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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月22日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
   甲斐郷土資料による年譜(2)
 基本資料
  高白=高白斎実記(甲陽日記)  栗原左兵衛 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
  妙法=妙法寺記   妙法寺住僧 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
  甲陽=甲陽軍艦
 参考資料
  武田=武田史料集   清水茂夫氏服部治則氏校註 昭和42年刊。
  暦年=日本歴史年表   歴史学研究会編 
  山梨=図説 山梨県の歴史   磯貝正義氏著 河出書房新社刊。
  武川=武川村誌、年表
  小笠=小笠原文書
  鎌倉=鎌倉大草紙
  一蓮=一蓮寺文書   甲斐甲府
  王代=王代記
  甲斐=甲斐国志
  高野=高野山文書   高野山引導院過去帳
  勝山=勝山記
  宝寿=宝寿至要旧記
  御頭=諏訪神使御頭之日記
  歴名=歴名士代
  津金=信州津金文書
  寛政=寛政重修諸家譜
  塩山=塩山向岳禅庵小年代記
  堀江=堀江文書
  守矢=守矢文書
  積翠=積翠寺文書
  系図=武田系図
  東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
  神使=守矢文書/神使御頭之日記
  神幸=当社神幸記
  甲陽=甲陽軍艦
  小平=小平物語
  高野=高野山引導院過去帳
 ○= 地域周辺の事。
 ●= 武田家に関すること。
 ◎= 中央の出来事。
 ※= 武田家周辺の事。
天文十一年 1542【高白】《信虎-49歳・信玄-22歳》
○此年、正月大朔日、十三日立春、
●二月九日定奉行衆初る。廿四日午刻御勢調。三月大朔日、十五日。
●三月大朔日、十五日。
天文十一年 1542  2月【甲陽】
●天文十一年二月中旬に、信濃の国大身衆、小笠原、諏訪頼重、村上義清、木曽殿、尽
く申合わせ、甲州武田晴信公、退治いたすべきとの評議の事、甲府へきこへ、武田の家
老、板垣信方、飯富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守、其外皆々家老
衆、足軽大将、弓矢巧者の武篇者、打寄り談合仕る。一ツ書をもって、晴信公へいさめ
申上る。云々
●(略)子細は五年以前、父信虎を追出申す時、義元を頼み、駿河へ方便出だし、信虎
公を駿府にとどめ置まいらせらるゝは、偏に、義元へ、むざい故故也。義元如此(かく
のごとき)段、精に入、我等甲州をふみしづめ候様に分別せられ候。奥意は、信虎公
は、舅と申老巧の大将なれば、、我旗下に仕ル事ならず、某は又義元に二ツの年劣り候
へば、旗下にせんと有る、覚悟なるべきなり、さある所に、加勢こひ候共、我らは、義
元にはた下に究り候。加勢をこひ候共、あなたなどより、人質を出し、是非共、我等参
るか、さなくば家老の者共、如何ほども進ずべきなど申に付け、人数を呼候はゞ、それ
をあなたをこなたの、旗下に仕ての儀也。
天文十一年 1542  3月 9日【甲陽】
●天文十一年、初の三月九日、辰の刻(午前八時)に甲州方から始められたこの合戦は
未の刻(午後二時)に終わった。信濃勢を討ち取ること千六百二十一名、その頸帳を記
し、勝どきをあげられた。
●信濃小笠原長時・諏訪頼重・村上義清・木曾義康ら、武田晴信を甲斐の攻める。晴信
