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2022年01月20日
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新井白石『折たく柴の記』に見る柳沢吉保

u 土屋民部と新井白石について

 

柳沢吉保の事について記されている箇所があるということで、紐解いてみると、そこには武田滅亡の際に獅子粉塵の活躍した土屋右衛門尉昌恒のこと、その後土屋家について記してあるのを見て、白石と甲斐の関係に何か因縁深いもの感じた。

 

 (前文略)父が、土屋民部の家に来られて、まだわたくしの母を妻に迎えられないうちに、親交のあった人の三男を養子にし、正信と名のらせておられた(幼名一弥)。この人は、常陸の大掾の家に仕えた、郡司某の子孫だということであった。かの正信の十六歳のときから、土屋民部の二男が、陸奥の相馬家を継がれたときに、召し連れられて、あちらに仕えておられた。(成人のちには弥一右衛門)自分の父が土屋の家を去られた後は、その方のもとから、老年を養うに足る料をおくられた。その後、かの人は所領を嫡男に譲り与えて、二人の子供に郡司を名のらせた。自分が禄について後は、その人からおくられていたのを辞退した。間もなく、その人も亡くなったが、その嫡男もまた早逝し、二男がそのあとを継いたが、この人もまた早逝した。今はその二男の幼い子が、父のあとを継いでいる。

 嫡男をば軍治一郎兵衛といい、二男を同弥一右衛門という。その子は一弥というのである。どうしてか、郡司を改めて軍治としるす。

 土屋民部の祖父は、甲斐の武田四郎勝頼の侍大将で、土屋右衛門尉昌恒といった。その兄の右衛門尉昌次というのが、戦死した後、兄を継いだ。主家が亡びた際、重代の家人等も、皆主家に後ろ失を射たが、この昌恒一人だけは主に離れず、ついに一所で死んだ。その輩下の志水、神戸という二人の武士は、昌恒の妻と子をともない、駿河国に落ちのびて来た。清見寺の住僧は、神戸の知人であったので、かの子息を、その僧に弟子入りさせた。その六歳の時、大御所が御覧なさって、土屋の子である由をお聞きになり、「立派な武士の子である。いただきたい」とおっしゃり、召し連れられて、竹千代君に仕えさせてから、次第に身を起こして、元服後、叙爵して民部少輔忠直と名のらされた。これが後の土屋民部である。

 

【割注 徳川実紀東照宮御実紀附録巻十三】

 

甲斐の土屋惣蔵昌恒が子は、昌恒が主の勝頼がために討死せし後、故ありて駿河国清見寺にありしを。一とせ駿河より江戸へ入らせられしとき。清見寺へ立寄らせられ、御硯箱めせしに、この子硯箱持いでゝ奉れば、墨すれと上意にて御側にさし置れ。囃子の番組など書しるしたまひ。出立せ給ふにのぞみ。このをさなきものは誰が子なりやと御尋あれば、寺僧これは御敵なりし者の子なれば憚なきにあらず。さりとて今はつゝむべきにも侍らず。甲斐の土屋惣蔵が子なりと申上れば。そは忠臣の子なり。われにくれよと宣ひ、御召替の御輿にのらしめて召連られ、江城の御玄関まで成せられしに、台徳院殿出で迎へ給ふ所へ御みづからこの童子の手を引て、これは此度道中にて思はずほり出せし懐中脇差なり。忠臣の種なれば随分に秘蔵し給へとてさづけらる。台徳院殿童子の袖をとらしめて。盛意をかしこみ謝し給ふ。これより御側に近侍し寵眷浅からず。後に民部少輔忠直とていと才幹ある者になりしなり。

かの志水の子孫はどうなったのであろうか。神戸の子孫は、土屋家では無二の譜第の侍であった。神戸の孫兄弟は三人あった。長幼は父のあとを継ぎ、二男は陸奥三春を領する松下家に仕えた。(松下家の長老で神戸三郎右衛門)三男も土屋民部の家に仕えた。その二男の妻は、わたくしの母の姉君である。したがって、三男にとっては兄嫁の妹であったので、わたくしの母を仲立にして、わたくしの父にめあわされたのである。

武蔵国青梅という所にある天寧寺の前住持祖麟和尚という人は、かの二男であった神戸の子供で、自分のためには母方の従弟であった。三男の人は、さるものの孫であったが、年来不幸に沈淪して、六十歳になった冬の初めに出家を思いたち、子供のことなどをわたしの父に頼まれたことがあったが、三十日ばかりのうちに、土屋民部の舎弟であられた但馬守数直朝臣が、執政の職に任ぜられたので、神戸の子孫一人を賜わりたいと請われ、忽ちかの家の長老となられた。かかる老いての後の幸福を、自分は眼のあたりに見た。しかしながら、これはその祖先の余慶に外ならぬと考えられる。(これから後は神戸新右衛門といった)その嫡子は、父とともに数直朝臣の家に仕えた。二男は土屋民部の家にとどまり仕えていたが、早逝した。かの嫡男の後は、今も栄えているようである。

 父が、わたくしの母を妻に迎えられたのは、四十をはるかにこえられてからのことであろう。初め女子が二人まで生まれたが、二人とも三歳未満で死んだ。(略)その次も女子で、十九歳で亡くなられた。白分の妹一人があったが、十八歳で亡くなった。わたくしが生まれたのは、父が五十七歳、母が四十二歳の時のことであろうか。(明暦三年二月)

 (中略)






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最終更新日  2022年01月20日 05時19分55秒
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