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2022年03月22日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

「駿州大宮神馬奉納記」

 

  佐藤八郎氏著『武田氏の研究9』

一部加筆 山梨県歴史文学館

まえがき

 

 『甲斐国志』(以下『国志』と略記する)の人物部、ことに武田

将帥の部をひもとく者は、その部中至るところ、「駿州大宮神馬奉

納記二云々」の記事に行き当たられたことであろう。

例えば、将帥の部第一、日向大和守の条下に、「駿州大宮神馬奉納記ニ日向玄徳斎宗栄ノ花押見ュ」と見え、同じ条下の別項に、「日向玄東斎宗立、大宮神馬奉納記ニ名押アリ」とあるようにである。

この駿州大宮神馬奉納記、大宮神馬奉納記、という語は、『国志』人物部の巻中にしばしば見える語である故、その語の歴史的意味について一応考察して置きたい。

 

駿州大宮とは、駿河国富士郡大宮に鎮座する同国一之宮、浅間神社(大社)の称である。

 浅間神社は、正しくはアサマ神社と読むべきであろう。しかし、すでにI〇世紀のむかしに編まれた延喜式神名帳にもアサマ・センゲンの両読みが附してあるから、センゲンと読んで差しつかえがないわけである。

 

 浅間神社の起源は古い。初めは富士山(強力な活火山)そのものを直ちに神として崇拝していたが、後にはその山の神を木花咲耶姫命と仰ぐに至ったといわれる。

富士山は四方から望拝される山なので、山麓の四周にはもとより、東海道・東山道の各地に望拝(遥拝)社などが建てられて、浅間神社の数は1316社(1949年現在)におよんでいる。

 全国に鎮座する浅間神社のうち、著名なのは、甲斐一之官(もと国幣中社、山梨県東八代郡一宮町一之宮に鎮座)、駿河一之宮(も

と官幣大社、富士宮市大宮に鎮座)と、それを後に駿河国府に勧請した浅間神社(もと国幣小社、静岡市官ケ崎町鎮座)などである。

 なかでも富士宮の浅間神社は、名実共に全国の浅間神社最大の神社で、ことにその奥官が富士宮口登山道を登りつめた所にあるので、当社は浅間信仰の根元社と仰がれている。

 

富士信仰の核心であっただけに、本地垂迹思想の強い影響を受け、祭神の名も富士浅間大菩薩、富士権現などと呼ばれ、富士山曼陀羅が信仰の対象になって本尊と崇められたりしたが、明治維新の際の神仏分離令によって菩薩・権現など仏教的呼称は跡を絶ち、浅間神社、富士大宮浅間神社などの本来の神社名に復し、さらに昭和二一年(1946)「富士山本宮浅間大社」と定められ現在に至っている。

 富士大宮浅間神社の里宮が現在の富士宮市大宮の地に創建されたのは平安時代初期、平城天皇の御代といわれ、その時祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめ)に神階従二位を奉り、駿河国一之宮に定められた。

当時奥宮が鎮座した富士山頂は活火山として高く噴煙をあげていたという。にもかかわらず秀麗な山容は花の王、桜を思わせ、祭神を木花開耶姫命と仰ぎ、朝廷・神祇・大政両宮・国司の厚い崇敬を

受け来たった。下って武家時代には将軍、御家人らの武将、さらに戦国時代に入ると、多くの戦国大名の深い信仰と厚い崇散のもとに広大な神領の寄進を受け、また社殿の造営が行われていた。






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最終更新日  2022年03月22日 13時15分39秒
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