妓どもに、琴三弦をかきならせ興をそえ君の御心をなぐさめけると、しきりに御奉公を申しあげた。

 

 いくら原文の儘といっても程度があるので、あまりにひどい個所は直したが、どうにもならぬのが内容である。今から一世紀以上も前の明治十一年のものでも、これではどうしようもない。しかし芝居の話が歴史として日本ではまかり通るから、こうした俗説の万が面白可笑しく今では一般の常識化されている。が、「さめ」病死もしていないし、護持院降光も随高坊ではなくて京よりきた朝鮮人の坊さんなのである。また、「生類憐れみの令」も本当は政治的なものであって、皮革商で儲けてきた騎馬民族の残党の神道派への弾圧だったのである。つまり酒井忠清が切腹してはてたとするのもでたらめであって、すべてが実際とは違いすぎる。柳沢をわざと柳佐和としてあるのだから、事実、相違も仕方ないといってしまえばそれまでだがに弥太郎は養子に入ったのでもなければ浪人していたのでもない。また自分の側室となった町子は京から迎えたが将軍へというようなことはなかったのである。

 

さても綱吉公には脚気欝を散ずるため各所へならせ給いしが、柳佐和の邸にて御覧ありし舞妓が深く御心に叶いしより日夜とも御酒宜宴あらせられ、かの舞妓を相手に婬酒に耽り給うようなった。そこで、

「このほど君の御行状は、美女を召し抱え婬酒にふけり給うのみ、なんとか御改正あってしかるべし」

 井伊掃部頭登城なし牧野備後守へ申されたるゆえ、牧野は君へ御諫言申上げたるがかえって御不興を蒙り側役御免となりたれば御側御用人は柳佐和一人とあいなった。そこでその後の柳佐和は万事心のままに綱吉公へ媚を献じるのにあくせくした。さてその頃、新吉原三浦屋次郎左衛門の抱えの遊女で、当時全盛の聞え高き大町清浦らを大金にて身請し、妻おさめにも遊女の粧いをさせた柳佐和は、頃も弥生の中旬にて庭前の桜盛りなれば、綱吉公へお成りを願いして、殊に仰喜悦の脚気色なされるようにと、その用意をなした。

 時に三月十九日、綱吉公が成らせられ庭の景色をうつし、暫くあって柳佐和の妻「おさめ」が遊女の粧いにて新造やかぶろを連れ八文字にて徐々と姿をみせ、やがて綱吉公の御側へ参ると、色眼をつくって長きせるの吸いつけ煙草をさしだした。  そこで「おさめ」が容色に迷いたまいし将軍家は酒興に乗じ怪しくなられ、とうとう泊ってゆく旨を仰せ出された。ゆかしき移り香は還御後も消えやらず、その後も将軍はしばしば成らせ給うほどに、「おさめ」やがて懐妊をなした。

「もし御男子出生ありたれば四海の王」

と喜びあっていたところ、月みちて御男子出生ありたれば柳佐和夫婦は天へ昇る心地にてその由、君へ言上に及ひたるに、将軍は御祝儀として二万石を下しおかれ、よって合計十五万二千石となり、美濃守と改め、松平の称号を賜り柳佐和の威勢十よ他に並ぶものなきようになりしとぞ。これより将軍家には御治世二十五年に至りたれども、さて御世継なく、よって老臣評議のうえ甲府宰相綱童公の御子息家宣公と定め大納言に任じ西ノ丸へ御入りありたり。さてこの君聡明にますます御孝心深く、きわめて至仁の聞え高く衆人その徳を賞されていた。

しかるに綱吉公には柳佐和の家に仰男子出生につき、なにとぞ我が血統を以て相続させんと思えど、一旦家宣公卿養君となしたる上は、もはやせん方なし、いかがせんと思い煩い仏給いたまえていたり。ある日護持院僧正を召され何か御相談ありたるが、程なく将軍家には怪しい御病気を発したるゆえ、護持院を召され西ノ丸に於て御病気を平癒を修したるが、何の修法であったのか御病悩は逆にいやますばかり、ついに御発狂のていなれば、井伊掃部は深く怪しみ、ある夜白身で西ノ丸へ当直を養目(ひきめ)の法を修したに不思議なるかな将軍家の御病気が速やかに御平癒ありたり。掃部頭はさてこそとそれより護持院僧正に面談の上、修法の件を詰問あり以後は登城無用ときびしく言渡された。そこで護持院僧正は戸も出せず赤面なして、そのまま御城を下っていった。さてもおさめは或る日、綱吉公の御酒宴の席にでて、そっと御機嫌をうかがっていた上で、

