カテゴリ:甲斐武田資料室
武田勝頼 終焉の道 『兜嵩雑記(とんがざっき)乾』 さて、天正九年夏、四郎勝頼、 御親類中を城内に披召寄被仰出ける様、 尊父信玄兼て被仰置候韮崎之城の事、 早建築可然と被仰けれは、 御一門中誰か一人でも意義申し者なく、 然へく由各々相談相究りける、 依て其年御普請始り、年内申に館一棟御建被成り、 同年極月廿四日に御移徒有けるなり、 明れは天正十年新玉の年立帰り、 猶々御普請可有旨夫々に被仰付ける、 一門の面々承知有りて皆帰城に及びける、 然るにその後御一家の内、木曽左馬頭逆心の風聞専らに致しければ、 勝頼聞きて一門と相談の上、自ら出馬にそ及びける、 信州諏訪に着陣ありて木曽の様子を窺う所に、 木曽左馬頭は勝頼自身出馬と聞く、 定めて大軍ならん然るとても叶わしやと思いけん、 全く逆心これ無きの旨、誓紙を以て御訴訟有といへ共、 勝頼更に承引無之に付、 木曾殿も不及是非、尾州織田信長へ加勢を被乞ける、 勝頼此趣聞し召しからば國元の城郭丈夫に拵へ、 信長勢を待受んと了簡定め、諏訪より新府中え御帰城有ける所に、 尾州織田信長は息男信忠を大将として出陣に及、 先信州勝頼の持城を攻落し、其勢い近日甲府へ押寄せへき旨、 飯田大島両城の勝頼更に承引無之に付、木曾殿も不及是非、 尾州織田信長へ加勢を被乞いける、 勝頼此趣聞し召しからば 國元の城郭丈夫に拵へ信長勢を待ち受んと了簡定め、 諏訪より新府中へ御帰城有ける所に、 尾州織田信長は息男信忠を大将として出陣に及、 先きに信州勝頼の持城を攻落し、其勢び近日甲府へ押寄へき旨、 飯田・大嶋両城の討洩されの者共駈来り、 一に訴けれは、勝頼は寝耳に水の心地してただ忙然と聴給ふ、 去共このままにては叶ふ間敷如何有らんと評定しけれ共、 いつれも愚安の腰抜け武士共なれは評義區々也。 時に御前伺公の長坂長閑、跡部大炊助、小山田河内守有けるか、 長閑斎進出て申上けるは、 如何如此櫓一ケ所無之城にて大軍を妨ん事中々思ひも寄らす、 御評義被遊候共無益の事也、 所詮御一戦相成間敷山申上けれは、勝頼尤と思召して小山田を被召、 被仰聞けるは、其方が居城岩殿山は堅固之地之由兼て聞及へり、 一足先に右之城え引籠り、領知の士卒を相催し、 大丈夫にして有無の一戦成るべく也、 汝は只今より直に罷越其用意を申付、早々迎に来るへく旨被仰付、 當座之御褒美給り其まゝ郡内岩殿之城に帰りける、 既に三月二日時刻移さす、 今晩八ツ時小荷駄三百疋ならびに人足五百人と相触れしか共、 早一國中騒立ければ小荷駄壹疋も人足壹人も參らざれは、 これは如何すべき殊に大守様をは輿にてと有しか共、 輿舁者壹人もあらざれは、 是非もなく御勞敷ながら、あやしげ成る小荷駄に乗せ奉り、 御供の女中拾五六人披召連れ、 三月三日のあけぼのに総勢四百餘騎にて、 新府城を落とさせ給ひし御有様中々浅ましき次第なり、 七日御逗留有ける、龍地が原へ出給い、城の方を見返り給へば、 並たる新館早一片の煙と焼けのぼる、 北の方を見給へば古府中(武田館)の屋敷群も寂びかえる。 