信濃瀬沢に迎え撃ってこれを破る。【戦国】
●味方にも負傷者・死者が多数あり、飯富兵部、甘利備前も負傷した。
●信州瀬沢合戦とはこれである。信玄公が二十二歳の御時であった。(品第二十二)
●小笠原・諏訪・村上・木曾氏、連合して甲信国境瀬沢・平沢で武田氏と戦い、敗退す
ると伝える。【長野】
天文十一年 1542  4月【高白】
●四月節向上諏訪御出馬、朝曇り、細雨、大井の森御陣所温井人衆も高白に同心仕候。
天文十一年 1542  4月29日【高白】
●廿九日、みさ山原御陣所□(京鳥)取候て御調美。
天文十一年 1542  5月23日【王代】
○五月廿三日御門立、カチ番匠二百七十四人。
天文十一年 1542  6月【妙法】
●此年、六月、信州諏訪方殿へ取懸被食候。武田殿切勝被食候而、諏訪方殿を生捕に被
成候而、府中にて腹を兄弟御切候。
天文十一年 1542【守矢】
●武田晴信、諏訪氏を攻撃し、上原城を落し、諏訪頼重を自殺させる。
天文十一年 1542  7月【妙法】
●又、同年七月、信州伊那へ取懸被食候。伊那衆切劣(負け)て、首三千と聞申候。
●7月5日、晴信が頼重と和し、甲府に伴い東光寺に幽す。【武川/高白】
●7月21日、頼重が自刃する。【武川/高白】
●7月、武田晴信、諏訪頼重を自殺される。
天文十一年 1542  7月 2日【長野】
●武田晴信、高遠諏訪頼継・下社金刺氏とともに、諏訪頼重を諏訪郡上原城に攻めて破
り、五日町・十日町・上野原町に放火する。ついで桑原城に頼重を攻め、開城した頼重
を捕える。
天文十一年 1542  7月 4日【守矢/神使】
●七月四日、高とやの城を攻め落とし、同五日に頼重甲府へ御越、同廿日の夜御腹めさ
れ候。
天文十一年 1542  7月 5日【長野】
●武田晴信、諏訪頼重を甲斐に幽閉、ついで自刃させる。
●晴信ら、諏訪郡宮川以西を高遠諏訪頼継、以東を晴信の所領と協定する。
天文十一年 1542  8月【高白】
●士峯御陣所諏訪の方雲黒赤。
●三日、桑原へ押詰風雨。
●四日、桑原城攻頼重を生捕、酉刻各陣所へ帰る。
●五日、頼重甲府へ被遣申刻着府。
●九日、屋形様御帰府。
●十三日、諏訪大悦方へ御預、十八日。
○八月節、十九日、頼重□者。
●廿一日、寅刻頼重被為切腹。
●廿五日、下諏訪始めて出仕。
●八月小、六日、彼岸に入る。
●十二日、棟別(せんべつ)帳始む。
天文十一年 1542  7月 8日【長野】
●武田晴信、諏訪上社に諏訪神戸、矢崎の地で灯明田と社僧領を寄進する。
天文十一年 1542  9月【高白】
●九月小、十日午刻、下諏訪放火、
●十日に頼重息虎王殿を引立、従甲府御出張。【守矢/神使】
●翌十一日信方向諏訪勤。
●十九日、巳刻御出馬、若神子御陣所。
●同廿五日に一戦候て、高遠之人数七百騎討取候。頼重おぢ薩摩殿(満隆)甲州御同心
にて候。【守矢/神使】
●廿五日、未刻出て宮川橋御合戦、蓮芳被為陣取。長坂筑後守・「栗原左衛門」高名、
酉刻御勝利。
●廿六日、廿六日辰刻被仰付候間高白藤沢口放火案内者。神長一騎。諏訪薩摩守方竹慶
は遅着陣。
●廿八日、箕輪次郎出仕。
●廿九日、信方上伊那口斗勤。
天文十一年 1542  9月10日【長野】
●諏訪郡折半に不満な高遠諏訪頼継、上社禰宜矢島満清と語らい、上原城を奪い下社に
放火、上・下社を占領する。
天文十一年 1542  9月25日【武川/高白】
●晴信が高遠頼継を諏訪の安国寺に破る。
●武田晴信が諏訪頼信を破り、諏訪氏の全所領を支配する。
天文十一年 1542  9月24日【守矢】
○納め奉る願書の事。今度の働き利運に就いては、具足壹領・馬壹疋・伊那郡に於て百
貫文、神領、これを付するべきものなり、仍って願書かくの如し。
