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2021.03.20
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1863年生まれの眼鏡技師ヒューゴ・マイヤー氏と、
実業家のハインリッヒ・シェッツェ氏により、
1896年に創業したヒューゴ・マイヤー・オプティック・ゲルリッツ。

それまで、熱狂的なマニアの趣味でしかなかった」写真は、1860年頃にはプロの写真家が現れて、
やがてロールフィルムの登場と、それに伴うアマチュア写真家が現れたのが1890年頃であり、
マイヤー・オプティックは、それを追いかけるように創立されている。


当初の重要なレンズデザイナーは、
1911年にはアメリカへ移住したフリードリッヒ・コルモーゲン氏。


実は同じ年にカールツァイスの顔ともいえる、
1958年生まれのパウル・ルドルフ氏が、
パルモス・カメラ工場の問題で引退していたのだけど、
悲しいことに第一次世界大戦で私的財産を失い、
再び光学デザイナーとして働かざるを得なくなった。

しかし、既に古巣のカールツァイスでは、
ヴァンダースレブ氏、リヒター氏、メルテ氏らが活躍していたので、
1920年に62歳になったルドルフ氏がコルモーゲン氏の後釜として、
マイヤー・オプティックにやってきた事は実にラッキーであった。

新しいレンズを欲していた、マイヤー・オプティックに対するルドルフ氏の最初の仕事は、
以前から同社にプラズマートのパテントを譲っていた関係もあり、それを改良する事であった。

まず最初の成果が、1922年の新プラズマートであり、
更に改良を続けて、最後には自身が開発したプラナーを上回るf1.5を実現して、
マイヤー・オプティックは一躍、レンズのトップメーカーになる事が出来たのだ。

その後、ルドルフ氏はプラズマートを、当時としては驚異的な性能の高価で複雑な構造を持つ、
Makro-Plasmaten (DRP Nr. 456.912)に発展させることになる。
驚く事に、当時はこのレンズの性能を引き出す事が出来ず、
それが叶うのは20年後に登場する薄膜エマルジョンのフィルムと精密一眼レフであった。

さしものルドルフ氏も75歳で1933年になって引退すると、
それを引き継いだのがマイヤー・オプティックに25年ほど在籍したパウル・シェーフター氏だ。
そして同氏が最初に手掛けたのが、
1936年6月17日に登場したプリモプラン75mmである。


ついでにもう一人、マイヤー・オプティックには、
やがてトロニエ氏の後釜としてシュナイダーに移籍する、
ステファン・ローシュライン氏が在籍していて、
今では珍品扱いのトリオプラン100mf2.8を設計している。


戦後のVEBペンタコン時代を経て、
暫く生産が中止されていたマイヤー・ゲルリッツのレンズは、
ベルリンの壁崩壊によりVEBペンタコンからスピンオフされた、
新生の”Feinoptische Werk Görlitz”(ファインオプティッシェ ヴェルク ゲルリッツ)により、
どういうわけか1990~1991年に一度復活が試みられている。

それから、2014年のフォトキナに於いて、
”Globell Deutschland” (グローべル ドイチュラント)により復刻されて展示され、
その年の終わりには、個別のテスト証明書と5年保証を付けて販売が開始される事になる。

このレンズのウリは、ドイツをはじめ世界から部品を調達して、
ドイツでテスト、測定、微調整の全てを行い、
それは、ドイツ製の証明と品質保証のシール付きであると言う事らしい。

どうも、レンズ自体はMitacon50/0.95で、その筋では有名な、
”Zhongyi Optics”(ツォンイー オプティックス/中一光学製)のレンズと似たようなデザインで、
実際に新生マイヤーレンズの下請けを担当しているのではないかと推察されている。
レンズのコーティングには、”MC O’Hara Anti Reflex Coating”が施されていて、
このオハラというのは、日本のオハラ光学だろう。

