山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2022/02/27(日)17:24

甲斐源氏を封印する歴史家たち 情けない!! 甲斐源氏検証 軍記物語 平治物語

甲斐源氏(8)

甲斐源氏検証 軍記物語 平治物語『新日本古典文学大系』一部加筆 頼朝義兵を挙げらるる事并平家退治の事  一条(忠頼)・武田(信義)・小笠原(長清)、甲斐国よりうって出、駿河の目代弘正討たんとて、駿河国へ発向する、目代弘正、其勢、幾程もになかりければ、平家に心ざしある輩一手余騎、馳集めて目代を見つぎけり、甲斐源氏、三千余騎を三手に分けて、中に取籠責ければ、目代弘正、討たれにけり。平家、此事を聞きて、官軍をさし下さる、大将軍は権亮少将惟(維)盛、其勢五万余騎にて、富士川の岸、蒲原に陣をとる、兵衛佐、二十余万騎の勢にて、足柄と箱根、二の山を越えて、駿河国黄瀬川に陳をとる、明日合戦と定めた夜、富士の沼におりゐたりける水鳥の、たちける羽音を鯨波と聞きなして、一矢も射ず逃げのぼりける。平家物語 (巻四、源氏揃)『日本古典文学大系』 其比後白河院、第二の皇子以仁の王と申しは、御母加賀大納言季成(藤原)卿の御娘也、三条高倉にましましければ、高倉の宮(以仁王)とぞ申ける、(中略)其比近衛河原に候ける源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御所にまいて、申ける事こそおそろしけれ、「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ、太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、三十まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや、当世のていを見候に、うへにはしたがいたるやうなれども、内々は平家をそねまぬ物や候、御謀反おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿に押し込められてわたらせ給ふ御心をも、やすめまいらせ、君も位につかせ給ふべし、これ御孝行のいたりにてこそ候はんずれ、もしおぼしめしたゝせ給ひて、令旨をくださせ給ふ物ならば、悦をなしてまいらむずる源氏どもこそおほう候へ」とて、申つゞく、「まづ京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、(中略)甲斐国には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同小次部長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、(中略)これみな六孫王(経基)の苗裔、多田新発満仲が後胤なり、朝敵をもたいらげ、宿望をとげし事は、源平いづれ勝劣なかりしか共、今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にも猶おとれり、国には国司にしたがひ、庄には預所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすひおもひも候はず、いかばかりか心うく候らん、君もしおぼしめしたゝせ給て、令旨をたうづる物ならば、夜を日についで馳のぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐらすべからず、入道も年こそよて候ども、子共ひきぐしてまいり候べし」とぞ申たる、 (巻五、富士川)甲斐と信濃の源氏さる程に、此人々は九重の都をたて、千里の東海におもむき給ふ、(中略)日かずふれば、(治水四年)十月十六日には、するがの国清見が関にぞつき給ふ、都をば三万余騎でいでしかど、路次の兵めしぐして、七万余騎とぞきこえし、先陣はかん原・富士河にすゝみ、後陣はいまだ手越・宇津にささへたり、大将軍権亮少将維盛、侍大将上総守忠清をめして、「たゞ維盛が存知には、足柄をうちこえて坂東にていくさをせん」とはやられけるを、上総守申けるは、「福原をたゝせ給し時、入道殿(平清盛)の御定には、いくさをば忠清にまかせさせ給へと仰候しぞかし、八ケ国の兵共みな兵衛佐にしたがひついて候なれば、なん十万騎か候らん、御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々のかり武者共なり、馬も人もせめふせて候、伊豆・駿河の勢のまいるべきだにもいまだみえ候はず、たゞ富士河をまへにあてて、みかたの御勢をまたせ給ふべうや候らん」と申ければ、力及ばでゆらへたり、さる程に、兵衛佐は足柄の山を打こえて、駿河国喜瀬河にこそつき給へ、甲斐と信濃の源氏ども馳来てひとつになる、浮嶋が原にて勢ぞろひあり、廿万騎とぞしるいたる、(中略)又大将軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛をめして、「やゝ実盛、なんぢ程のつよ弓勢兵、八ケ国にいか程あるぞ」ととひ給へば、斎藤別当あざわらて申けるは、「(中略)甲斐・信濃の源氏ども、案内はして候、富士のこしより搦手にやまはり候らん、かう申せば君をおくせさせまいらせんとて申には候はず、いくさはせいにはよらず、はかり事によるとこそ申つたへて候へ、実盛今度の戦に、命いきてふたゝびみやこへまいるべしとも覚候はず」と申ければ、平家の兵共これきいて、みなふるいわなゝきあへり、(巻五、五節之沙汰)一条次郎忠頼、安田三郎義定兵衛佐、馬よりおり、甲をぬぎ、手水うがいをして、王城の方をふしをがみ、「これはまたく頼朝がわたくしの高名にあらず、八幡大菩薩の御はからひなり」とぞの給ひける、やがて打ち取り所なればとて、駿河国をば一条次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定にあづけらる、平家をばつゞゐてもせむべけれども、うしろもさすがにおぼつかなしとて、浮嶋が原よりひきしりぞき、相模国へぞかへられける。