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mik.hamaのいい加減にします

全73件 (73件中 1-10件目)

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カメラ、レンズ、写真

2020.11.28
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今年の春はコロナ禍で余裕があったので、
久しぶりにマイクロニッコール105mmf2.8を持ち出そうとしたら、
ヘリコイドが固くて使い物にならず、何か代りのレンズとして持ち出したのが、
オリンパスのOMズイコー・100mmf2.8だった。

実は、暫く振りに見掛けたら最初は標準のマクロレンズかと思い、
引っ張り出してから、改めて100mmの中望遠レンズと気が付いたのである。

5群5枚構成で重さが230gという軽量なのも良い。
その重さは標準の50mmf1.4と同じで、
85mmf2と比べても長さが2mmしか違わない。

とにかく、小ぶりなOMシリーズにピッタリの中望遠レンズだ。
1970年代から存在していて、1990年の頭頃に生産中止された。
f2ほど俗っぽくなくて実力がピカイチなのは、
Y/Cカールツァイスのゾナー100mmf3.5と同じだ。


OM-3Tiに付けたズイコー100mmf2,8と広角の35mmf2を並べてみる。
比べてみると、どちらも殆ど同じ大きさというのに感嘆する。
普通にぶら下げていれば、誰も中望遠レンズとは思わないだろう。


OMズイコー100mmf2.8の作例(全て銀塩写真)

新緑の柔らかい緑が、春になり農作業の開始を告げている。


段々畑と段々田んぼに重なる、一番上の田んぼに軽トラと人影と案山子が見え始めた。


水の張られた田んぼの端に植えられている花桃が満開になっている。
土手にはタンポポも咲いて、背後のカラマツも梢が淡い緑になっている。


左上の田んぼからは、耕運機のエンジン音が轟いている。
その田んぼの土手には、去年から残る栗のイガと共にサクラが満開になっている。


春になり農作業の始まった田んぼ脇の農道を歩く快感は、
実際に歩いてみないと分からないと思う。


春の雑木林に咲いている桜は遠目からも目に付く。
その周辺の新緑も日ごとに変化していくので、
良いなと思ったら、撮っておかないと後悔する事になる。


春になり、水の張られた田んぼの脇にある古い桜の木も満開になった。


田起こしをして水を入れ始めた1枚の田んぼ。その脇に咲いている桜が清々しい。


この農道脇の田畑が賑やかくなるのも、もうじきだ。
冬は人気のない農道を歩く人が出てきた。


新緑のピークは短い。1年の内でもほんの一瞬。












最終更新日  2020.11.28 19:30:05
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2020.11.14
日本ではキワモノ扱いのレンズにA・シャハトというメーカーがある。
そのラインナップの中で、二種類ある広角レンズの一つがトラベゴン35mmf3.5だ。

このレンズを手に入れたのは前玉にクモリがあって、それなりに安かったので買ってみたのだけど、
クリーニングの為にバラしてみて、更にレンズ構成図を確認して驚いた。

その類例がないレンズ構成はA・シャハトと関係があった、
元カールツァイスの鬼才ベルテレ氏独特のもので、
1950年登場のレトロフォーカスを横目に見ながら、それに倣う事を拒否して、
オマケに戦前の大ツァイスのように高価な新しい硝材も好きに使えず、
製造コストの予算が低いサードパーティーメーカーの為に、
結構苦労して設計したものではないかと推察する。

独特の3群6枚のレンズ構成は、
最初に2枚張り合わせの凹レンズを配し、
次に鼓型を含んだ2枚張り合わせの凹レンズを置いて、
絞りを挟んで、最後にテッサー型でお馴染みの二枚張り合わせの凸レンズとなっている。


レトロフォーカス登場以前の一眼レフ用の広角となると、
以前紹介した、イソゴンやオロールのようなF値の暗い38mmとか40mmしかなかったのだけど、
レトロフォーカス以外の35mm広角では、このトラベゴンしか思い当たらない。

このレンズ構成に他の追随が無かったところを見ると、
どうもレトロフォーカス以上のものは無かったと見える。
ベルテレ氏の35mm広角レンズというと、戦前からあるビオゴンが余りにも有名だけど、
これの追随者も旧ソ連止まりで終わっているのは、製造コストの高さではないかと思う。

