2022/03/12(土)18:17
『シーボルト 江戸参府紀行』 二月一八日[旧一月十二日〕 仏像と仏教語 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと
『シーボルト 江戸参府紀行』二月一八日[旧一月十二日〕 仏像と仏教語 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 われわれは朝六時に出発し、広くひらけた水田……所々の厚い氷が張っている……に沿って高橋という小さい村へ、それから北方を通って小田に向かった。これまでの日中の旅行では若干のアトリ・セキレイ・ツグミ・カラス・スズメを認めたのだが、今日はそれよりもたくさんの鳥を見た。今度は大部分ガン(雁)・カモ(鴨)およびツル(鶴)であって、それらの鳥は下におりて水におおわれた稲田で餌を捜していた。街道ではこれまで日本ではめったに見ない日本産のカササギがいて、われわれを驚かせた。この鳥は普通アジア大陸から朝鮮を経て日本に渡って来るので、朝鮮カラス〔烏 同地方ではカチガラスという〕とも呼ばれている。 ビュルガー君と私はひとりの下検使と通詞の弥七郎および二、三人の門人を伴って、一行に先だって小田まで行った。有名な神木をゆっくり視察するためである。それは大きなクスノキで村の入口にあり、広く枝を張り葉の密生した梢がある。幹は枝のところまでとどく木造の祠でかくれている。その祠は両部神道の混交した建築様式に属し.たくさん彫刻がほどこされ、波形の板葺の屋根がついていた。大きな石の土合のある支柱の上にあって、石の階段が側面にあって内部に通じている。祠の中には三つの頭があって手が何本もある仏像(千手観音)が刻まれているのが見える。前に置かれた木製の小さい台には供物の道具や花や香をたく容器や灯明がある。馬頭観音、すなわち馬の頭をした守護仏である。なぜなら図がそれを紹介することになっているが、蓮の花の上に足を組んで坐り、逆立つ頭髪の中から、ちょうど頭のてっぺんの所に馬の頭が突き出している。そのうえ非常に見わけにくいので、観察の鋭いケンプファーにも子牛の頭と見えたほどである。この偶像と神木は第七図で示す。仏像という本では七守護佛の中にこれを掲げている。馬頭観音といい、腕の挙げ方に若干の異なる点がみられるが、れわれが木の中で見たのと同じである。上述の図彙にはこの仏について次のように述べている。「此ノ尊応―用利―益ノ甚深ナルハ所―知無キガ如シト云心ナリ」と。そして僧侶は信じやすい農民にこの文の意味をしつこく説明するので、彼らは馬頭の仏を自分たちの馬の守護仏と認め、方々から巡礼してくるのは、自分自身や自分たちの馬のために、その仏の援助を保証する印刷した護符をもらってくるためなのである。 日本語 この救済や免罪の護符は、日本語で読むと「馬頭観世音普門品三十三」といい、さらにその意味は……「馬頭の守護仏の総称、これに属する部門は三十三巻に作成された」ということで……聖者に関する一つの経文の標題に過ぎないと思われるが〔このような標題の経典はない〕、それを僧侶は助けを必要とする者のために、有効な助言を得る経典のいわば標題として、無知な田舎の人々の手に与えるのである。日本の仏教徒の間では普通に使われる漢字で書いたこのきまり文句の上に、聖体顕示合に似た標識があり、その中に古いファン字もしくはランザ文字が書いてあり、私はその中から「ハヤオンカヤ」という文字を解読した。また紙片の真ん中にはランザ文字でAの字のついた赤い印章が押してある。仏教徒の用いるこの古い文字は、支那人にはファンズー、チベット人にはラジク、モンゴル人にはエストリュン・ウシと呼ばれ、あとのふたつの民族〔チベットとモンゴル人〕にはランザ、またはランジャという一定の名でいわれ、日本では悉曇(しったん)という。この文字は、仏陀崇拝とともに今に残っていないが、二、三の宗派とくに真言宗・天台宗では、支那・チベットさらにモンゴルの沙門のようになお行なわれている。仏典がすべてこの文字で書かれていることはまれで、ただ若干の語や格言や仏の名がこれで書かれているに過ぎず、一般大衆に対しては深遠な仏の教えの神秘的な仮面として僧侶の役にたっている。 