 天文拾壹年九月廿四日 武田大膳大夫晴信(花押)
  諏訪法性上下大明神御宝前
●信州諏訪於て安国寺前宮川端、頸一ツ討取候、神妙之至、
 弥此上可袖忠信之状如件、
  天文十一年九月二十五日 晴信 印
   正徳寺平次左衛門との
天文十一年 1542  9月26日【長野】
●武田方駒井高白斎、伊那郡に入り、藤沢口に放火、福与城の藤沢頼親(よりちか)を
降す。板垣信方も出兵する。
天文十一年 1542【妙法】
○此年、秋世中一向悪く候而、大風三度迄吹申候。人々餓死事無限。去共賣買安し。飢
饉渇にて御座候。並て三年致餓死候。
天文十一年 1542 10月【高白】
●十月大朔日、高白陣所上伊那山寺。
●七日、諏訪西方の衆鳴御室鈴の奉行高白。
天文十一年 1542 10月 7日【長野】
●諏訪上社神長守矢頼真(よりざね)、武田晴信に味方し、諏訪頼継方の矢島満清にか
わり同社禰宜を兼ねる。
天文十一年 1542 10月【戦国】
●信濃村上義清、小笠原長時の援兵とともに武田晴信と同国大門峠に戦い、敗れる。
天文十一月 1542 11月【高白】
●十一月大朔日
●十九刻甘利備前守、新屋の普請初。
 二十九日、従駿府高井兵庫之助、御縁御祝言為御使参府。
天文十一年 1542 12月【高白】
○十二月小朔日、五日土用。
●十五日、夜従彌津御前様御越御祝言。
○廿三日立春。
天文十一年 1542 12月15日【長野】
●晴信、小県郡彌津元直の娘を娶る。このころ諏訪頼重の娘も娶る。
●晴信、この年以降、信濃一宮諏訪上下社を保護する。
天文十二年 1543  1月 3日【甲陽軍艦】《信虎-50歳・晴信-23歳》
◆山本勘助の登場
◆ 天文十二年正月三日、武田の家老たちが集まって、その年の晴信公の軍備につき討議を行なった。ここで信州の諏訪・佐久・小県などの敵味方の国境に城を構えについて、城の構え方さえよければ、千人の敵に対して味方は三百で持ちこたえることが出来る。これは城の構え方、設計に重要な秘訣があるからだ、ということがいわれた。
 そして、この城の構え方をよく心得た強剛が、駿河の今川義元公の御家中、庵原殿の
身内となっていこと、この者は今川殿への奉公を望んでいるが、義元公がお抱えになら
ぬこと、彼は三河の国、牛窪の侍だが、四国・九州・中国から関東各地までを回って修
行した大剛の武士で、山本勘助ということなどがいわれた。
 そして板垣信方が、この勘助を呼び寄せ、お抱えになるようにと晴信公に申し上げた
ので、その年の三月、知行百貫というお約束で勘助を駿河から呼び寄せられた。
 勘助のご挨拶を受けられた晴信公は、直ちに、「勘助は、片目の上、数カ所の負傷に
よって手足もやや不自由に見える。しかも色は黒い。これほどの醜男でありながら、そ
の名声が高いところをみると、よくよく能力のすぐれた武士と思われる。このような武
士に百貫の知行では不足であろうと」と仰せられ、二百貫をくだされた。
 その年の暮、十一月中旬に信州へご出馬があって、十一月下旬から十二月十五日まで
の間に、城が九つ落ちて晴信公のお手にはいったが、これは全て山本勘助の武略による
ものであった。
 晴信公が二十二歳のときのことである。(品第二十四)
《割註》『北佐久郡志』第二編歴史編・信陽雑志・千曲真砂他。
 甲州が武田氏が佐久に侵入して来たころ、郡内に存在した主なる諸将とその居城。
城名   所在地      城主(北)  城主(信)   城主(千)
平尾城   平根村上平尾   平尾氏  平尾右近守芳
志賀城   志賀村      笠原氏
高棚城   志賀村      志賀氏
小田井城  御代田村小田井 小田井城  小田井又六郎兄弟 同上
黒岩城   岩村田町       大井氏