トラベゴン35mmf3.5は1954年には登場していて、
1970年辺りまで生産されていた。
価格はDM(ドイツマルク)168だった。


シャハトの広角レンズには、もう一つ1964年に登場した、
同じスペックのSトラベナーという3群7枚構成のレンズがあって、
更にビオゴン臭が濃くなっている。
これは、シャハト製のレンズで最も高価なものでDM318。
3枚張り合わせのレンズエレメントは手間とコストが掛かるのだ。



実際の所、トラベゴン35mmはレンズ後端からバックフォーカスの余裕が無くて、
手持ちの銀塩M42マウントカメラではEOS・RTにしか使えない。

EOS・RTに付けた、トラべゴン35mmf3.5。


A・シャハト・トラベゴン35mmf3.5の作例(全て銀塩写真)

夕方になり誰もいない日が傾いた田んぼの奥で、案山子が一人で田んぼを見守っている。


今年は天候が不順で、
7月頃までのトウモロコシは背が低くてヒョロヒョロだったけど、ここは8月以降の酷暑で復活。
八ヶ岳山麓のトウモロコシは昼夜の寒暖差で特Aクラスの味わいである。


真ん中左に蓼科山。
ここの畑は今年の天候不順で、暑さが大好きなトウモロコシはヒョロヒョロで丈も短い。
その代わり、手前のサツマイモは8月の暑さで元気に回復中。


農道脇のユリの花が、これ以上咲きようがない位に満開になっている。


稲の出穂。
今年は7月までの寒い長雨で、どうなるか心配していたけど見事に立ち直ったようだ。


頭から植物を生やした元茅葺屋根の建屋。
トラべゴンは、レンズの周辺部に逆光気味のシチュエーションがあると、
ハイライトにフレアが出て、このレンズでしか作れない写真が出来上がる。


家屋のある、生垣の方に開口部があると思われるトタンの物置?
元はゴミ置き場だと思うけど、使われなくなって反対側に向けられたのか。
朽ちるに任せてオブジェになっている。


夏になると弦植物に覆われて何だか良くわからないけど、
鉄塔の上には有線放送のラッパスピーカ―がある。
こう見えても現役なのだけど、拡声器特有の耳障りな歪も、
植物のお蔭で幾らかマイルドになっているんじゃないかな。






最終更新日  2020.11.17 21:15:36
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2020.10.31
オリンピアゾナーと呼ばれ、現在でも大口径の180mmf2.8という望遠レンズが、
カールツァイスから発表されたのは1936年だった。

当初は距離計コンタックスに直に取り付けるタイプだったのが、
やがてミラーボックスを介して取り付けるタイプに変更され、
戦後には東側のカールツァイス・イエナから、
一眼レフの35mmと6X6判用の大口径望遠レンズと言う事で再登場している。

以前紹介した、家にあるイエナ製ゾナー180mmf2.8のパンフレットの表紙。
特に真ん中のエレメントは、大塊の硝材が必要で3枚張り合わせの製造も面倒という、
製造コストが嵩むホンモノの3群5枚構成のオリンピアゾナー直系の銘玉だ。


西側からは、1966年にコンタレックスマウントで180mmf2.8ゾナーとして復活したけど、
中身は戦前のゾナーからかけ離れた4群4枚構成となり、たったの965本の製造で完了している。

1975年に登場した、ヤシカ/コンタックスのRTSシステムが登場してから暫くして、
1979年にゾナー180mf2.8が復活する事になる。
やはり、市場からは戦前の銘玉への憧憬と共に、販売リクエストが多かったのではないか。

オリンピアゾナーの復刻との触れ込みだったけど、
レンズ構成は既に一眼レフ用として一般的になっていたテレフォトタイプに変更されている。
それでも重さは985gとオリジナル並みのヘビー級で、
5群6枚のフローティング機構まで内蔵した凝ったレンズだった。

これが、1983年になるとマイナーチェンジで815gと幾らか軽量化された。
Y/Cゾナー180mmf2.8のレンズ構成図。
テレフォトとはいえ、何となくオリジナルのゾナーの雰囲気を持っている。


Y/Cゾナー180mmf2.8のパンフレット。


【10 1086】1stバージョンのゾナー180mmf2.8の外観。
ゾナー135mmf2.8や初期型のテレテッサー200mmf3.5と同系列のデザイン。
妥協なき大口径望遠レンズを画策したと思しき、
カールツァイス渾身の造り込みと意気込みが重量と共に伝わってくる。