涙と共に落ち給こそ哀れ儚き有様なり、 さて一條・和田平町を打ち捨て、 善光寺門前にて御供の老若それぞれ御暇被下、 その夜は柏尾山に御逗留、 次の鶴瀬にて郡内の御左右相待ち受け給はんとても、 この所に七日も御逗留ありける、 然れども小山田方より御迎も不参、却て三途川にて追付奉んと、 左も潔御挨拶成りければ、勝頼卿も御心持直し、 いざ生害と思ぴ給ふ所へ、 前後左右より鑓襖(やりぶすま)を作突懸しかは、 今は無是非御生害有ける。 終に天正十年三月十一日、 田野に於いて御歳三拾七歳にして御生害有ける。 甲斐源氏の根本御家滅亡なせし御事、是非もなき次第なり、 御名を後代によこし給ふ事残り多けれ 甲斐の織田信長 『兜嵩雑記(とんがざっき)乾』 ここに人皇五拾代桓武天皇より十二代の後胤、 平相国清盛より二十代の末葉、 織田備後守平信秀之次男に上総助平信長と申は、 武勇名高く西國を討隨へ威を遠近に震れける。 然るに此度武田滅亡に付、天正十年三月下旬、 禁裏仙洞へ奏聞有之、近衛殿御同被遊 甲斐国府中へ御入有て御誅罰有と也、 是は武田家御高家たるに依る、天子院宣を以御誅罰有也。 夫より甲府には信長下知として、川尻與兵衛を肥前守に叙任有て、 甲府城代として岩窪村の城に差置給ひ、御身は東海道を御帰り、 近衛卿には中仙道を御登り被成りける。 さて城代川尻肥前守國中巡見して恵林寺に被參、使者を以申人けるは、此度勝頼の死骸無断引取被申祝事上使に対し無礼之仕方なり、 其上門前に小屋銭を掛らるれ事、 殊更勝頼一類等圓置候條公儀を恐れざる致方甚不軽から、 一々出家に不似合致方不屈至極之由、使者を以申遣しければ、 取次之僧住主に告ければ、快川国師之御返事には、 勝頼卿御死骸之事は、武田御代々常山之大旦那たるにより葬候なり、一類不残引とる事も右同事也、 また使者に對し無禮之儀立合たる事未。 無之山地中へ小屋銭之義愚僧之不存事也、 武田所縁の者とて一人も隠し置候儀無御座候、 と御返事有けれは、 川尻然は寺内を捜へしところ、 出家衆は不残山門に上り候得と差圖しければ偕達皆々山門に上りける、川尻與兵衛を始め雑兵不残寺申え踏込捜といへ共、 侍たるへき人一人も見へざれは甚怒り門前之草舎を壊し、 山門の下に積かさね、一度に火を懸けれは、 折節魔風烈敷吹来り、 堂塔伽羅に燃付一宇も不残一時の煙と成りにける 。 あゝ勿體なき事共哉。 快川国師を始奉り紫衣の東堂四人、 黒衣長老九人、其外同宿児竜子都合七拾三人、 一朝の烟と成りて失にける、 そもそも常山乾徳山恵林寺と申は、 古しへ足利大将軍足利尊氏公御建立有て、夢窓國師を開山として、 武田家を大檀那と被成り、永禄年中に武田家に於いて七堂御建立、 殿堂悉く甍を並べ、楼高く聳え、その風景を郡懸に冠たり、 其の上寺領三百貫、境内三萬六千坪新に寄附せられ、 則信玄公御存生の内、木像を御刻、末世の行儀に及とも、 これぞ信玄か像なり被仰、不動明王の像に作り、 後に火焔を立て、左りの手に縛の繩、 右の手に利剣を持たせ安置仕給ふ故にや、 此度焼失に不思儀に火難を遁れ給ひ、今の世迄も拝誦するこそ難有けれ。 本能寺の変 さて天正十年六月二日に織田信長は上洛しける處、 家臣明智日向守光秀日頃之意恨を報せんと逆意を起し、 主君たる信長を討奉らんと軍勢を催し、 一夜の中に首尾の御首を討取ける、 是勝頼公御生害の日より八十一日目なり、 武田ほどの舊家を無漸に滅亡に及びける報いにて、終に亡び給いける。