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三河の住人の庵

三河の住人の庵

大正大典史6章皇室編附朝鮮王族

6章 皇族編
 第1節 伏見宮、 第2節 有栖川宮(高松宮)、第3節 閑院宮
 第4節 東伏見宮、

 第5節 久邇宮

 久邇宮家は、開港攘夷の説盛なりし安政年間に、勤皇の志士が私に盟主と仰ぎ奉りし青蓮 院宮に出づ。<中略>邦彦殿下は故一品朝彦親王の第3王子にて<中略>
 御子様は朝融王、邦久王、良子女王、信子女王、智子女王の御五方にて、皆父君に似させられ、御賢明に渡らせ給ひ、御学問修行中なり。

 第6節 梨本宮

 守正王殿下は、故一品朝彦親王第4の王子にましまし<中略>
 御子様は方子、規子の御二方あり。何れも御姿麗しく、無邪気に愛らしきこと言はん方なしとぞ。

 第7節 北白川宮、 第8節 竹田宮、第9節 朝香宮、第10節 東久邇宮
 第11節 山階宮、 第12節 賀陽宮、第13節 華頂宮、第14節 小松宮

 附  朝鮮王族  <全文>

 明治43(1910)年8月29日、韓国は完全且つ永久に日本帝国の領土となり 
先帝陛下の思召を以て、前皇帝を昌徳宮李王、前帝即ち太皇帝を徳寿宮李大王、
皇太子を李王世子と称し、並びに殿下の敬称を用ひ、我が皇族に準せらるゝことゝなれり。
 昌徳宮李王殿下は諱を拓、字を君邦、号を正軒と申し、明治7年2月8日の御生誕なり。
8年朝鮮国王の世子となり、30(1897)年韓帝国の皇太子に冊立、40(1907)年7月
19日、先帝の譲位に依り位に即かる。在位3年の後、即ち明治43(1910)年8月29
日、両国当局熟議の上、同国は日本帝国に併合するに至れり。これ歴史的関係上、また東洋
の大勢上、自然の成り行とはいひ、亦た殿下の御英断に因るものなくんばあらず。
殿下は頗る記憶力に富ませられ、其未だ皇太子にて在す頃、御父君が何か月日に就て忘れ給
ふことあれば、直ちに殿下を召して問ひ給ふを常とせりといふ。
またよく内外の形勢に通ぜられ、両国の併合に就ても少しも驚き給はず、泰然たる御態度を
持せられたるは、洵に敬服の外なしと謂ふ可し。御食事御著服はすべて朝鮮式なるも、近時
一週二三回は洋食を召され、又公式の場合には軍服を召させらる。御入浴は従来遊ばさざる
御習慣なりしが、近頃にては昌徳宮中に日本式の浴室を設け、毎日喜んで御入浴あり。
また朝鮮の因襲として王族に対しては決して外科療治を加ふること能はざりしが、殿下は破
天荒にもこの旧習を打破して、始めて虫歯を三本抜かれたるが、其為みに痛が頓に治りたる
より手を拍って喜ばれたり。
 李王妃殿下は前首相尹容善の孫女に在す。明治39(1906)年御年13にて御入内ありき。
元来朝鮮の皇后冊立は両班即ち貴族の女七十余人を候補者として書き出さしめ、選擇委員は
其中より才色兼備の者3人を選ぶ。之を三撰といふ。此三候補者は父君母君の選擇により其
中一人を撰みて皇后と定むる例なりしかば、これには却々激しき競争ありしといふ。
殿下は御幼少の時より日本人に就て日本語を学ばせられ、今にては余程上達せられ、交際振
りも如才なくあらせられ、殊に音楽に関する御嗜好深く洋楽は勿論、朝鮮固有の楽器にも熟
練せらるゝやに承る。性質極めて賢明にて併合の際李王殿下が泰然たる御態度も、この王妃
ありてなりと申す。
 徳寿宮李太王殿下は諱を熈(き)、字を聖臨と申す。興宣大院君の第2皇子にして、嘉永
6年の御生誕なり。御年12にして先王哲宗に次いで王位に即き、明治30(1897)年
皇帝の号を称せられ、在位44年の後、即ち明治40(1907)年7月10日、位を第2皇子
拓(李王)に譲り、爾来徳寿宮にありて、静かに世を送り給ふ。殿下は御性温順、且つ頗る
聡明に渡らせられ、政治上に於ては、長期間の経験あることゝて、老巧なる智識と明快なる
判断力に富ませられ、臣下を御する術と、外国に対する駆引とは頗る巧妙なりと申す。御容
貌は所謂福相にて、交際振りに妙を得られたれば、一度殿下に謁せし者は恰も春水四澤に満
つるの威を為すといふ。譲位後厳妃と共に閑居せられたるが、毎日朝来参加者絶えざるが話
振り円転骨脱にして、頗る平民的に座すといふ。茲に不思議なるは殿下は何時も一個の巾着
を御手より離し給はぬことなり。人これを不思議の巾着と謂ふ。此巾着には秘密箱の鍵、
大切の書類、印璽及び、貨幣の類を蔵めありといふ。酒も煙草も召上らず、只いつも人参を
噛み居られ、寸時も廃められし事なしと申す。かくて之といふ御道楽もなく、只僅に花鳥風
月を愛せらるゝのみにて、至って謹厳なる御性格なりと承はる。
 李王世子を垠殿下といふ。李太王の第7王子、明治30(1897)年10月20日の御生誕
なり。即ち李王とは異母兄弟に当らせらる。明治40(1907)年8月准養子となり給ひ、
皇太子に冊立あり。同年12月御見学の為東京に御来著あり。目下鳥居坂御用邸に留まり給
ひて中央幼年学校に御通学、御勉強中なるが性質頗る頴悟、前途御多望なりと申す。
 此外李王家の御一族としては李堈公(義和宮)李熹公(完興君)の2皇族待遇及び李熹公
の長男李シュン鎔、先々帝の弟完準君、其子李星鎔、義陽君あり。

※()内の西暦年は 転載者追記



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