2016/02/29(月)16:36
恥ずかしながら
喫茶店の「週刊新潮」で五木寛之「生き抜くヒント」を読んだ。
今週は「恥ずかしながらの記」と題した文章だった。
『物を書いて食べていくようになってから、半世紀以上が過ぎている。』
『ああ、それなのに、である。あらためて確認してみると、読めるのに正確に書けない漢字がじつに多いのだ。』
『キーボードを使って書いていれば、<中略>正しく読めれば困ることはない。』
『しかし、手書きで原稿を書く場合は、読めるだけでは無理だ。 読むことができても、ちゃんと書けない文字がある。それがあまりに多いことに、最近、あらためて愕然としているのである』
『正直なことをいえば、これまで鉛筆や万年筆で乱暴に書きなぐることで、その辺をごまかしてやってきた。』
『形だけ似せておけば、編集者のほうで判読してくれるだろう、と、たかをくくっていたのだ。』
『正しい字が書けないことに、あらためて自分で驚く、数えあげればきりがない、読めるが書けない字がいくらでもでてくるのだ』
『書くほうだけではなく、読みにも自信がなくなってきた。』
と、こんな調子の文章なのだ。小説家の五木寛之にして
老いては読み書きもあやふやになってしまうわけである。
ましてや 文字をいい加減に覚えてきたジジなんぞ
書けない読めないは当然至極「当たり前田のクラッカー」なのだ。
政治家が漢字を読めないと言って「顰蹙」を買っていたのだが
「未曾有」を(みぞうゆう)と読んでも 歯舞を(はぶ)読んでも
前後の話から想像はつく それほど目くじら立てるまでもない。
未曾有では その後 曾の字が曽になっているのは
間違いだなんて騒いでいて「えっ そう?」だった。
「八でもソでも判ればいいのだ」と爺は思う。
それにしても 一体いつから こんなに息苦しい世の中になったのだろう。