【10 1117】2ndバージョンのゾナー180mmf2.8の外観図。
新しい、テレテッサー200mmf4と同じ様な、直線的なデザインに変更された。


【10 1086】1stバージョンのMTF曲線


【10 1117】2ndバージョンのMTF曲線


一応、1086も1117もレンズに変更は無いとされているけど、
実際には、MTF曲線を見ると微妙に違うので、写りも少し違うと思われる。
それでも、理想主義の追求で好き放題をして作った重い初期型の方が好きだ。

オリジナルに近い、イエナ製ゾナーと記念撮影。
数回の使用で無限遠のピントが出なくなったという、
コンタックス・マウントのケンコーカメラは写真を撮れないけど、
こういう物撮り用では大きさの確認で役に立つ。


”ヤシコン”ゾナーはフードを内蔵。
”イエナ”ゾナーにはコンタックス用のメタルフードを装着して並べてみた。
望遠で主流のテレフォトタイプはレンズの全長が短くできるけど、
レンズ本体の長さはイエナゾナーの方が更に短い。


コンタックス・ゾナー180mmf2.8の作例(全て銀塩写真)

晩秋になり、すっかり葉を落とした木々の下で薪を割る。


フローティング機構で近接時の補正もしているゾナー180mmf2.8。
わざと逆光気味の厳しい条件で枯れ尾花をアップにしてみる。


蓼科山の頭頂部に淡い雪が被っている。もう直ぐ、里にも雪が舞う時期が近い。


八ヶ岳の方は、既に雪が降りはじめたようだ。


ついに里にも雪が舞った。真ん中の下に林から飛び出た鳥が雪の中を飛ぶ。












最終更新日  2020.10.31 22:19:24
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2020.10.17
1952年から1964年まで作られていた、
マイヤー・ゲルリッツの広角レンズにプリマゴンというのがある。
女性バレエダンサーの最高位の称号であるプリマを冠したレンズだ。

マイヤー・ゲルリッツのネーミングは独特なもので、エジプト/ギリシャ神話に関わるものが多い。
エジプト神話の中核になる9柱神の居る太陽の都市、ヘリオポリスからヘリオプラン。
これの太陽神ヘリオスという名前は、旧ソ連でもダブルガウスの明るいレンズに使われた。
他には、調べても良く分からないけど、古代の英雄らしいドミロンからドミプラン、
オレストネンは大分お気に入りだったようで、オレステゴンにオレストンやオレステゴール等々。


1950年代、一眼レフ用の広角レンズは、まだ特殊な存在で、
1953年に登場したカールツァイス・イエナのフレクトゴン35mmf2.8は、
当時としては特殊な大口径広角であり、とてもアマチュアの手に届かない高級レンズであった。

東ドイツにおける、初期の一眼レフ用広角レンズとしては、
テッサーとヘリオプランの40mmf4.5があったけど、
これに変わるアマチュア向けのレンズとしてプリマゴンは企画されたらしい。

中身は、ひたすら安価にするためf値を4.5に抑えて、
トリプレットの前にワイドコンバーターを配した、
4群4枚構成のシンプルなレトロフォーカスの広角レンズで、
設計は、ゲルリッツ・ヴァインヒューベルのヒューバート・ウルブリッヒ氏。

1955年にはカタログに載って、1956年には春のライプツィヒ見本市にも出品された。
最初のメニスカスレンズに、分散の小さいFK5(フッ珪クラウン)という硝材を使用しているけど、
現在、この硝材はEDとかLDという特殊低分散ガラスに分類されている。

そのお陰で、当時のプリマゴンはコスパが良くて驚く程の描写だったようで、
濃い青から中間の赤(434~656㎚)に至るまで色収差の補正も良好だった。

1957年3月26日に西ドイツで連邦意匠登録・実用新案を取得して(DBGM. Nr. 1.749.770)、
1958年1月29日には東ドイツでも同様にGMを取得(DDR-GM Nr. 5107)している。
(DBGMは"Deutsches Bundes-Gebrauchsmuster"の略)
価格は、当初165マルクだったのが、1960年から130マルクに値下げされた。

その後、マイヤー・オプティックは1964年になると、
プリマゴンの後継アマチュア用の広角レンズを企画して、
新しい30mmf3.5を開発する事になり、
それには旧約聖書に出てくる若い女性の名前Lidythを冠して、
プリマゴンと交代する事になる。


プリマゴンのパンフレット:1
社名がVEB・ファインオプティッシェズ・ヴェルク・ゲルリッツ
/マイヤー・オプティックとなっている。

VEBは旧ソ連が接収していた企業の返還に関わり作られた企業形態で、
1946年7月に成立したフォルクセイゲナー・ベトリーブ/人民公社の事。
次の社名はゲルリッツの精密光学機器製造所/マイヤー光学といったところだ。



プリマゴンのカラーのパンフレットでレンズ構成図を見ると、
フロントの大きなFK5硝材のメニスカスレンズと、
その後にある小さなトリプレットの対比が面白い。


キヤノンEOS・RTに付けたプリマゴン35mmf4.5.

