カテゴリ:甲斐源氏
甲斐源氏発祥地、茨城県ひたちなか市武田郷 白州ふるさと文庫 山口素堂資料室編 茨城県ひたちなか市の武田郷の調査に赴くこと4回を数える。最初は認識不足や地理不知もあり、空回りして帰ってきた。昨年と今年は少量ではあるが旧勝田市図書館で資料を得ることができた。昨年の時は結構資料があったように思われたが、合併のせいか本年は昨年の資料を見つけることができなかった。 完全なものではないが、資料優先で「甲斐源氏発祥の地」を綴ってみる。また2回訪れた武田氏館には管理人のおばさんがいて、親切に案内してくれ、「遠くからたいへんでしたね。どうぞ自由に見てください」とのこと。周囲は新興住宅地で、行き着くまでの時間を浪費したがこの言葉で解消、山梨県の磯貝正義氏の甲斐源氏資料が置いてあった。 余談ではあれるが、あの日本武尊もたしかに茨城県から忽然と甲斐の酒折に姿をあらわしている。
【武(竹)田】 甲斐の武田氏が著名、『新編常陸国誌』に…那珂郡武田郷に起こる。 義光(甲斐源氏祖・新羅三郎)-義清-伊沢五郎信光……岩崎五郎七郎信隆-信直(八代郡一宮)-信久(逃げて常陸に奔り行方武井に隠れる。-威信(結城七郎など五人斬る。武井を武田に改める) 【武田 多祁多】 東南は勝倉村、西は堀口村、北は大島外石川二村に接し、東西七町、南北十八町余ありて、久保、猫山、の二組、中原の二坪を有す。 即倭名鈔、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に、吉田郡云々武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。或いは云、甲斐武田氏も亦この村より出つ、元禄十五年(1702)の石高三百五十六石七斗九升九合。 【沼尾神社】武田大明神 ひたちなか市武田に鎮座する旧郷社。 創建時は不明であるが、慶安元年(1648)再建されたと記録にあり、武田郷の鎮守として武田大明神と尊称された。その後江戸時代に徳川光圀が神鏡を奉納している。 神体は衣冠の木像にて長一尺一寸六分あり、社領五斗九升九合。 那珂郡の諸郷 『和名抄』 入野、朝妻、吉田、岡田、幡田、安賀、大井、河内、川辺、常石(ときは)・全隈(またくま)、日下部、志万(しま)、阿波、芳賀、石上、鹿島、茨城・洗井、那珂、八部、武田。 武田郷の解説 倭名鈔云、武田按ずるに、今の武田村これなり、この村の北に菅谷村あり、其地に不動院と云ふ密寺あり、武田山と号す。この辺凡武田郷なること押して知るべし。倭名鈔及地図を按ずるに、この郷東は岡田郷に接し、西は河内郡に隣り、南は那賀川の涯りて、志万郡に対し、北は久慈郡木前、美和両郡に堺を接して、武田、勝倉、堀口、枝川、津田、市毛、菅谷、田彦、稲田等の九村、七千石ばかりの地、皆古の武田郷なり。 古代の武田郷が、菅谷まで広がっていたとは思われない。『新編常陸国誌』が菅谷の地を武田郷に入れたのは、菅谷に武田山不動院という真言宗の寺院があるので、武田山と武田を結びつけたのである。 しかし武田山不動院は最初から菅谷の建立さたのではない。『願行流血脈』(がんぎょうりゅうけつみやく)によると、武田不動院は初め高場に建立され のちに菅谷に移され、武田山不動院の名を嗣いだのである。 武田郷の中心は、現在の武田にあった。平安時代の仁平元年(1151)4月8日の吉田郡倉員(くらかず)に宛てた「常陸国留守所下文」(くだしぶん)に「早く御庁宣旨に任せ、武田荒野を領地せしむべき事」とある。「荒野;とすれば現在の高野にあたる。また高場不動院が武田不動院とも呼ばれたのは、高場の地が武田郷に属していたからである。 平安時代末に、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、那賀川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に三男義清を那珂郡武田郷に配置し那賀川以北に勢力の扶植をはかった。 武田氏館 (看板資料より) 義清は、眼下に那賀川を望む武田台地の突端に居館を構え、武田の郷名をとって初めて武田氏と称し、武田冠者の名のった、この義清が甲斐国に配流となり、甲斐源氏の祖となるのである。 12世紀の初め、甲斐武田氏の先祖である源義清、清光父子がこの武田に館を構え、初めて武田氏を称したことが、志田諄一茨城キリスト教大学教授の研究、(勝田市史編纂事業)によって明らかになりました。市では私たちの郷土勝田市が甲斐武田の発祥の地であることを記念し、市民の方々が郷土の歴史に対する理解を深めるとともに、新しいふるさとづくりの拠りどころとなるよう「ふるさと創生事」の一つとして武田氏館を建設しました。