則京都本能寺にての討死に成り故、 そのまま親子共共寺に葬けると也。 法名號 『相見院殿泰嵓大居士』、御歳四拾九才、 右之子細に依て徳川家康公より甲州川尻肥前守へ使者を遣わし、 本田百助を以右之次第被仰遺ける、 本多百助は右之趣を承、夜を日に継て甲州え急きける、 程なく甲州に到着いたし、 川尻肥前守え主人之御口上之趣、 今月二日之夜京都於本能寺に、 明智日向守光秀逆心を起し、 織田信長親子を討取候間、 急き罷登り一戦を被懸へき との口上なりと申けれは、肥前守如何思ひけん、 彼使者たる本多百助をただ一刀に討果しける、 知れ者なれ共誠に油断の酸なれは、敢なく最期を鐙られける、 然るに未を武田の残党衆所々に隠れ忍び居て、 川尻肥前守か子末甚だ憎いと思へども、 すべき様もなく徒らに思い居ける所に、此度の子末聞て、 等敷彼浪人衆相談して近在の百性共相語らい、 二・三百人引連れて岩窪目指して急行、既に城近く成りければ、 百性共に下知を伝え、城を十重二十重に押取巻き、 無二無三に攻めつけ、終に川尻を討取たり、 右之趣早速に徳川家康公に訴えける所、家康公甚だ甚悦び給い、 神妙也とて、同意之輩へ恩賞を被下ける、 川尻を討取しは山縣源四郎か郎等に、 三井弥市郎なりと人々感し悦びける。 甲斐終焉と徳川家康 『兜嵩雑記(とんがざっき)乾』 さてまた爰に徳川内蔵人源家康卿と奉申は、 人皇五拾六代清和天皇六代の苗孫伊像守源頼義公之長男、 八幡太郎義家公の三男式部太輔義國公之長男、 新田大炊助養重公の四男、 徳川四郎義季公十六代之後胤、 徳川三河守廣忠の御嫡男、 内蔵人源家康公と奉申、 文武両道に明るく、仁義勇猛兼備し給ひける大将也、 然るに武田勝頼公当春滅亡の後、 信長より川尻輿兵衛を城代として差置といへ共、萬事権威に募り、 國中の仕置以之外成る事共にて、上下大小ともに退屈したりける折節、家康卿、信長之凶変を使者を以て知らせけるに、 使者を討取ける此沙汰人民間と等しく、幸ひとして我先にと押寄す、 思ひのままに討取ける、其旨、早遠地侍より注進いたしけれは、 時日を移さず、同八月御入郡被遊ける、 御道筋は南口、右左口通りより入せ給ひ、 此邊上曽根村禅寺龍華院に御休息有けれは、 甲府町寺並びに舊家の町人並びに在在之者共 祖父武田家の討洩されの侍或は知行所に引籠居たる人々、 並び武川十二騎御迎に罷出御機嫌を窺ければ、 家康卿御機嫌不斜、 奉公望之者は其儘御召抱可被遊何事も武田家之御仕置之通り、 決て新に上意なければ人民安堵致ける、 それより家庚公は御立有之。一國御巡見遊し、 御序に太守勝頼公の御生害の場所も御覧可被遊、 田野村え御發駕有之、 勝頼公御生害の跡委敷御尋啓之上、 武田之所縁内に出家はなきやと御尋ね有ければ、 枢機の僧御座候由、所の者共申し上ければ、尋啓可申旨被仰て、 頓て御目見爲致ければ、 故に思し召仰られけるは貴僧此處に一寺を建立し、 勝頼が菩提を弔い給わんやと有けれは、難有山御答いたしければ、 則田野之郷一圓に寄附させ給ひける、 依之百姓共上意重しと取急き寺を建立し、 其寺の號を『景徳院』と名付たり。 