昔、プラハで手に入れたプリマゴンは、
阿鼻叫喚だったクラッシックカメラブームの時でも、
この手のレンズは需要が無かったので日本では殆ど見掛けなかった。

一応、東側の高品質レンズを示す、虫という字に似た刻印が入っている。


プリマゴン35mmf4.5の作例(全て銀塩写真)

古い建屋に柔らかい初冬の日差しが暖かい。周辺光量の低下も、このレンズの特徴の一つ。
幹にツル植物を巻き付けた脇に立つ大きな木も、この建屋と一緒に過ごしてきたのだろう。



風にそよぐ枯れた葦の向こうには、すっかり葉を落とした雑木林。その上には月が昇っている。


田んぼの土手に生えているボーボーとした木が3本。
土手の補強と思うけど、邪魔なのか時々根元からちょん切られている。


小高い丘に挟まれた田んぼは開墾も大変だったと思う。
昔は、ここら辺の土地を掘ると、矢じりとか縄文期の遺物が出て来たらしい。


コンクリートの構造物の下にソファーが2つ。
意図して置かれたのか、ゴミとして捨てられているのか分からないけど、
背景とはマッチしているな、とは思う。


以前紹介した同じ様なスペックを持つ、
西側製のシュナイダー製ローコスト広角レンズのラジオゴンと比べると面白い。
どちらが優れているかという事は無意味だけど、どちらも良いレンズだと思う。






最終更新日  2020.10.17 19:30:05
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2020.10.03
個人的にも大好きなテッサーレンズ。

1902年に登場してから、少なくとも戦前までは高級レンズの代名詞であり、
実際には一般庶民とは無縁のレンズであったらしい。

そこそこ明るくてシンプルなレンズ構成の割に高性能が見込めるテッサー型は、
やがて、戦後になると東西を問わず世界中の色んなメーカーで作られて、
色んなカメラにも組み込まれ拡散していく事になる。

主にパウル・ルドルフ氏のプロデュースにより完成した最初のf6.3テッサーは、
エルンスト・ヴァンダースレプ氏により1907年にはf4.5に改良されて、
更に1930年になると、ヴィリー・メルテ氏も加わりf3.5とf2.8が登場。
以降、スタンダード・テッサーのf値はこの2つが標準となる。

所で、手元には最初に改良されたf4.5明るさを持つ、
黒塗りの真鍮鏡胴で、回転ヘリコイドを備えた、
テッサー10.5cmのライカLマウントのレンズがある。

ネットを突いても何もヒットせず、
どういうレンズかまるで分らないのだけど、
ちゃんとライカの距離計にも連動するカールツァイス製のレンズ。

レンズに刻まれているシリアル番号(1018357)から、
どうやら製造年は1930年(922488-1239697)らしいので、
同年に登場したライカCの為に作られたものではないか。

戦前のライカマウントの社外レンズというと、シュナイダーのクセノンが有名だけど、
他には第二次大戦でドイツからの供給が不足したアメリカで、
ウォレンサックがライカ用として供給したヴェロスティグマートがある。

世界大戦は1939年から始まるので、戦時中の不足分を補うという事も無いので、
ひょっとしたら、1930年から登場したf3.5とf2.8のお蔭で、
旧型のf4.5がダブついて在庫消化の為に転用したのだろうか。

造りを見ても、取って付けた何かの改造品というものではなく、
今となっては、ライツよりも遥かに大企業だったカールツァイスが、
ライカの距離計に連動する鏡胴をわざわざ仕立てて作った理由は闇の中である。


ベッサR3Mに取り付けた、戦前のテッサー10.5cmf4.5。
小振りだけど、真鍮なので比重が高い。


先の世界大戦を潜り抜けて90年という歳月が経ち、
大分年季の入った黒塗りの真鍮鏡胴は工作も上々。
ライツのエルマー9cmf4よりも細身ですっきりした外観を持つ。
今でもヘリコイドは滑らかで、絞りの動きも問題ない。