岩尾城   高瀬村岩尾    大井氏  大井弾正行頼  大井弾正行真(頼)
耳取城   三岡村耳取    大井氏  大井民部大輔か 大井民部満安
森山城   三岡村森山    森山氏  森山豊後守満繁
             森山兵部助成繁
平原城   南大井村平原   平原氏  平原入道   同上
鍋蓋城   小諸町      大井氏
與良城(依)小諸町      與良氏  與良遠江
望月城   本牧村      望月氏  滋野遠江守信雅  同上
倉見城   本牧村茂田井   米持氏
蘆田城   芦田村      蘆田氏  蘆田下野守信守  同上
柏木城   北大井村柏木   柏木氏
額岩寺砦  川辺村布引   額岩寺氏  大井左馬允忠成
小諸城
前山城   伴野左衛門佐信豊 同上
内山城   大井小次郎隆景  玄岑か隆景
天文十二年 1543【王代】
○一ノセキ七百人シテスル。翌年六月水ニ破ルニ堰代岩手御寄進、宮内少輔信田宮ノ後
板上池坊ツイツク。カヘニ早カヽル。宝林坊旦那。
天文十二年 1543【妙法】
○此年正月より賣買安し。米百文に今升四斗賣買申候。其物の安き事無限。
天文十二年 1543  正月【高白】
○正月朔日。
●三日大風、従道艦の宿出火、御前の屋形類焼。翌日高白が家進上仕る。
天文十二年 1543  2月【高白】
●二月十四日、従萩原彦次郎宿出火、其以後御前の御屋敷へ御移。廿五日節。
天文十二年 1543  3月【高白】
○三月廿日、雨常の間の御柱立。
●三月廿三日、御勢調原同心衆を高白召連候。
○廿七日、節。
●天文十二年三月、武田晴信の伊那攻略に諏訪武士先鋒をつとめる。【小平】
天文十二年 1543  4月【高白】
●四月大朔日、六日、常の間の御棟挙、辰刻信形諏訪郡に被踞、久々の申上意御使者今
井勢州、甘利備前守高白。
天文十二年 1543  4月【長野】
●武田晴信、板垣信方を諏訪郡代とする。ついで信方に上原城を普請させ、信濃攻略の
基地とする。
天文十二年 1543  5月【高白】
●五月廿五日、巳刻向己午上原の城の鍬立。七九。
※穴山信友、金山衆に芳(保)金山の採掘を命ずる。【山梨】
天文十二年 1543  6月【高白】
●六月大、十一日、土用日也。信形諏訪に在城の門出。
●十五日、信形出陣。
●十七日、午の刻、屋形様御出張。
●十九日、上原へ御着。
●二十日、御普請、雨。
●廿六日、城の御座建、並御門四つ城城戸建。
○廿九日節。
天文十二年 1543  7月【高白】
●七月十三日、初て長坂上原在城衆移る。
●十五日、下宮の城普請初。
●廿八日、御帰府。
○廿日節。
天文十二年 1543  7月【長野】
●板垣信方、諏訪上社権祝(ごんのほうり)に諏訪郡下桑原の御射山神田を安堵する。
天文十二年 1543  9月【高白】
●九月九日、申刻光台為御退治、千塚迄御出陣。
●十日、若神子の御着。
●十二日、海野口。
●十五日、宮の上。
●十六日、前山。
●十七日、御着陣申刻長窪の城被為攻。
●十九日、光台生捕。
●廿日、望月一族被為生害、同廿日、光台為警固、曽根・高白両人青柳に泊る。
●廿一日、府中へ着。
●十月大朔日、御帰府。二日節、常の間へ御移り。
●九月、晴信、大井貞隆の長窪城を後略【山梨】
天文十二年 1543  9月19日【長野】
●武田晴信、佐久郡から進軍し小県郡長窪城に大井貞隆を攻め、捕えて甲府に送る。
●ついで望月一族を殺す。
天文十三年 1544  正月【妙法】《信虎-51歳・晴信-24歳》
○此年、春世間福貴致候。大麦一切悪く御座候而、夏餓死致候事秋散々ちかひ候而、世
間人々餓死致候事無限。不思議事外物能候而、千葉にて身命を継中候。
●武田四郎勝頼、天文十三年□月生、【武田源氏一流系図】
天文十三年 1544  正月【高白】