「私こと賤しき身にて度々君の御惰をばいただき、ついには御胤をやどし今の越前守殿を生みました。しかし可哀そうなのは、あの子でございます。この身に表向きの夫が居るばっかりに、越前守どのは正しく君の御胤であっても何ともなりませぬ。先年御養君が甲府より西ノ丸へ入らせられ御世継ぎとして定まりましたゆえ、越前守どのは御城にて御誕生ましまさば、正しく御世継になり給うべきに、賎しきこの身にやどり給いしゆえ果報ったなきこととなり申し、生みし身としては辛うございます」

 涙ながらに袖をひき訴えたゆえ、綱吉公もさらに心を乱し給い、

「なる程、越前守は我子に相違なき故に世継となさん、と思えど一旦家宣を養子となしたれば今更せんすべなし、よりてこれまで種々に手だてをめぐらせど事ならず。されどここにひとつの手段あり。来る正月十一日は具足開きの式日なれば当日は老臣を遠ざけ、家宣を千討ちになしてしまい、そして、「さめ」の生みたる高子をば次の将軍にしてやらん」

と仰せられ、

「万が一にも事ならざる時は、やむを得ぬから其方の生んだ兄をば百万石に取立て、甲斐の国主となすべし」

 と、仰せあり、料紙や硯を取よせ給い、

「甲斐信濃二ケ国にて百万石を迫て沙汰すべきものなり松平美濃守へ」

と、御白筆にてしるしたまい、「おさめ」へ御渡しあそばされた。おさめはこれを頂戴なしありがたく御礼申し上げ、なおも御心を慰さめ奉まつり御酒宴も終りたれぱ、いつものごとく御寝所へ伴い将軍家もその夜は柳佐和御殿へ泊りたり。 さて翌朝、綱吉公は改めて松平美濃守吉里を召され、其方の数年来の忠勤は類がなきよりこのたび甲斐の国主となし百万石をあてがうべしと、御墨附を給わりたれば、吉里謹んで御請け申した。お伴してきた柳佐和へ将軍家は声を落し思う仔細もあれば、当分はこの事を他へ披露すべからず、との上意にて、承知した美濃守も有がたく御礼を申上げ御前をまかり出たり。  さても光陰は休むこともなく、その年もくれて明ければ宝永六年の春を迎え、あら玉の正月となった。御祝いの元旦の儀式も七種の年賀の膳もおわり、正月の十日とぞなりにける。よって明十一日は具足開きの当日なれば将軍もおわせまし、それゆえ明日は西丸家宜公と御跡目に正式に決める儀式をとり行なう。そのため水入らずにつき掃部頭始め老中も出席に及ばざるむねが将軍自身より仰せ出された。掃部頭これを聞きふしぎに思い、万一家宣公に凶事あっては国家の人事で大乱のもとはこの上へ有るべきはなしと、すぐさま御前へまかり出て御機嫌を伺い言上なしたるは、

「明日は仰具足開きの御祝いにて、当日は親子御二方のみにて行い給い、愚老を始め老中の者は出席に及ばざるよしのお達しですが、さりながら私めは老年に及び候て、明をも知れぬ命に思えば今生の思い出になにとぞ出席をお許しなされたく、この段願い奉まつる」

 と、心配して申し上げた。が、将軍家にあっては御許しこれなく再三しいて願いたるに、御不興に思いめされ、

「以後は出仕に及ばず早々に国元へ立戻り隠居住るべし。しかしこれ迄の勤めを思し召され」  

と、貞宗の御刀を拝領仰せられ、それで御前を伺候下りはしたが忠義一途の掃部頭そのまま大奥に到り御台所へ御目通りを願いでて御前へ伺候すると、今日の始末を言上に及び御暇乞いの為参上仕ると落涙に及んだ。かねて賢明の御台所は掃部頭の意中をすぐ推察なさり万事みずから心をくばり、どうか国許へ戻っても、息災で居れよと仰せられ掃部頭に別れを告げ給えり。  そして君御不例の由なればと御台所は御見舞を出された。そのためその夜は当直の者を休息させ、引き退らせて待っておられると、