絞り環を含めたレンズヘッドは簡単に外せる。
本来は何かのカメラのレンズボードに嵌め込まれるものを、そのまま流用しているのではないか。
別の同じ焦点距離のレンズで、鏡胴側のネジが合えば付け替えられるかもしれない。
オリジナルの初期型プラナーが合えば面白いのだけど。


1930年製ノンコート・カールツァイス・イエナ製テッサー10.5cmf4.5の作例
(全て銀塩写真)

阿弥陀岳が見守る初秋の頃の八ヶ岳山麓の田んぼ。
今年の稲は、7月まで寒さと長雨でヒョロヒョロした無残な光景だったけど、
8月の猛暑で回復したようだ。但し、丈は全般的に短い。


蓼科山を望む田畑。
手前の稲も色づいて、奥の左側にはキャベツ、右側にはソバの白い花見える。
土手に見える白いポチポチしているのは案山子。


カラマツの梢の上から覗く夏の名残りの白い入道雲と、
上空の煙の様な黒い雲の対比が面白い。どうやら雨が近いようだ。


大分日が傾いてきた夕方のソバ畑。その脇を犬の散歩をする人が歩いていく。


お盆も過ぎると日が沈むのも大分早くなる。
プレハブの脇に、僅かな残照を受けて咲くコスモスが秋の訪れを告げている。


古いテッサーの描写は戦前のノンコートというものを考慮しても、
戦後に作られた東西ツァイスが作ったf3.5テッサーのイメージとはかけ離れたもので、
画には何とも柔らかい優しみがある。

大御所のパウル・ルドルフ氏は、
f6.3からの大口径化には難色を示したというけど、
f4.5の柔らかさは人像用としては評価されたと思う。

今時はキリキリとした固い描写や、
普通に写るレンズなんか幾らでもあるので、
たまには、こういうレンズで息抜きをするのは悪くない。






最終更新日  2020.10.03 19:30:06
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2020.09.19
ドイツ光学の新興勢力にウルム A・シャハトというレンズがあった。

アルバート・シャハト氏により、ミュンヘンで1948年に創立されて、
ウルムへの移転は1954年に行われて、1955年には新しい広角レンズを発表。

1960年にアルバート・シャハト氏は引退して、1970年には活動を終えてしまうけど、
エディクサ、プラクチナ、ライドルフ、エクサクタ、M42,ライカスクリュー、といった、
各種のマウントに対応したレンズを供給していた。

シャハト氏は、1913年から1919年まで、カールツァイスの運用マネージャーとして働き、
それから1926年までイカに勤めた後は、ツァイスイコンに合併されると1939年まで在籍して、
1939年から1946年まで、シュタインハイルのテクニカルディレクターとして勤めていた。

A・シャハトのレンズの光学設計に携わったのが、
戦後の1946年に、スイスのヴィルト・ヘーアブルクの助けを借りて、
同地に光学設計オフィスを構えていた、元ツァイスの鬼才ルートヴィッヒ・ベルテレ氏。
レンズ構成を見ても、望遠と広角はエルノスターやビオゴンを思い起こさせるベルテレ流そのままだ。

1961年頃のパンフレットを見ると、
アルバート・シャハト ウルム/ドナウと書かれている。


A・シャハトは1967年に、コンスタンティンラウフグループに買収されたが、
それも1969年には光学部門が、ヴェッツェラーのヴィル社に売却される。

ヴィル社は日本では馴染みが無いけど、元はライツで眼鏡技師として働いていた、
ヴィルヘルム・ヴィル氏が、1923年に創立した光学メーカーだ。
カメラに関しては、ミノックス35のレンズの設計・製作とファインダーを担っていて、
株式の25%をミノックスに売却したり、一時はヴィルト・ライツに引き継がれ、
最後は1988年にヘルムート・フント社に合併された。


ウルムはドイツでも南に位置していて、リヒテンシュタインやスイスにも近い位置にあって、
わざわざミュンヘンから移ってきた理由は、スイスのベルテレ氏の事務所と近かったからだろうか。

かつて、A・シャハト社のあった、ウルムのツィンクラーシュトラッセ40を、
Googleで確認すると、社屋を出て右手のシラー通りを行けば、
歩いても5分位でドナウ河畔に辿り付きそうな場所にある。