この文字の最初の書体は、支那人、チペット人、モンゴル人および日本人のたびかさなる箪写によっていちじるしい変化を受けたし、同様にその発音もこれらの民族の文字と書き換えるデーヴァナーガリーとは全く異なった文字が、さらにチベット人や支那人が自分たちの文字で書きなおした言葉の中に、サンスクリット語の独特のなまりで、婆羅門教徒から仏教徒がわかれた非常に古い時代に由来しているものが発見されると思うのである。けれどもウージエ―ヌ・。ビュルヌフはファン語とサンスクリット語の一致をすでに証明した。そして日本の悉曇文字のアルファベットと、I・J・シュミウ卜が支那の原典によって報告した支那やチベットの沙門のファン、あるいはランザ文字のそれとを比較すると、これらの文字の様式はだいたいにおいて似ていることは否定されない。支那・チベットおよび日本のランザ文字とデーヴァナーガリーとが同一であることはほとんど疑う余地はなく、チベットのライヴクやモンゴルのエストリュン・ウシュクがデーヴァナーガリー(純正な神霊の文字)という語の言葉どおりの翻訳であり、日支辞典でも悉曇を「ヒンドゥスタンの字母書法」と説明している。 しかしデーヴァナーガリーや支那・チベットのランザ文字では鋭く書かれた字頭が、日本の悉曇では画数が多い文字の場合には融合する独特な点があり、その結果多くの文字を書く場合に字頭はほとんど認められず、若干の場合には全くない。日本人が悉曇(しったん)文字を右から左へ縦に書くやり方は、字頭と字面の融合を助長したかもしれない。けれども人々はこの書法にこだわってはいけない。日本人はみずから悉曇に近づいて、この文字は元来右から左に水平に書いた、といっている。また支那人は横書きのタタール文字を垂直に書く実例をもっている。音節文学者は、ちょうどランザやデーヴァナーガリーのように五〇字から成る。この文字の発見者はブッヂサワ・リュムョウ(竜猛、仏教徒一四世の祖であり、かつヒンドゥスタンの真言宗の開祖(前二一二年没)とされている。この宗派は六四八年ごろ南インドから支那に渡り、七一七〔養老元〕年に支那から日本に伝わった。 弘法大師 そしてこの宗派が普及したのは、主として宗教学やその他の学問に功労のあった高僧、弘法大師(七七五年生)のおかげである。この時代に悉曇の日本への導入が証明されている。弘法大師は日本語のヒラ仮名五〇合図をはじめて作ったひとで、それを作ったときにファン文字を頼りにしたといわれている。それはちょうど六三二年にデーヴァナーガリーを習うために、チベットから印度に派遣されたチベットの仏教学者トンミザンボダが、ランザ文字の型によって自国のために文字を作ったようなものであって、その文字はいまウヂャン(「字頭のある文字」)という名で知られ、インドのバルラ(バルラは未詳。)あるいは文字を作った神、梵天ブラフマ(Brahma)のことか〕によって作られた「字頭のない文字」と対照して一般に使用されるものである。 馬頭観音 上述の守護仏、馬頭観音に関して、私は仏像図柴の第三巻一三ページにもうひとつ他の像が出ていることを述べておく。その像にはたくさんの腕があり、その像には沢山の腕があり、弓・矢・剣・杓のような同じ象徴的な道具を持っていりのが、描かれているが、頭はえあだ一つで、頭頂には同じく馬の頭が逆立つ頭髪の中から突き出している。これを九曜星の中の火曜星として挙げているが、遊星マルスの支那の名称であり、仏教者の考えではこの星を薬師仏または医療の仏として尊ぶ。 浮本 炭鉱 浮本(Wukumoto)付近でわれわれは炭坑をおとずれた。一二〇段の階段でゆるやかに下に通じる縦坑から石炭を採掘する。石板状の石炭で、うすい層をなして泥板岩と交互に重なっている。日本人の同行者がもっと下に行くのを許してくれなかったので、約六〇段まで行ったが、石炭層の厚さはとるにたらず、わずか数インチに達したに過ぎなかったが、もっと深い所では数フィートの厚さがあるというが、それは採掘された石炭から推定することができる。多くの箇所に小さい四角の縦穴が排水のために掘ってあった。挺子(てこ)にしっかりとつけた樋で、われわれの国のツルベ井戸の場合のように、水を穴から汲み出すという、ゆっくりだが非常に簡易な方法で行なっている。この石炭は瀝青(れきせい)含有量が多いので、普通は充分焼いてコークス〔九州ではガラという〕にするのだが、発掘場所のすぐそばにある戸外の炭焼釜で焼く。 