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カテゴリ:バスク~木版ハンドプリント
![]() トカットは紀元前3世紀頃から人類が住み始めてから約5000年の歴史がある古い都市です。 ビザンスの支配を経て、11世紀にはセルチュクが統治し、その後14世紀にはオスマン帝国に組み込まれました。 シルクロードのキャラバン路の東西、南北のちょうど交差する位置にあり、交易地として繁栄したそうです。 ![]() (トカットは黒海地方、中央より少し東よりにあります。赤☆マークのところです) 特に16世紀から17世紀にかけては約7000人だった人口が20000人まで増え、人が増えるということはつまり町が大きくなりそれだけ腕に職を持つ人の数も増加するということであり、18世紀に入ってシルクロード交易が衰退するまで、職人たちによる各種手工芸関連の製造が盛んに行われました。 そのため、現在でも様々な手工芸の職人の町としてトカットは知られていますが、中でも「ヤズマジュルック」はトカットの歴史上、重要な産業だったと言えます。 「ヤズマジュルック」とは「ヤズマ」の製造・販売業の意味です。 「ヤズマ」はオヤスカーフでお馴染みのモチーフがプリントされたコットン、またはシルクのスカーフのこと。 この時代のヤズマは木版のハンドプリント技術である「タシュ・バスク」によって作られていました。 トカットにはオスマン帝国時代に大きなヤズマジュルックのハン(商業ビルのようなもの)が幾つもあり、その中で多数の職人さんが働いていました。 ![]() 当時、代々のスルタンの生母である「ワーリデ・スルタン」の収入源とするために、トカットで作られたヤズマに税が課せられていました。 13世紀から19世紀初頭の間には、一部の職人はヤズマの税の徴収を不服とし、トカットの外で不法に商売をするようになりました。 それを知った政府はワーリデ・スルタンの収入源が減るのを防ぐため、トカット市外に逃れた職人たちを1820年頃までには呼び戻し、その後ヤズマジュルックに必要なバスクの技術と職人の流出を厳しく禁止したのです。 こうしてバスクはトカットの門外不出の技術となったわけですが、一部の職人によってイスタンブルでは17~18世紀にかけてヤズマジュルックが開業されたり(現在見つかる年代もののヤズマやバスク作品の多くはイスタンブルの工房製)、オスマン帝国の終焉とともに各地方でもヤズマジュルックが行われるようになりました。 でも、それも今は昔の話。 工房のほとんどは時代の流れとともに廃業し、残った工房も、トカットの一部を除けばバスクやシルクスクリーンの手作業から、機械プリントへと移行しています。 ![]() さて、トカットのヤズマジュルックに話を戻します。 大きなハンとしては35-40年前までは5つのハンがあり、稼働していたそうです。 その1つ「ガージオール・ハン」は町の中心部にあり、私が1996年にトカットに行ったときは、確かに中で職人さんたちが作業をしていました。 そこも何年だったかは明確ではありませんが、その次に行ったときには閉鎖されていました。 トカットに2018年現在、唯一残ったハンがガージオール・ハンの閉鎖後に作られた「ヤズマジュラル・ハン」。 ヤズマ屋さんたちのハンの意味です。 石造りの建物に上の階は木造でできています。 染めの後にたっぷりの水で洗い、脱水後に2階の干し竿に布を下げて乾かします。 ここで気が付いたかもしれませんが、バスクのテクニックは1つではありません。 いくつかの技術に分かれ、さらに彩色の方法なども異なります。(続く) -------------------------------------------------------------------- 10月21日ー27日のトカット滞在のイーネオヤ&バスクツアーにもぜひご参加ください。 トカットツアーのお問合せは旅工房さんの秘境専門デスク TEL 03-5956-3148 まで。 オヤフェスのお問合せ・出展参加お申込みは私まで → ★ よろしくお願いいたします。 ------------------------------- ミフリのショッピングサイトはコチラ↓ ![]() ミフリ&アクチェ ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() その他・全般ランキング ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 29, 2018 09:48:16 PM
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