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2022/01/12
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カテゴリ:大久保彦左衛門
今回の書状は手紙ではなく彦左衛門が身内の女性に書き与えたものだそうだ。

ずいぶん前に、なにかの書き物でみかけた記憶を頼りに探した。


たどりたどって、「釈教和歌の釈義」というものにたどり着いた。

さらに調べて、「青木一馬著作集2 古記録の研究 下 吉川弘文館発行」という本に写真入りで収録されているとわかった。





図書館で借りてひもといてみたら、大久保彦左衛門自筆の書が掲載されていた。

ほかに彦左衛門の著作「三河物語」の解説等もあり、この本を「彦左衛門コレクション」に加えるため古本を買い求めた。(2200円)



本文には詳しい説明があるが、ここでは抜粋要約を記してみる。。




『大久保彦左衛門忠教自筆の釈教和歌の釈義』
『掲した写真は、三河物語の著者 大久保彦左衛門忠教の、自筆の釈教和歌の釈義である。
 忠教は決して一介の粗野な武弁ではなく、深く経典に心をひそめた、道心の固い人であり、またかなりに文筆の嗜みのある人でもあった。ここに紹介するものは、わずかに一紙のみのきわめて短いものながら、三河物語と合わせて、そのことを裏付ける一資料といえよう。

 実に細かい字で、几帳面に、丹念に書かれているこ とである。全く驚嘆のほかはない。

 奥書によれば、寛永十年、忠教が七十四歳の年に、「おミね」なる者に、心をこめて書き与えたものであることが知られる。

書は体をあらわすという。それが若し本当なら、彦左衛門忠教の如きは、たぐい稀な、几帳面な、丹念で周密な、 そして繊細な性格の持主といわざるを得まい。世にいう「彦左」ー-主家を思うて歯に衣をきせず、誰憚るところな ズバズバと何でもいってのけるタイプの煙たい老人――のイメージと、それは余りにも違いすぎる。というよりも まさに対蹠的でさえある。しかもこれこそが、「彦左」の真骨頂であること申すまでもない。
全文を写し採っておく。




第六寿量品 座点頭本の心を    慈鎮 
〽️いる塵の積(つもり)てたかくなる山のおくより出し月をミる哉 
塵点とは、たとへの心也、顕本とハ、此品の時、尽迦の、本地を顕し給ふ事也、其様を申さバ、たとへバ、人あって、五百千万億、那曲他、阿僧祇の世界を、抹して、微塵となして、東方より、五百千万億、那由他、阿僧祇の国を過て ハ、一塵を、クダしクダして、其微塵を尽して、さて微塵をつけたると、つけぬとの世界を、ことごとくちりとなして、 其一塵を、一刧とせんにも過たる、先より仏になれると、名乗給へり、足を塵点の顕本と八いふなり、これによりて、 今の哥に、塵の積て、高山となる、其奥より、出る月を見るとハいへり、月をハ無始無終の仏に、たとへたり、(?)世〃ふりて絶ぬ誓のある数に積れる塵のほどぞ久しき 
我実成仏以来甚大久遠   思順上人 
〽️末とをく流し水の水上のつきせぬことをしらせつる哉 
最初、実成の本地也、それよりこのかた、いま尺尊成道までハながれ也、未来も又如此、源ふかき水ハ、必ながれとをし、久遠 正覚の内証、甚深なれバ、垂跡門の化道も、又はるかにして、不絶と云心也、 
廃迹 顕本の心を、
〽️水の血に移るもおなし影ながらひとつ空にぞ月ハすミける 
廃跡顕本と申ハ、垂跡門の仏を捨て、本地甚遠の仏をあらハす心也、されバ、垂跡の仏ハ、水中の月のごとく、本地の仏ハ、天月のごとくにして、一なりといへり、 
出釈氏宮去伽耶城   俊成卿 
〽️昔はやさとり晴にし月影の今夜み山を出しとやミし   哥の心、前の段におなし、
無有生死    慈鎮
〽️吉の山おくに心のすミぬれバちる花もなしさく枝もなし
吉野之奥に、心のすむと云へるハ、世を捨はてゝ、月花にもめをかけずして、湛然、不動の心地に、成就したる人也、かゝる眼の前に、花の有無に、おち侍らぬに、たとふ心也、生死のふたつハ、有無の二道なれば也、 
心懐恋暮(慕)渇仰於仏   寂然法師 
〽️別にしそのおも影の恋しきに夢にも見へよ山のはの月
仏ハ、涅槃に入も、衆生 利益也、是 則、値遭難遭の思ひを、衆生をカナシミ侍れハ、出世に住す、(きょう)厭怠の心あれバ、月の雲にかくるゝがことく、涅槃し給ふ心ある身の、是を聞侍て、恋したふ余に、せめてハ、夢にも見へ 給へかしと、ふかくしたふ心なるべし
作是教已後至他国
〽️山ふかき木下毎に契をキて朝たっ霧の跡のしづけさ 
此品の中に、医師喩と云 侍る事有、たとへバ、良医あり、かれにあまたの子あり、然るに、父かの子共をのこし置て、他国に行たる留守に、此子共、毒服して、心みだれぬ、父帰来りて、是を見侍りて、薬を合てあたふるに、毒気あさキものハ、 則 薬を服していへたり、さて、毒気ふかくいたりたるハ、本心を失て、のむことなくして、病いへ侍らず、此時父、方便し給ふ様ハ、薬を合て置て、我ハ他国にいたりて、かしこより人をつかハして、父すでに死せりといハしむ、 諸(もろもろ)の子是をきゝて、父いまさハ、かさねて、我等が病を療治し給ひなん、既に死し給へバ、頼かたなしと思ひて、とどめ置し薬をのミて、病則いゆと云喩也、父ハ仏、子ハ諸の衆生也、薬ハ、仏の説給へる経教也、毒とハ、衆生の迷也、他国に行とハ、他の世界を、利益し給ふこと也、仏こゝにハ涅槃すと理(現)ずれとも、 まことハ、不生不滅の也、さて、薬をとどむるハ、仏の説給へる経を、入滅の跡に、のこし置給ふこと也、此経を修行して、生死の家を出、煩悩の病をいやすといへり、今の哥に、山ふかき木本ごとに契おくとは、十方せ界に、仏の利益の、あまねキこと也、朝立務の跡のしづけさとハ、霧をバ、病にたとふ、仏の他国にいたり、利益し給ふ跡に ハ、病のはなはだしきを、跡のしづけさと云也、
〽️霧ふかき秋のミやまの木本にことのはのミぞちり残ける
左兵衛督推方 
自惟狐露  寂超法師
〽️ とことはに頼(たのむ)かげなき音をぞなく鶴の林の空に恋つゝ
如来滅後の衆生ハ、父母にはなれたる子のごとし、されバ、頼かげなき音をなくといへり、鶴の林の空とハ、如来滅度し給ふ所也、 
寛永拾年癸酉三月五日 七十四ニシテ是ヲ書 忠教(花押)
 おミねニ