天山・船山・ヒアグ岳・雲仙岳・水車・貯水池 われわれの前方、東と北東には稲を植えた果てしない平野が広がり、西北から西南の視界の果てには天山・船山・ヒアグ岳(Hiagu‐dake)。黒髪山(Kurofige‐jama)や雪におおわれた多良(Tara)の山々が連なっている。南の方には相変わらず白い山頂の雲仙岳がそびえている。農夫は田圃を耕し水を引く仕事に励んでいる。このあたりでは馬を使って耕すが、こういうやり方は長崎地方ではめったにない。山岳的な地形のため手鋤(てすき)の方が多い。水を低い田から高い所へあげるには、運搬できる非常に簡単な仕掛けの水車を用いる。それは実際に有効な道具で、われわれはあとでもっと詳しく見聞することになる。 多久川・高橋・竜王・貯水池 われわれは多久川(Takagawa)にかかる高橋という大きな石橋を渡り、小城の城のそばを過ぎ、牛津の寺で昼食をとった。海にほど近い楽しい村である。道は竜王付近の丘を通り過ぎるが、丘の上に水田濯流用の池がつくられている。こういう池は米作の行なわれる多くの地方でよく見受けられる。この種の池は、普通連なる台地の山腹の、海抜一〇〇ないし二五〇メートルあたりの充分水源で維持された平らな場所に造られ、堤防や水門を偏えている。水門からは水路が水田に通じていて、谷に沿って階段状に下り平地に広がるので、いっそう容易に灌漑できるのである。こういう貯水池は通常は公の監督下にあり、注意深く維持される。庄屋(汐貧)の許可がある場合だけ必要な水を流す。水門の口には水位計(Midsu‐hakari)があって、必要量の測定に役立つ。米を主食とする日本のように人口の多い国では、万一の日照りの場合の不作を防ぐために、こうした方策が必要である。 佐賀・船頭の淵・光広王・肥前〔鍋島斉直 一七八〇~一八三九〕 われわれが今日通り過ぎた平野には大小の川が縦横に流れている。けれども自然のままの早い水路を下らずに、千年の文化が抑制して来た川床をゆっくりと流れて行く。われわれは肥前領の首都で北緯三三度一五分、グリニッチ東経一三〇度一八分にある佐賀に着いた。おそらく九州で最も立派な人口の多いこの都会は、城郭外の町をふくめて長さ二里半、幅は約一里ある。たくさんの通りが東西南北に規則正しく交叉している。われわれが進んで行った大通りは追福も広くよく手入れされていた。けれども一部は商店、一部は職人が住んでいる家々は低くて立派ではない。たくさんの小川や運河が町を分断しているが、その中に船人の運河という意味の、船頭の淵と呼ぶ大きな運河があって、ここから約一二ドイツ・マイル離れた福岡に通じ、島原湾を北の海〔玄界灘〕と結び、佐賀を主要な貨物の集散地とする九州の国内商業に大きな力となっている。この運河にかかっている橋の上に巨大な青銅の像がある。地蔵または守護聖者で、名を光広王という。すなわち「光明を広める王」であり、かの仏像図彙によれば、この仏は「雨を降らし五穀を成就せしめ玉ふ」とある。かくも広大な平野の農産物を首都に供給する運河の橋にとってこの像はふさわしくないことはない。 肥前を治めている領主はこの町にそびえ立つ城内に住んでいる。彼は古い鍋島家の出身で、松平肥前守の官名をもっている。〔鍋島斉直 一七八〇~一八三九〕彼の年収は約三五万七千石、約四二八万四千グルデンに達する。 町を通るわれわれの行列は一時間余り続いた。街には見物人がいっぱい押し寄せて来たが、その中には二本差しの人……武士や役人……が大勢いた。とにかく秩序は整然としていて、十字路には藁縄を張って通行を止め、その後ろには好奇心をもった人々が幾重にも人垣を作っていた。ふたつの城門には番兵が立っていた。そしてていねいにお辞儀をしたが、そういうやり方は武装したわが方の軍隊のことが頭にはいっているわれわれには、必ずしも好ましい印象を与えなかった。それでも日本の軍人は、軍隊式の動作の欠如を服務中は軍人らしいこわい顔つきをすることで埋め合わせている。そして甲冑をつけた騎馬武者は、兜の面頬の代りに恐ろしい容貌の仮面さえつけているが、その仮面はおそらく後ろにかくれている勇士より以上に敵に恐怖を感じさせ、しかも古代ギリシア演劇におけると同様のやり方で、法にかなった勇気の型を中にいる当人に与えるのである。日の暮れるころにわれわれは境原から神崎まで肥沃な平野を進み、神崎でふたたび一向宗の寺に泊まった。