2015/02/25(水)05:43
★情熱
自分が知り得たことで、
これは自分一人が知っておくだけでは勿体無い、
と感じることがある。
例えば私は過去にヘルパーの勉強をしたことがあるのだが、
勉強した理由は、当時寝たきりになってしまった母の移動手段として、
必要だったからである。
といっても、私がその勉強を生かしたことは一度か二度だけで、
結局母は病院を転々として亡くなってしまった。
それでも勉強したことは良かったと思っている。
ベッドから車イスへ移動するのに、
知識が有ると無いとでは、介護者の負担が全然違う。
それは自分の体を守るためであるし、
介護される側の負担を減らすためでもある。
万が一腰を痛めてしまったなら、
介護する側から介護される側になりかねない。
素人考えで行なうと、取り返しのつかない結果が待っている。
問題をかかえている人は、みんなが勉強したほうが良い、
‥と思ったのだが、人の考え方は十人十色で、
そこまで必要を感じない人も居る。
得てして、自分が良いと思ったことは勧めたくなる。
そこから得た恵みが大きかったからである。
でもそれは自分の考えでしかない。
人も同じように考えているわけではないのだ。
一緒に勉強しようと誘ったこともある。
その時の私の友達は、二の足踏んで結局行かなかった。
それはそうだ、お金はかかるし時間もかかる。
それに勉強もしなければならないし、提出物も有った。
他にも実地訓練が有り、
個人宅へお邪魔して家事の一部を行なってきた。
施設へも訓練のために行き、そこで色々なお世話もした。
車イスへの移動だけの勉強というわけにいかないから、
面倒臭い勉強もしなければならない。
私が勉強して良かったと思ったことでも、
そこまでしたくないという意見にも頷けるほど、
確かに大変だった。
でも友達を誘ったことは悪くないと思っている。
知っている情報を伝えるのは、
知った者として必要な事だと思うのだ。
ただその情報をどうするかは、相手が決めることである。
情報を発信したら、結果は相手に委ねるべきである。
情報を伝える情熱は、自分の為?相手の為??
そこが理解できていれば、それで良いと思う。