あのベルテレ氏がデザインして、ドナウ川の左岸で作られていたA・シャハトのレンズは、
ブランドとは無縁で目利きのカメラマンには評判が良かったらしい。


レンズ構成がテッサー型の標準レンズ、
A・シャハト・トラベナー50mmf2.8をEOSに付けてみる。
このレンズの当時の価格は192ドイツマルク。

以前紹介した同スペックのクセノンと比べて、
外観も南ドイツらしい軽快なイメージがあって明るい雰囲気がある。
エディクサのブランドを持つウイルジンと提携していたので、エディクサの名前も刻まれている。

使用例も無く地味なレンズだけど、なにせ真面目なテッサー型だから何の問題も無い。
名前は、ドイツ語読みだとトラフェナーだけど、本来はどういう呼び方をしていたのだろうか。

キャップに刻まれた、シャハト・ウルム・ドナウ。
ドナウ左岸で生まれて、ドナウの文字が入ったシャハトのレンズから受けるイメージは、
どうしてもヨハン・シュトラウス2世作曲の「青き美しきドナウ」のワルツである。


A・シャハトのトラベナー50mmf2.8の作例(全て銀塩写真)

民家脇の馬頭観世音。数世代にも渡って前の道を見守り続けている。


舗装された林道に葉の落ちたカラマツの梢が影を落として、
印象的なシマシマ模様を描いている。


爆発したガマの穂が残る、元田んぼ。最近、見掛ける事が多くなった休耕田だ。
木が生えると復元は厄介になるけど、高齢化と後継者不足でどうにもならない。


古い商店のトタン張りの看板。良く見ると辛うじて森永ミルクキャラメルが残っている。
こういう集落の中の小さな商店は、昔は子供たちのオアシスでありパラダイスだった。
今でも現役。


バス停の標識の墓場だ。昔の標識は鉄にペイントされているだけなので、
古くなるとサビサビになってしまっていたけど、今の標識は防錆も対候性もバッチリ。


大分前に閉店したバイクショップ。取り残されて色褪せたYAMAHAの看板とネオンが寂しい。
窓の左には、恐らく仕事で使われていたソケットレンチが覗く。












最終更新日  2020.10.09 10:06:11
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2020.08.22
ライカの標準レンズにズマリットというのがある。
1936年にシュナイダーより供給されたクセノンを下敷きにして、
実質的には1949年に登場して、1960年に生産完了した5群7枚の大口径レンズである。

当初はスクリューマウントだけだったけど、
M3の登場で、1954年からMマウントも追加されて、
これは、後継のズミルクスが登場した1959年まで作られた。
  ライカスクリューマウント/ライカコード:SOOIA
  ライカMマウント/ライカコード:SOOIA-M。

既に戦前の1939年には量産試作レベルの生産はしていたようで、
戦時中は中止して戦後の混乱期が収まった所で再登場したらしい。

レンズ構成は、1930年代に登場した先代のクセノンと殆ど同じだけど、
クセノンがテイラーホブソンのパテントを使用していたので、
同じようなレンズ構成の初期型ズマリットにも、
アメリカとイギリスで幾つかのパテントを持っていたテイラーホブソンの刻印がある。

このレンズに関わったのが、1930年代にライツでファインダーのパテントを幾つか取って、
戦後の1950年にはグスタフ・クラインバーグ氏と共に、
名作のズミクロン50mmを作り上げたオットー・ツィンマーマン氏。

どうやら、クセノンをそのままというわけではなく幾らか改良はされているようだ。
生産国はドイツとカナダの2種類があって、戦前に少数が作られてから、
主に戦後の1949から1957年まで生産され、その間の総生産数は74,643本。

どういう訳か、今ではバカ高いライツ製レンズの中では比較的安価で、
巷ではクセ玉とか余り芳しい話は聞かないけど、
個人的にはミッシリとした密度感やデザインも含めて好きなレンズで、
手元にあるのは、もう四半世紀ほど前にアメリカの通販で見付けた、
Lマウントの200ドルもしない安物である。

ズマリットは、1936年登場のクセノンから、
1959年に登場した、新種ガラスでf1.4にブラッシュアップされた初代ズミルクスまでの、
三世代に渡る、どれも似たようなレンズ構成という、
ライツ大口径スタンダードレンズの中では何とも地味な存在である。