(巻九、宇治川先陣)武田太郎(信義)他尾張国より大手・搦手二手にわかてせめのぼる、大手の大将軍、蒲御曹司(源)範頼、相伴う人々、武田太郎(信義)・鏡(加賀美)次郎・一条次郎忠頼・板垣の三郎謙信・稲毛三郎重成・楾谷四郎・熊谷次郎・猪俣小平六を先として、都合其勢三万五千余騎、近江国野路・篠原にぞつきにける、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、おなじくともなふ人々、安田三郎義定・大内太郎・畠山庄司次郎・梶原源太・佐々木四郎・糠屋藤太・・渋谷右馬允・平山武者どころをはじめとして、都合其勢二万五千余騎、伊賀国をへて宇治橋のつめにぞをしよせたる、(中略)軍記物語 第六編(巻九、河原合戦)安田三郎義定                   宇治・勢田やぶれぬと聞えしかば、木曾左馬頭義仲、最後の暇申さんとて、院の御所六条殿へ馳せ参る、(中略)大将軍九郎義経、軍兵共に戦をばせさせ、院御所のおぼつかなきに、守護し奉らんとて、まづ我身ともにひた甲五六騎、六条殿へはせまいる、(中略)法皇大に御感あて、やがて門をひらかせて入られけり、(中略)法皇は中門のれんじより叡覧あて、「ゆゝしげなるもの共哉、みな名のらせよ」と仰ければ、まづ大将軍九郎義経、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重責とこそ名のたれ、義経ぐして、武士は六人、鎧はいろいろなりけれども、つらだましゐ事がらいづれもおとらず、 (巻九、木曾義仲の最期)甲斐の一条次郎殿義仲は長坂をへて丹波路へおもむくとも聞えけり、又龍花ごへにかゝて北国へともきこえけり、かかりしかども、今井が行ゑをきかばやとて、勢田の方へおちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぽつかなきに、宮こへとてかへすほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿にゆきあひたてまつる、互になか一町ばかりよりそれとみして、主従駒をはやめてよりあふたり、木曾殿今井が手をとての給ひけるは、「義仲六条河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくえの恋しさに、おほくの敵の中をかけわて、是まではのがれたる也」、今井四郎、「御ぢやうまことに恭なう候、兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれども、御行えのおぼつかなさに、これまでまいて候」とぞ申ける、木曾殿「契はいまだくちせざりけり、義仲がせいは敵にをしへだてられ、山林にはせちて、此辺にもあるらんぞ、汝がまかせてもたせたる旗あげさせよ」との給へば、今井が旗をさしあげたり、京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつるものともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞ馳せ集る、木曾大に悦て、「此勢あらばなどか最後のいくさせざるべき、こヽにしぐらうで見ゆるはたが手やらん」、「甲斐の一条次郎忠頼殿とこそ承候へ」、「せいはいくらほどあるやらん」、「六千余騎とこそ聞え候へ」、「さてはよい敵ごさんなれ、おなじう死なば、よからう敵にかけあふて、大勢の中でこそ打死をもせめ」とて、真っ先にこそすゝみけれ、木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒しめ、いか物づくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさにいて少々のこたるを、かしらだかにおいなし、しげどうの弓もて、きこゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましゐに、黄覆輪の鞍をいてぞのたりける、あぶみふばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、「昔はきゝけん物を、木曾の冠者、今はみるらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや、甲斐の一条次郎とこそきけ、たがいによい敵ぞ、義仲うて兵衛佐に見せよや」とて、おめいてかく、一条次郎、「只今名乗るは大将軍ぞ、あますなもの共、もらすな若党、うてや」とて、大ぜいの中にとりこめて、我うとらんとぞすゝみける、木曾三百余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文宇にかけわて、うしろへつといでたれば、五十騎ばかりになりにけり、 (巻九、樋口被討罰)甲斐の一条次郎殿今井が兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野の城へこえたりけるが、そこにてはうちもらしぬ、紀伊国名草にありと聞えしかば、やがてつゞゐてこえたりけるが、都にいくさありときいて馳のぼる、(中略)五百余騎のせい、あそこにひかへここにひかへ落行ほどに、鳥羽の南の門をいでけるには、其勢わづかに廿余騎にぞなりにける、樋口次郎けふすでに宮こへ人と聞えしかば、党も豪家も七条・朱雀・四塚さまへ馳向、樋口が手に茅野太郎と云ものあり、四塚にいくらも馳むかふたる敵の中へかけ人、大音声をあげて、「此御中に、甲斐の一条次郎殿の御手の人や在ます」ととひければ、「あながち一条次郎殿の手で戦をばするか、誰にもあへかし」とて、どとわらふ、わらはれてなのりけるは、「かう申は信濃国諏訪上官の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光広、必ず一条次郎殿の御手をたづぬるにはあらず、おとゝの茅野七郎それにあり、光広が子共二人、信濃国に候が、「あぱれわが父はようてや死にたるらん、あしうてや死にたるらん」となげかん処に、おとゝの七郎がまへで打死して、子共にたしかにきかせんと思ため也、敵をばきらふまじ」とて、あれに馳あひ是にはせあひ、敵三騎ゐおとし、四人にあたる敵にをしならべ、ひくでどうどおち、さしちがへてぞ死にける。 (巻九、三草勢揃)武田太郎信義他                    さる程に、源氏は四日よすべかりしが、故人道(平清盛)相国の忌日ときいて、仏事をとげさせんがためによせず、五日は西ふさがり、六日は道忌日、七日の卯剋に、一谷の東西の木戸口にて源平矢合とこそさだめけれ、さりながらも、四日は吉日なればとて、大手搦手の大将軍、軍兵二手にわかて都をたつ、大手の大将軍は蒲御曹司範頼、相伴人々、武田太郎信義・鏡美次郎遠光・同小次郎長清・山名次郎教義・同三郎義行、侍大将には梶原平三景時・嫡子源太景季・次男平次景高・同三郎景家(中略)を先として、都合其勢五万余騎、四日の辰の一点に都をたて、其日中酉の剋に摂津国蹴陽野に陣をとる、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同く伴ふ人々、安田三郎義貞・大内太郎維義・行上判宮代康国・田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実平・子息弥太郎遠平、(中略)都合其勢一万余騎、同日の同時に都をたて丹波路にかゝり、二日路を一日にうて、播磨と丹波のさかひなる三草の山の東の山口に、小野原にこそつきにけれ、 (巻十、海道下)甲斐の白根さる程に、本三位中将(平重衛)をば、鎌倉の前兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、「さらばくださるべし」とて、土肥次郎実平が手より、まづ九郎御曹司の宿所へわたしたてまつる、同三月十日、、梶原平三景時にぐせられて、鎌倉へこそくだられけれ、西国よりいけどりにせられて、宮こへかへるだに口おしきに、いつしか又関の東へおもむかれけん心のうち、をしはかられて哀也、(中略)宮こをいでて日数ふれば、やよひもなか半すぎ、春もすでにくれなんとす、(中略)宇都の山辺の蔦の道、心ぼそくもうちこえて、手ごしをすぎてゆけば、北にとをざかて、雪しろき山あり、とへば甲斐のしら根といふ、其時三位中将おつる涙ををさへて、かうぞおもひつゞけ給ふ。  おしからぬ命なれどもけふまでぞつれなきかひのしらねをもみつ(巻十、藤戸) 加賀美次郎長清(元暦元年)同九月十二日、参河守範頼、平家追討のために西国へ発向す、相ひ伴ふ人々、足利蔵人義兼・鏡美(加賀美)小次郎長清・北条小四郎義時・斎院次官親義、侍大将には、土肥次郎実平・子息弥太郎遠平(中略)此等を初として都合其勢三万余騎、宮こをたて播磨の室にぞっきにける、 (巻十一、遠矢)浅利与一 又判官(義経)ののり給へる船に、奥よりしらののおほ矢をひとつゐたてて、和田がやうに「こなたへ給はらん」とぞまねいたる、判官是をぬかせて見給へば、しらのに山鳥の尾をもてはいだりける矢の、十四束三ぶせあるに、伊予国住人、仁井紀四郎親清とぞかきつけたる、判官、後藤兵衛実基をめして、「この矢ゐつべきもの、みかたに誰かある」との給へば、「甲斐源氏に阿佐里(浅利)与一(義成)殿こそ、勢兵にて在まし候へ」、「さらばよべ」とてよばれければ、阿佐里の与一いできたり、判官の給ひけるは、「奥よりこの矢をゐて候が、ゐかへせとまねき候、御へんあそばし候なむや」、「給て見候はん」とて、つまよて、「是はすこしよはう候、矢づかもちとみじかう候、おなじうは義成が具足にてつかまつり候はん」とて、ぬりごめ藤の弓の九尺ばかりあるに、ぬりのにくろぽろはいだる矢の、我が大手にをしにぎて、十五束ありけるをうちくわせ、よぴいてひやうどはなつ、四町余をつとゐわたして、大船のへにたたる仁井の紀四郎親清かまたゞなかをひやうふつとゐて、船底へ逆さまにゐたうす、生死をばしらず、阿佐里の与一はもとより勢兵の手きゝなり、二町にはしる鹿をば、はづさずゐけるとぞきこえし、

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