○正月朔日、昨日着。
●二日、小山田宿所を出桑原九郎右衛門に致対談。御條目を申渡。向山又七郎同心仕
る。翌日帰る。
○六日立春。
●廿三日、彼岸に入る。菩提の観音御戸開。
天文十三年 1544  2月【甲陽軍艦】
●天文十三年二月、晴信公は信州諏訪郡に軍を進められた。このとき板垣信方の戦略に
よって晴信公の弟君、典厩信繁を晴信の御名代とし、諏訪頼重との休戦が成り立ち、頼
重は甲府に出仕するとの約束が結ばれた。晴信公は三圧に帰陣なされる。
●ついで諏訪頼重との間に和議が成立し、甲府の国境は蔦木と定められ、頼重は甲府で
出仕 される。その三度目のおり、、晴信公はご中間頭、萩原弥右衛門に仰せつけられ
て、頼重を成敗なされた。
天文十三年 1544  3月【高白】
●三月、三州牛窪の浪人山本勘助召抱へらる。
○六日節、
●十三日、辰刻御主殿の柱立。
●廿四日、御主殿棟挙風雨。
天文十三年 1544  4月【高白】
○四月大朔日。
○八日、節。
●十一日、信形、上原に着城。
●十三日、屋形様御着。
●十五日、上原の地普請終わる。
天文十三年 1544  7月【高白】
●七月大朔、信形諏訪の屋敷鍬立。六月節の内なり。
○十日七月節。
天文十三年 1544  8月【高白】
●八月廿八日、信形丑刻に出府、諏訪郡の在城。
天文十三年 1544 10月【高白】
●十月十六日、屋形様御出陣。於禮拜場、御馬鼻血出る。不苦候や其後何事なし。
●十月廿八日、在(有)賀へ酉刻御着陣。
●廿九日、御先衆、荒神山に陣取り。
天文十三年 1544 11月【高白】
●十一月朔日、為御使者荒神山へ打寄働の場近辺放火、於松島原。敵の首二十六、栗原
左衛門軍功。
●廿六日、上原へ御帰陣。
●九日、御帰府。
○十四日節。
○閏十一月朔日、十四日小寒、廿七日土用、十二月大朔日大寒、十六日立春。
●廿二日、御主殿へ御移り、御祝儀の御酒。
天文十三年 1544 11月 1日【長野】
●武田晴信、諏訪頼継攻めの兵を出し、伊那郡福与城の前進基地荒神山で藤沢頼親の軍
と戦う。
天文十三年 1544 12月【妙法】
●此年。極月、小林宮内助殿相模屋形氏貞様へ御参御供の旁刀を悉金作に致し被申候。
去程に小田原にても加様成きらめきは早雲以後は不見申と致風聞候。
天文十四年 1545  1月【高白】《信虎-52歳・晴信-25歳》
○正月小朔日。
天文十四年 1545  1月【甲陽】
●天文十四年正月十九日、典厩信繁を大将にとし、板垣信方が先鋒、日向大和守が後衛
となって諏訪に出撃する。
●二月、板垣信方の先鋒による、諏訪勢と合戦あり、信方が勝利。
●板垣信方は諏訪の郡代にある。
●晴信公、山本勘助の意見により諏訪頼重の娘を召し置かれた。(品第二十四)
天文十四年 1545  1月【王代】
○哥山筆宗純本願良舜。
●信州箕輪立降参、同駿豆和睦刷。
天文十四年 1545  2月【高白】
○二月小、高国寺の客殿の柱立。同日駒井の鳥井立。十五日火焼。十八日節。四月、し
ゃうごん院御着。
●十一日、向高遠御出馬雨。
●十四日、未刻、上原へ御着城。細雨。
●十五日、杖つき峠御陣所雖被為取候。昼夜雨。
●十七日、諏訪頼継、自落。
●十八日、高遠屋敷御陣所。
●廿日節、高遠御立。午刻に箕輪へ御着陣。
●廿九日、鎌田長門守討死。
天文十四年 1545  4月17日【高白】
●武田晴信、杖突峠から高遠の諏訪頼継を攻め、頼継逃亡する。
●ついで武田軍、福与城に迫り、城下の三日町上棚に陣をしく。
天文十四年 1545  5月【高白】
◎五月大、廿一日節、相州・羽州・瀧崎動。
◎廿二日、駿州松川より御加勢。
●六月大、板垣駿河守、瀧ケ崎落城敵の首、四十六討捕。栗原左衛門手、首十七討捕。
 晴信公より、感状を賜。
