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カテゴリ:考えるヒント
木田元著「新人生論ノート」(集英社新書)は、三木清著の「人生論ノート」を明らかに意識せざるを得ない執筆になっているが、引用された三木清の面白い文章を発見する。 「健康そのものというものはない」とニーチェはいった。これは科学的判断ではなく、ニーチェの哲学を表明したものにほかならぬ。「何が一般に病気であるかは、医者の判断よりも患者の判断及びそれぞれの文化圏の支配的な見解に依存している」とカール・ヤスペルスはいう。そして彼の考えるように、病気や健康は存在判断ではなくて価値判断であるとすれば、それは哲学に属することになろう。経験的な存在概念としては平均というものを持ち出すほかない。しかしながら平均的な健康というものによっては人それぞれに個性的な健康について何等本質的なものを把握することができぬ。もしまた健康は目的論的概念であるとすれば、そのことによってまさにそれは科学の範囲を脱することになるであろう。(人生論ノート『健康について』より) 私は高血圧治療薬を常用しているが、腹部超音波検査の当日は絶食のため朝食後の薬を服用しないで病院へ行った。主治医に向かって「服用していない時の不安は薬への依存症ではないか」と尋ねたところ、目の悪い人がメガネをかけるのを例えて話してくれた。薬を使って正常な状態を維持している時には、それはつまり健康であるということ。何となくはぐらかされたような心持ちはしたものの、ものは考えようで一病息災とはこのことかと得心した。 そんな経緯があったので、この文章を読んだ時にはすんなりと腑に落ちた気がする。「健康というのは平和と同じである。そこに如何に多くの種類があり、多くの価値の相違があるであろう。(三木清)」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.01.27 13:07:02
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