どうも、入婿だけど特別な当代随一のハイスピードレンズという偉大な初代と、
新世代の優秀な3代目に気を使って、謙遜している2代目といった風情が堪らない。

手持ちのズマリットは少し薄いクモリも出ているけど、
その描写は古典的な変形ダブルガウスの典型とも言うべき、
絞りによる変化も大きくて面白いレンズだ。


Lマウントのズマリット5cmf1.5を、同スペックで先代のクセノンと並べてみる。
ダブルガウスがまだクセ玉だった時代を代表する大口径標準レンズ。

個人的には、初めて試写した時に、独特の絞りの変化に伴う美しい描写に感動した記憶がある。
出来上がった写真を見て、美しいと思うか、酷いなと思うかで評価が真っ二つに分かれるので、
中庸が一切無くて、宝物になるか、ゴミ扱いになるかは、その人次第という珍しいレンズ。


ズマリット5cmf1.5の作例(全て銀塩写真)

散歩道の途中に古い水車小屋がある。
もうだいぶ前から稼働していないし、全く手入れもされていないのでボロボロだけど、
つい寄り道をして、ベルトが巻き付いたままになっている動輪を時々鑑賞しに訪れている。


散歩道で見掛けるものの一つに道端の石仏があり、色々と個性があって拝観するだけでも楽しい。
ここら辺では馬頭観音様が圧倒的に多いけど、
草むらに埋もれつつある、このお地蔵さんの表情はちょっと見掛けないぞ。


葉の落ちたカラマツ林の向こうに冬の八ヶ岳が覗く。
この時期は誰も通らない未舗装の農道が奥へ続く。


トタン壁の向こうには崩れ落ちた茅葺小屋と、
真っ白になって何が描かれていたのか良く分からないけど、一応今でも踏ん張っている標識。
2つの物置だけど、屋根さえあれば茅葺小屋の方が遥かに長持ちした筈だ。


夕方になり、シルエットになったカラマツ。

空の発色が独特で、特に全般的に逆光気味でフレアっぽくなるのは、
レンズの薄いクモリのせいかもしれないけど、
ネットの作例を見ても同じ様なものなので元からこんなものかもしれない。

直そうか、そのままでいこうかと時々考えるけど、どうせ大して変わらないと思う。


畑の脇に植えられたヒマワリ。夏に夕景のヒマワリを見ると、今日も終わったなという実感が湧く。


シリアルから見る、主な生産年と生産数は以下の通り。
戦前/SN・No:491898~492000 Year:1939 Total:103

戦後/(No.)        (Y)        (pcs)
740001~741000     1949     1000
801001~802000     1950   1000
820001~823000      |      3000
890001~893000     1951     3000
950001~955000     1952   5000
956001~956500                |           500
987101~987150                |            50
999001~1000000                |            1000
1025001~1029500              |        4500
1052001~1054000           1953         2000
1054201~1058000              |            3800
1078001~1080000              |            2000
1098001~1100000              |            2000
1119201~ 1121000             |            1800   
1171501~1172500           1954         1000
1187001~1188000              |            1000
1209001~1212000              |            3000
1246001~1247000           1955         1000
1275001~1277000              |            2000
1297001~1300000              |            3000
1330001~1333000              |            3000
1357001~1360000           1956         3000
1367501~1368500              |            1000
1389001~1393000              |            4000
1418001~1421000              |            3000
1430001~1435000              |            5000
1470001~1473000           1957         3000
1499001~1501000              |            2000
1515001~1518000              |            3000
1526001~1526900              |             900
1527161~1530000              |            2840
1535001~1537000              |            2000
1546001~1546150              |             150
●1939~1957年 : 合計生産数/74,643本

戦前は1936年登場のクセノンを元に量産試作程度の103本が作られて中断。
実質的には主に戦後の1949年から1957年までの8年間に生産されたレンズだ。
最終生産年はズミルクスとダブった1960年らしいけど、
1958年以降となると、特にズミルクスが登場してMマウントの生産が終わった1959年と、
最後の1960年の生産数はかなり少ないのではないかと思われる。

ズマリットは、評価の割に生産数が意外に多いと思うけど、
独特の描写が主に人像用として結構評価されたのではないかと推察される。
因みに家にあるのは1952年物だ。






最終更新日  2020.08.22 19:30:05
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2020.08.08
戦前のドイツ光学界のシンボル的な存在であった、
35mm判用のカールツァイス・イエナのゾナー50mm。
最初に1931年にf2が登場して、更にそれを改良したf1.5という、
大口径レンズはカールツァイスの名声を高めるには十分な役割を果たしてきた。