去程に勝頼公の御位牌を改、 『景徳院殿頼山勝公大居士』 と號、御臺様を、 『北條院摸安妙相大姉』 と號、 若君信勝公を始奉御供之侍衆三十六士御召遺はれ、 御生害まで御供仕たる女中十六人各々新に位牌を立、 旦暮の回向無油断御吊有けれは、 此度生害有し主従男女之人々まで成佛得達可有と、 上下萬民おしなへて随喜の涙をそ流しける 御供之侍女中法名を記 長禅寺春國和尚ノ弟子信玄公甥子 隣岳ノ弟子秋山民部少輔弟 天龍寺剱岳和肯 圓光首座 慶索道賀居士 安部加賀守 跡叟道張居士 跡部尾張守 秋峯道紀居士 秋山紀伊守 河白道家居士 神村下総守 常叟道温居士 温井常陸介 西安道伊居士 安西伊賀守 一峯宗春居士 小原下野守 忠峯道節居士 小宮山内膳 洞巌泉谷居士 小山田掃部 親庶月心居士 秋山民部 済寒霜白居士 秋山宮内 天眞了然居士 窪澤次太夫 圓應寒光居士 多田久蔵 傑傅宗英居士 秋山宗九邱 即應浄心居士 斎藤作蔵 賀屋道善居士 有賀善左衛門 忠菴存孝居士 土屋宗蔵 源貞道屋居士 土屋源蔵 明鍳道白居士 小山田彌輔 中源實室居士 小山田平左衛門 久桂芳昌居士 小山田 小兄 官山仝性居士 皆井小介 虚皇道幽居士 小野井源蔵 松峯道鶴居士 貫名新蔵 清神道林居士 御林清十部 金渓道助居士 金丸助六部 水村山谷居士 秋山杢之助 月窓江海居士 岩下宗六 堅英了雄居士 秋山源三郎 妙法部尼 妙蓮部尼 妙華部尼 妙纒部尼 妙観部尼 妙世部尼 妙背部尼 妙菩部尼 妙薩部尼 妙普部尼 妙門部尼 妙品部尼 妙弟部尼 妙貳部尼 妙重部尼 妙語憚尼 女中十六人戒名 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第貳五ニテ経文ヲ表 于時天正十壬午三月十一日 男女四拾五人自害ス 抑徳川内蔵人家康卿は御慈悲深き御心故、 武田勝頼公常々帰依被成候佛社を尋ね給ひ、夫々に此領寺領寄附し給ふ、 山梨郡和田邑金剛幅壽山法泉寺と申し臨済宗の寺有、 城下の近優之事なれは一入回向在へし迚(とて)、 茶湯料として五拾四石御朱印被下りける、 依て當山にては勝頼公之御戒名 『法泉殿泰山安公大居士』 と號す、 御前様之御戒名『春山花光大禅定門』號奉、 昔か今に迄香花の絶る間もなき御吊こそ黍有事共なり。 勝頼公之御母堂は信州諏訪義重の御娘にてましましけるか、 諏訪の名跡之断絶せしに寄、 勝頼公を以諏訪之名跡と信玄公御定被遊候、 依之信之一字を譲り給はさるは、御孫之竹王丸を信勝と名乗らせ給ひ、武田の御家を隨せ給ふ思召也、 此由緒を以諏訪の御菩提寺にも形之ごとく追善在とかや、 爰にては御戒名『玉山龍公大居士』號し奉、 斯て家康柳営國御逗留は府中浄土宗功徳山天尊體寺に御座被遊、 一國の御仕置夫々に被仰付、則城代として平岩七之助を差置給う、 此頃は越後より信州佐久郡海之口邊迄度々亂入の沙汰有、 叉其外相州小田原北條家押の手常として、 鳥井彦右衛門を郡内谷村之城に差置北條家を防きけるとなり、
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最終更新日
2022年03月11日 09時23分07秒
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