1年半
一年半前のブログを読みながらこの一年半の間に起きたことを思いだすとちょっと新鮮な感じもするかな?いっぱい出会いもあったしいっぱい知ったこともあったしそしていっぱい泣いたな~。この日記を書いた頃までが一番大変だったけど一番楽しかったと思う。コレを書いてた頃は毎日ホントにとんでもない異常なことの連続でしたね。あえて書いてなかったけど。24時間ずっと何かが降りてきたり目の前にエネルギー体として現われて何かを語りかけられ続けてサイキックアタックに何度も遭って車の運転中に意識奪われかけたりとか色々とこのままでは気が狂うかと思ったピークにブログの引っ越しも決めたんだな~。そしてそれは忘れもしない4月8日を境にかろうじて落ち着いたのだけど。(一応、対策としては乱暴だったけど そうしろ、と言われて応じてしまったんだな~。 あれをしなければ 私は今ごろどうなっていたんだ? 案外、何もしないでおかしくなるままに 任せた方が平和だったのかも~(^ ^;)でも何も終わったわけじゃないしその後も、今もまだまだ大変。というかあまりに大変過ぎて何を考えるのも面倒くさくなっちゃってどうでも良くなりつつあったりするしますね~。最初はコレで何かしなきゃいけないのか?とか色々と考えてしまったけど結局、何かに使えるほど強くもないし今は別にどうでもいいじゃん、って。感覚があるならあるで、だからどうしたというか。レイキのことも何かしなきゃと考えて色々調べて考えていたけどコレも面倒だな~と思い始めたりしてね~。ヒーリングは自分の心の持ち方で何もしなくても勝手に起きるものね。目の前の人を純粋に気づかえば体中からヒーリングの波動が発散されるのが分かる。自分にそれが来るのを感じる時には心配してくれている人がいるのだな~と感謝する。そういうものだよね~。辛い時に自然の中にいけば廻りを取り巻くものがヒーリングの波動を送ってくれるのに気が付く。辛さに応じて送られてくるものに強弱はあると思う。それは当たり前のものなのだけどたまたま感じられる機会をいただけたことはありがたいと思う。でも他に何も使い道も取り柄も無いこの感覚(^ ^;どちらにもあまりに中途半端過ぎてどこにも所属できず居場所の無さが日ごとに増すばかり。生きていることを喜べる人が純粋にうらやましい。どのような形であれ。今はただそれだけだな~。死にたいと思い詰めた時にはふと体から意識が離れかけたけどたぶん自殺した人は自殺直後はあんな感じになるんだ、って体験してみたら、私はやっぱ止めておこうかな~って思ったりして(^ ^;(もともとやる気も無いのですが)そういう時に「死にたい」でネット検索掛けると色々なサイトが出てきてそれはそれで新鮮な驚きでした。相談コーナーに生きるのが辛い人のつぶやきのような相談が書いてあり回答に書き込まれた言葉を読むと心が痛みます。そういう答えが欲しいんじゃないよね。20年くらい前、鬱病になった友達と話した時私は相談に乗っているうちに自分も落ち込んで結局、彼女を見捨てたことがトラウマなのだけど今目の前に彼女がいればまた違うことが言えるかもしれないです。しかし、まだダメだな。いつか「こんな馬鹿な日記書いたな」と笑って読み返せる時が来るのかな。出口が見えるのと終わるのとどちらが先かな?まったく何も分からないな。一番良かった頃の記録としてまた懐かしく封印しよう。