●六月十日、藤沢次郎身血、其上藤沢権次郎為人質、穴山陣所へ参敵城放火。
●十三日、辰刻、箕輪を御立、塩尻御陣所、於高白陣所□(京鳥)をとらへ進上。
●十四日、林近所迄放火、桔梗原御陣所、熊野井の城自城。子刻十五打立、小笠原の館
放火。
天文十四年 1545  6月【高白】
●六月十五日、於桔梗原勝鬨。
●十六日、御帰陣。
●十七日、御着府。
天文十四年 1545  6月 1日【長野】
※小笠原長時、福与城藤沢頼親を赴援、竜ヶ崎城に拠る。
●此日、板垣信方ら武田軍、同城を攻略する。
●ついで福与城も陥落、頼親は武田晴信に降る。
天文十四年 1545  6月13日【長野】
●武田晴信、小笠原長時領筑摩郡塩尻に出兵、ついで桔梗ケ原に兵を進める。熊野井城
自落する。
天文十四年 1545  7月【高野】
●甲州武田信虎御母様御菩提也。天文十四年七月廿三日同六月十九日逝去。
天文十四年 1545  8月【高白】
●八月大、本須迄温丹為同心行、七日帰る。
●又、九日、高白計本須へ行。
○十日、富士の於善徳寺、御一書並御口上之旨雪斎高井一ノ宮方へ申渡す。細雨。
●十一日、巳刻、義元に被成御対面、未刻御身血なされ、御振舞飯麺子。御盃一度御刀
被下。
●十三日。帰府。
●十七日、山下源三、出仕。
◎廿三日節。
天文十四年 1545  8月16日【武川/勝山】
●今川義元が北条氏康と駿河に戦う。晴信は義元を救けて吉原に陣する。
天文十四年 1545  9月【高白】
●九月大九日、細雨、未刻御出張向山迄。
●十二日、本須御陣所、板垣・栗原は大石寺迄夜大雨。
●十四日、従、北条氏康御城来る。
●十五日、大石寺に御着陣。
●十六日、辰刻吉原自落馬見墓御陣所、於逆途、義元御対面。
●十七日、義元、御陣所に御留候。
●十八日、辰刻打立今井見付御陣所。
●十九日、千本松御陣所。
●廿日、岡宮近所の原御陣取。義元は長窪。
●廿一日、陣屋をかける。
●廿四日節。
●廿七日、きせ川の橋掛けさせられる。
天文十四年 1545  9月【山梨】
●晴信、今川義元救援に駿河に出兵。
天文十四年 1545  10月【高白】
○十月朔日、
●十五日、従巳刻半途へ出。板垣・向山・高白山陰連判、
氏康陣所桑原方へ越戌成刻帰る。
●廿日、長窪の城見分に行御宿生害。
●廿四日、管領義元氏康三方輪の誓句参候。此義に付高白三度雪斎陣所へ行。
●廿二日、互に矢留。
●廿八日、箕輪次郎帰陣。
●廿九日、於朝佐陣所談合。境目城を捕立、非分に氏康被懸取候なり。既に義元落着の
義ひるかへられ候者、晴信則可入馬之事。此間の落着をひるかへし難たひ承なり。氏康
を捨義元へ同意可申事、右三ケ條合点申候由朝佐雪斎判形をすゑ板垣と高白へ給り候間
罷帰戌刻上る。
天文十四年 1545  10月28日【長野】
●藤沢頼親武田軍の属し駿河に出陣、晴信と今川義元・北条氏康の和睦により帰陣。
天文十四年 1545  10月29日【武川/高白】
●今川義元と北条氏が晴信の斡旋により和睦する。
天文十四年 1545  10月【山梨】
●晴信の斡旋で、今川・北条・上杉、三氏に講和。
天文十四年 1545  11月【高白】
●十一月大朔日、長窪。
●十一月六日、敵出城。
●八日。義元・晴信、互に大事の義は自筆を以可申合と被迎合、翌九日互に御請取渡候
なり。
天文十四年 1545  12月13日【守矢】
●天文十四年十二月、武田晴信、守矢頼真の長男に晴信の信の一字を与える。





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最終更新日  2022年01月22日 20時01分59秒
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