2024/05/25(土)20:31
爺も歩けば ぼう(望)に当たる
1週間前、JRさわやかウォーキングに参加して掛川市内を歩いた後、『天浜線』で天竜二俣に立ち寄った。
大久保彦左衛門が若い頃の「いたずら」を詫びた手紙が保存されている『内山真龍(またつ)資料館』に行くためだった。
この日の少し前、大久保彦左衛門が知行地の代官に送った書状について小田原城に問い合わせたところ、書状は所蔵しているが個人が見ることは出来ないとの返事をもらっていた。
ふらりと行っても見せてもらえるとは思えないのだが、近くまで出掛けたついでに、ともかく出掛けてみたのだった。
展示室には神道関連の収集品があるだけで彦左衛門の手紙はなかった。
係の人に聞いたところでは、特別展で公開することはあるが、個人に見せることはないとのことだった。
(帰宅後調べたら昨年2023年春に展示されていたようだ。)
残念がっていたら
『天竜市史』という本に掲載されている彦左衛門詫び状を見せてくれた。
私が持っている資料より大きい写真だった。
以前からの写真より鮮明かもしれない。
そんなこんなで二俣行きは、大きい収穫はなかったのだが
その日から1週間、別のところで奇跡が続いている。
前述した小田原城所蔵の書状について
小田原城総合管理事務所から申請書を提出し承認されれば書状の写真を送ってもらえるとの連絡が来た。
さらに宛先の代官のいた場所の候補の一つ
鹿嶋市教育委員会社会教育課から
『安政6年(1859)2月の「大船津村組合高書上帳(糟谷家文書)」に・沼尾村 村高448石余のうち、大久保氏領227石余・田野辺村 村高289石余のうち、大久保氏領83石余』
の記述があるとの回答をいただいた。
この書状については
大久保彦左衛門書状 細かい指示をする
に書いている。
代官所所在地については羽生市が有力なのだが、市内のどこなのか はっきりしなかった。
ところがこれも、ネットで検索したところ 『クニの部屋』というブログに行き当たった。
「大久保彦左衛門は羽生市内の常木・川俣・発戸の二千石を領し、在城期間はなんと24年にも及びます。」
二俣の資料館を訪ねたことから、探求心に火がついた格好である。
今年の秋には『大久保彦左衛門の聖地探訪』として
羽生市の常木、川俣、発戸
鹿嶋市の沼尾、田野辺
に出掛けてみようと思っている。
旧街道歩きの次の目標に『大久保彦左衛門の聖地巡り』というのも悪くない。