新生マイヤーの矢継ぎ早の製品開発の裏には、
"中一光学"のような新興光学メーカーと共に、
アメリカのクラウドファンディング 、”キックスターター” の存在がある。
1990年には殆ど関心がもたれなかったマイヤーのレンズが、
2014年に復活した理由は一体何だろうか。

今時の、キリキリと固い描写のレンズばかりという状況に対する、
アンチテーゼとかノスタルジーという事だけでは説明が出来ない。
どうせなら、マクロプラズマーテンを復刻すればいいのに。


その新生マイヤーレンズの中に今では珍品扱いの、
プリモプラン75mmf1.9というレンズがある。
元は、エクサクタ用に1936年のHugo Meyer & Co Görlitz 時代に登場して、
真鍮製の鏡胴に収められたレンズは616gもあった。

どうやら、元はカールツァイス・イエナのビオター75mmf1.5の、
廉価版という位置付けで企画されて作られたレンズだ。

戦後は、アルミ鏡胴で250g程に軽量化されて、
1952年に再登場するも1955年には生産が中止されている。
これを再計算したのはパウル・シェフター氏自身。

1956年当時の価格は224マルクで、
大体ビオター75mmの約半額であった。

現在、戦前型はとても希少で高価なレンズでコレクターズアイテムになっている。

東側時代の戦後型の中古でも、ヨーロッパで700~2000ユーロという価格になっており、
新生バージョンの新品は、ヴォルフ・ディーター・プレンツェル氏により再計算が行われて、
リーズナブルという割に随分と高価で、発売当初の価格はドイツで1、990ユーロであり、
デポジット式でも1、499ユーロ(日本円で大体20万円)もしている。

因みに日本での価格は268、000円というもので、
2017年12月15日~2018年1月10までの、
キャンペーン価格でさえ184,000円という高級レンズに出世。

往年の、どちらかというと、
東側でも高価なツァイス・イエナを補完する安価で地味な存在で、
わざわざカネを払って買うのは、余程の好き者かへそ曲がりという、
マイヤー・レンズを知る者には、とても信じがたい状況だ。


4群5枚の(画角32度)の、
プリモプラン75mmf1.9のレンズ構成図。



EOS・RTに付けたプリモプラン75mmf1.9。
昔、プラハのカメラ屋さんで見付けたのだけど、
マイヤーのレンズは、いつでも格安だった。

戦前にはマイヤーの名も少しは知られていた日本でも、
クラッシックカメラがブームだった頃にでさえ、
見掛ける事は無く殆ど忘れ去られた存在だった。


プリモプラン75mmf1.9の作例(全て銀塩写真)

大事なキャベツ畑をぐるりと取り囲む案山子達が頼もしい。


田んぼを見守る案山子の向こうには、植えられたばかりの稲が初々しい。


阿弥陀様が祀られている、八ヶ岳の阿弥陀岳が麓の田んぼを見守っていらっしゃる。


キャベツ畑の案山子に連なるボーボーとした木に、
白い花が咲いているのを初めて見た。


大分緑が濃くなってきた。農道に連なる田畑にも案山子以外の生身の人間が増えてきた。


風にあおられて、カラマツの梢から飛び立つカラス。


2020年の初夏は、寒くて長雨で稲の生育も大分遅れてしまった。


夕景の田んぼの向こうには、案山子が一人。


いつも時期になると白い花を咲かせていたのだけど、
別の日に訪れたら根元からちょん切られてしまった。


戦後に復活したものの、3年ほどで消えた第二世代のプリモプラン75mm。
戦前は、イタリア語の最初とか一番目を意味するプリモを冠した意欲作だったけど、
解像度に軸足が移った戦後は、それ程顧みられなかったと見える。

ハッキリ言うとB級レンズなのだけど、
21世紀にわざわざ第三世代として復活した一番の理由が、
その独特の描写だとしたら、幾らなんでも高すぎるのではないか。





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最終更新日  2021.03.26 20:58:36
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