「わしは元気である」

と、将軍家は心配させまいと、大奥へおもむかれた。そこで奥女中にて御寝所を出められ御台所は直接に将軍家へ御談判の様子であった。やがて夜中であったが諸役人総登城して具足開きに参列せよと叩令がでた。家宣公はこのため無難に御家督と定り、松平美濃守は御役御免遠慮仰せ付られる結果となったのである。その後百万石の墨付を取戻さんとして井伊掃部頭は、柳佐和中家へ到り美濃守吉保を説き伏せ難なく御墨付取戻しに成功。よって美濃守は隠居して子息の吉里が家督相続をなし、甲斐守と改めて大和の郡山において十五万千二百石余を賜った。吉保はやがて入道して保山と号したが、妻のさめと仲良く安堵のおもいをなしてすごした。これひとえに御台所の貞烈によるものと掃祁頭の誠忠のなす所なりという。かくてこの後は事故もなく相すみたのである。間もなく御台所にあっては御逝去あそばされたが、御自害のよしも風聞せり。  時に宝永六年五月朔日、家宣将軍宣下あり徳川六代の君と仰がれけるとぞめでたかれ……云々。

 

適当というか、でたらめというか飛んでもない話である。綱吉が、おさめにかきくどかれて世つぎときめた家宣を手討ちにして殺してしまおうとしたとか。御台所(原文では御産所)が談判して取りやめにさせたが、妻としては婦徳に反するのではあるまいかと反省して自殺というのは可笑しい。また幕末有名だったが桜出門外の変で、殺された井伊掃部頭がでてきて大活躍するけれど、元禄十三年まではたしか井伊直興が大老だったが、その後はずっと柳沢吉保が大老なのである。江戸時代の幕閣にあって、大奥の御台所の許へ、井伊が別れを告げに行くあたりは「南部坂、雪の別れ」の忠臣蔵の模倣である。男子禁制の所ゆえ大老でもゆけはしない筈である。また、夫と共にいるおさめが妊娠したからといって、綱吉の子であるというのも変である。それに初めは舞妓が気に入って通ったのが、途中から人妻のおさめに転向もおかしい。少女趣味の男が成熟したおとなの女へ、好みが変ることなど常識ではありはしない。また護持院が祈祷して病状を悪化させたのを、井伊が拝み直して治したというのもひどい。今でいえば劇画のように挿絵を主にしたものゆえ、とやかくいっても始まらぬが、宝塚で大正時代にレビユーを始めたとき、衣裳代の関係で袖の短かいものをきせ、これに和洋大合奏の賑やかな曲をつけたのが、「元禄花見踊」のタイトルであったため、「元禄時代」といえば何か派手な連想を憶え、天下泰平だったようなイメージをもたされてしまい、それが今では常識のごとく固まっているが、とんでもない狂乱な大弾圧と大冷害の時代だったのは、これから書く柳沢吉保の実際によって判ってほしい。真の元禄時代を解明してゆくには、彼を通して書くしかないから、これまでの俗説を打破するために、次々とここまで愚にもつかぬものを羅列してきたのを御侘びする次第である。     

 

『護国女太平記』 ごこくおんなたいへいき

 

江戸中期の実録体小説。筆者未詳(《甲子夜話》十九巻には、赤穂浪士一件の際、播州へ隠密として遣わされた御小人目付とする)。成立年未詳(一七一七年(享保二)の序文をもつ書もあるが,内容の上では享保二年以降の事実を含んでいる)。一五巻または二十巻。いわゆる柳沢騒動の実録体小説中、もっとも成長をとげたもの。

五代将軍徳川綱吉が柳沢吉保の子吉里をわが子と信じて、六代将軍にしようとしたのを、正室鷹司氏信子が夫綱吉を殺害、未然に防いで自害したのが書名の由来である。実際には麻疹と疱瘡で没したにもかかわらず、相次いで急逝したため種々の風説が当時よりあり(《鸚鵡籠中記》)、それらを核に、《日光かんたんの枕》《増補日光邯鄲枕》《日光霊夢記》《元宝荘子》《宝永太平記》などの実録体小説が出現した。《増補日光邯鄲枕》では、井伊掃部頭を善玉,柳沢吉保を悪玉としているが,その作者自序には井伊家に仕えていたとある。

 

 

 

 






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最終更新日  2022年01月20日 05時09分16秒
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