2眼レフのスタート(START)から見た歴史あるポーランドの光学機器メーカーPZOとWZFO
スラブ語圏でも、最も言語の習得が難しいと言われるポーランド。昔、バックパッカーでワルシャワから列車でクラコフへ向かったのだけど、国名の元にもなったポーレ(=平原)というのが良く分かる旅になった。翌日、クラコフからベンツのタクシーでオシフェンチウム(=アウシュビッツ)へ向かい、ドイツ語で「働けば自由になる」という文字が睥睨している通用門をくぐる。その門を抜けて、右手にある建屋の前に大きな樫の木があった。季節は秋であり、下に大きなドングリが沢山落ちていたので、何となく綺麗な奴をつまみあげて幾つかジーンズのポケットに仕舞い込む。やがて、ここで撮られた、楽器を持つ収容者達の写真パネルを見て愕然とする。この場所は、かつて収容者達によるコンサートが開かれた場所であり、大きさからして、この場所でずっと佇んでいる樫の木も、間違いなく収容者達と一緒に、その音色を聞いている事に胸が熱くなる。そのドングリは、リュックの奥底に押し込まれ一緒に旅をしていたのだけど、帰国して、植物好きで盆栽士の叔父に渡した所、冬に寒い所へ放置した後に土に蒔いたらしく、春になり、たったの一つだけ芽を出したと連絡があった。アウシュビッツからやってきたドングリの木は、ずっと鉢植えで大切にされていたのだけど、自宅が出来た時に、叔父から記念樹にと庭の隅に移植された。やはり寒さに強いのか、春の割と早い内から芽を吹いて、毎年、隙間が無い位にびっしりと葉を茂らせている。葉っぱは日本の柏に似た感じで、茶色に紅葉した後も春先まで落葉せず、ずっと枯れた葉を纏っているのは、ポーランドの冬に対応しているのだろうか。今では大分大きくなって、汗だくで剪定が必要な程元気だけど、何せ、仲間が直線距離でも9千キロ弱の遥か彼方に存在するので、あの見事なドングリを付ける事は無いのが何とも寂しく切ない。そのワルシャワをうろついていた時に、骨董屋でポーランド製の大判用のレンズを見付けて連れてきたのだけど、当時は、ポーランドで作られていた光学製品なんか知らなかったし、そこに刻まれていたPZOというブランドを見ても、ソ連かチェコのOEMではないかと思っていた。久しぶりに、タンスの中からポーランド製のSTARTという二眼レフを発見して、ついでにポーランドの光学メーカーを調べてみたら、歴史も規模も相当なもので、特に写真に関わる部分に関しては、あらゆるものが作られていた事に驚いた。ポーランドの光学機器は意外に歴史があって、1921年には既に、Fabryka Aparatów Optycznych i Precyzyjnych H. Kolberg i s-kaFabryka Aparatów Optycznych(=光学精密工場)という光学メーカーが、Kazimierz Mieszczański氏、Georg Core氏、Karol Hercyk氏、Henryk Kolberg氏らの、実業家のグループによりワルシャワで設立されている。これの元になったのは、1899年創立の古い光学工場だった。発展のきっかけは、軍事省の第3砲兵・兵器部門から1000個の双眼鏡を受注したことによる。1926年になると生産を増やすために、Grochowska316に工場を建設。その外観が下の写真。建物はかなりのボロだけど、左端の青空に溶け込んだPZOの看板が実に良い。現在の本社の住所は、04-186 ワルシャワ ul Grochwska 43。代表はWojciech Cholewo氏。1930年頃に、ポーランドの経済危機により、フランスの株主が株を取得して、Polskie Zakłady Optyczne S.A(ポーランドの光学工場)という名前に変更された。大戦中はカールツァイスの支配下に置かれて、敗戦色の濃くなった1944年半ばには、機械設備をドイツに移設すると、工場は破壊された。戦後になり、1951年になると、重工業省により工場は復活拡張され、新製品を開発すると西側へも輸出を開始する。その後、1980年代まであらゆる光学機器を生産しつつ、ワルシャワ条約機構の為に軍需品も手掛けている。1989年になると国の予算が削られて、武器の生産も減少してしまう。1995年11月には国営企業のPZOはポーランド唯一の株式会社に改組。1996年5月になると所有権改革省により国家投資基金に編入。2010年になると民生品は全ての生産を完了。現在では軍需品のみが生産されているようだ。1970年にジェシェフにPZOの子会社が設立。1980年には500人が働いていたものの、1992年に親会社から分離してOptresと改名。1993年に民営化後に1997年に清算されると、ドイツの、B&M Optik GmbHが買収。ポーランドのもう一つの光学メーカーWZFOは、Warszawskie Zakłady Fotooptyczne(Warsaw Photo-Optical Worksの意)の事で、1951年にボレスワフ・ビエルト総理により、ワルシャワ・シネ・テクニカル・ワークスとして設立された。あの、アンジェイ・ワイダ監督の映画も、ここで作られたレンズが使われていると思われる。当初、監督権はポーランドの中央撮影委員会に与えられ、1952年には重工業省に移管された後に、上記のWZFOへと名前を変更された。最初に二眼レフのSTARTを生産を開始した後に、ポーランド初の量産光学機器メーカーであった同社は、FenixやDruh、Amiと独特の機構と形状を持つAlfaなどのカメラを生産して、共産主義時代はPZOとの協業であった。カメラ以外には、引き延ばし機やスライド映写機に、雲台やフラッシュバルブまであらゆるものを生産していたらしい。やがて1968年には協業していたPZOと合併する。戦後、ポーランド初の量産カメラだった”START”には、いくつかのバージョンがある。 1951~1952年と1954~1960年に生産されたオリジナル 1960~1965年 START Ⅱ 1960~1967年 START B 1967~1970年 START 66 1970~1982年 START 66S家にある、ポーランド産のSTART66。シャッターはバルブと,1/15~1/250を備え、75mmf3.5のエミターが付いている。当時の雑誌では、時代遅れのカメラと酷評しているけど冗談ではない。二眼レフというカメラは、フィルムがあって現像処理が出来れば、最近のデジタル機器のように古びる事がない。家のスタート66は、四半世紀以上前に手元に来てから一度もフィルムを通していないけど、これで青空を撮れば、あのPZOの看板の空と同じ色に仕上がるのではないかと思っている。ポーランドの滞在中は、ずっと格安なゲストハウスという人の家に泊まっていた。あの親日で優しい人が暮らすポーランドには、忌々しいロシアの侵略戦争のあおりで、ウクライナからポーランドに逃れて来た人達が大挙して押し寄せている。その人の波に対応する、ポーランドのボランティアの人達の影像を見て、久し振りにポーランド人の暖かさを思い起こしているけど、とにかく一刻も早い侵略戦争の終結を心から願うばかりである。