この巻物は、忠教の子孫で、かねて高柳先生とお親しい大久保忠和氏が、先生にお見せするために持参されたもの であるが、先生が御病臥中であるため私が代って拝見し、拙い紹介の筆を執ったのである。先生御快癒の上、改めて 見ていただいて、補備・訂正をお願いしたいと思う。』(昭和四十四年六月「日本歴史」)
【出典 青木一馬著作集2 古記録の研究 下 吉川弘文館発行】



さて同本に、この文に続いて『大久保忠教のもう一つの諱』と題した一文があった。

それによると先の『大久保彦左衛門忠教自筆の釈教和歌の釈義』において
書き下し文の最後の彦左衛門の署名を

「寛永拾年癸酉三月五日 七十四ニシテ是ヲ書  忠教(花押)」

としたが

その後間違いに気付いた。

『たまたま野史を見たのを機会に、 吉野文書の自署と比較した結果、改めて「忠孝」の諱を確認し、前稿の釈文中の「忠✕教(花押)」を「忠○孝(花押)」と 訂正し、年来の疑問に一応の解決をしておきたいと思ってこの小文を草した次第である。』【昭和五十一年一月、『日本歴史』三三二】』


ということで大久保彦左衛門の諱(いみな)は、初め忠雄、次に忠孝、そして忠教(ただたか)と変わったということである。

この一事も「彦左衛門おたく」には重大な発見であるが

さらに著者が諱の訂正の前に書いている文章に引き付けられた。

『吉野直靖氏の所蔵文書中に、彦左衛門の自筆書状一通がある。〈中略〉末尾に、 五月十六日 大彦左衛門尉
      忠教(花押)
とあって、「忠教」と自署されている。年次はないが、内容からみて、恐らくは晩年に近い頃のものであろうと思う。 忠孝から忠教への改名は、少なくとも寛永十年三月以降である。彼は寛永十六年に八十歳で歿した。従って、野史が 忠孝の諱で伝を立てているのは妥当ではないのである。』

この吉野氏所蔵文書こそ私が先日書いた「大久保彦左衛門書状 細かい指示」
  ここ ←

なのだとわかった。

「寛政重修諸家譜」によれば
 『(寛永)十二年額田郡の三百石の地を常陸國鹿嶋郡のうちにうつさる。』
とある。
彦左衛門は寛永十八年鹿嶋で生涯を終えている。

吉野直靖氏の先祖が鹿嶋の人であれば、あの書状は武蔵羽生でも三河坂崎でもなく常陸国鹿嶋郡の陣屋宛であったことがわかるのだが、私の調べは吉野氏にたどり着けていない。


でもまあ、一冊の本「古記録の研究」から2つの発見があったことに驚き悦んでいる。



【追記】2022.01.18

パソコンのハードディスクに収めてある記録を読み返していたら、数年前に「釈教和歌の釈義と和歌二首」が幸田町指定文化財に登録されているとのメモと「青木一馬著作集2 古記録の研究 下 吉川弘文館発行」のメモが出てきた。

数年前にここまではたどり着いていたのに、そこで放置してしまったのだ。

せっかく集めた資料、もっと気を入れて調べよう!







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最終更新日  2022/01/18 12:36:21 PM
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