常陸の国司が申すには、清光という住人がでたらめで、乱暴をはたらき、争いごとなどを起こして困っているなどと訴えてきた。詳しいことは別紙「目録」に記されている。 住人清光は、いうまでもなく武田冠者義清の子清光のことである。12世紀の初めごろの武田郷周辺の地は、常陸平氏の吉田清幹・盛幹父子をはじめ、鹿島神宮の中臣字などの在地勢力と、そこへ新たに武田の地へ居を構えた武田義清・清光らの勢力が張り合っていた。勢力拡張をあせった義清・清光らの行為が、在地勢力の反発を受け、清光「濫行」のゆえをもって告発された。とくに大治2年(1127)年に、義光が去ってからは、義清・清光父子に対する抵抗が 一層強まったことが考えられる。 義光没後の大治5年(1130)12月、常陸国司藤原朝臣盛輔らによって朝廷に訴えられたのである。しかい清光濫行事件の子細を記した目録がないため、その詳細を知ることができない。(看板資料より) 鎌倉幕府の成立と吉田郷 一、 源義清と武田郷 佐竹氏の性格 常陸進出の野望(抜粋) (略)佐竹氏の始祖である源義光は後三年の役のとき左兵衛尉という官職を捨てて陸奥に下り、兄の義家を助けた。義光のそうした振舞いが、京都の当局者に嫌悪されるところとなった。また京都においては兄の義家や義綱の勢威におされ、みずからの力量を発揮することができず、そのために東国に勢力を扶植しようとしたといわれている。(略) 『今昔物語集』と「十訓抄」には、義光が院の近臣として権勢のあった六条顕季と、東国の荘をめぐって所領争いをしたことが書かれている。その所領は「十訓抄」によれば、常陸国多珂郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。ここはもともと顕季の領地であった。従って顕季に理があり、義光に非があることは明らであったらしい。しかし、一向に白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそかに法皇をうらめしく思っていたのである。ところがある日、顕季が御前に伺候していると、法皇は顕季に対し、「この問題の理非はよくわかっているが、義光はあの庄一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、無法者の武士がなにをするかわからない。だからあの庄は義光に譲ってはどうか」と仰せられた。顕季は涙をのんで仰せにしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書いて与えた。義光は大いに喜び、ただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。 それからしばらくたったある夜、顕季が伏見の鳥羽殿から、二、三人の雑色をつれ京に向かったころ、鳥羽の作道のあたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車の前後についてきたので、顕季はおそろしくなって、供の雑色に尋ねさせたころが、夜に供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命によって警衛していると答えた。顕季はいまさらながら、法皇の深いはからいに感謝したというのである。 この説話の信憑性については、問題のあるところだが、義光やその子孫の常陸進出については、常陸の豪族平重幹の子、常陸大掾致幹がかって義光らとともに後三年の役に際して、義家の軍に参加したことや、義光が常陸介となって常陸国に赴任したことお関係が深い。 『永昌記』によると嘉承元年(1106)六月、源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦をしたので、朝廷では、義光および平重幹らの党に対して東国の国司に命じて、これを召進めさせたとあるので、義光は早くも常陸大掾氏と結ぶことによって、常陸の地に進出する野望を実現しようとしていたのである。
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最終更新日
2022年02月28日 14時17分12秒
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