実は、それに先立つ1925年に、ドイツのバート・クロイツナッハにあった、
創業1890年のJos. Schneider Optische Werke GmbH で、
当時23歳のアルブレヒト・ヴィルヘルム・トロニエ氏によって生み出されたレンズに、
非対称でダブルガウス型のクセノンというのがある。

エルネマンのベルテレ氏とクリュグハルト氏による、
1923年に登場したf2のエルノスターレンズは、
暗い室内撮影を可能にして世界に衝撃を与えた大口径レンズだった。
1924年に、シュナイダーへ主任レンズ設計者としてやってきたトロニエ氏は、
いきなりエルノスターと競合するレンズの設計に挑戦する事になる。

トロニエ氏は大口径のf2レンズの開発にあたり、
イギリスのテーラーホブソンのホレイス・ウイリアム・リー氏が、
1896年にカールツァイスから登場した対照型のプラナーを発展させて、
1920年に開発した変形ダブルガウスのオピックを参考にした。

やがて、プロジェクト開始から3年後の1925年にはクセノンf2の特許取得を完了。

戦後、トロニエ氏はイギリスの職業行政により、
フォクトレンダーの主任レンズ設計者に任命され、
ウルトロンやノクトンといった数々の名作を生み出していく事になる。


一方、戦前のライカは、コンタックス用ゾナーレンズの成功を横目に見ながら、
f1.5クラスの大口径レンズの必要性に迫られて、
クセノンを開発したトロニエ氏が在籍していたシュナイダーに協力を仰ぐ事になる。

そして、テーラーホブソンのイギリスPat.373950と、
アメリカPat.2019985の特許を使用して、
元はシネマレンズとして作られた、クセノン5cmf1.5を1936年に引っ張り出すけど、
結局は、4年前に登場していて既に市場の評価を独占して実績のある、
ゾナーf1.5のライバルとはなり得ず、少数の生産で終わってしまう事になってしまう。

戦後になり登場した、次のズマリットは殆どクセノンの焼き直しだったけど、
次の1959年に登場した第一世代ズミルクスは、まだクセノンを下敷きにしていて、
これには、新しいランタン系の硝材を使って性能を向上を図る事になるけど、
この手法は、戦前のf2クセノンを新種ガラスでリセットしたウルトロンと似ている。

それでも、ズミルクスは1962年登場の第二世代になると、
ライツ・カナダのウォルター・マンドラー氏により再設計がなされて、
ズミクロンと同じ空気レンズを採用して、ようやくクセノンから離れる事になる。
更に離れていた後群を貼り合わせた、後期型は第三世代と言えるもので、
その後30年に渡り、基本的にはそのまま使われる事になる。


気体のXenonは、「奇妙な」とか「馴染みにくい」を意味する、
ギリシャ語のξένος (xenos)が語源らしいけど、
トロニエ氏が、同じ綴りのXenonと名付けた理由は何だろうか。
1889年に発見されたばかりの、大気中には0.087ppmしか存在していない、
新しい希ガスとイメージをダブらせたのかもしれない。


戦前の、最小絞りがf9という特殊な大口径レンズを戦前のバルナックライカに付ける贅沢。
当時であれば、ホンの一握りの好事家か、ホンの一握りのプロでしか手にできなかったレンズだ。

クセノンは、日本ではガスの呼称でもおなじみの、キセノンと呼ばれる事もあるけど、
アメリカ人をはじめとする英語圏ではゼノンと発音するので油断ならない。

家にあるのは、淡いコーティングが施されているタイプ。
四半世紀ほど前の入手時は、絞りが固くて、ヘリコイドも重くて、
オマケに内部には薄いクモリを生じていたジャンクレベルだった。
この貴重な文化遺産は、とてもじゃないけど流石に自分でバラす勇気はなく、
リペアでは日本でもトップレベルの技術を持つ、関東カメラサービスにお願いした。
ホンの

レンズフードは後継のズマリット用が使える。
フードを付きのダイナミックなデザインは、写真を撮る道具の究極的なものの一つだ。
戦前の第三帝国時代のアールデコや表現主義にも通じるような気がする。


クセノン5cmf1.5の作例(全て銀塩写真)

離れているのに、お狐様の眼力が一直線に集中してくる。


モダンとレトロの対比が面白くて、行くと必ず訪れている場所。
奥の瀬戸物屋さんは閉じてしまったので、いつ更地になってしまうのか気が気でない。


開店前のお店で窓越し日向ぼっこのネコ。
鉢植えのネコ草を前に、「なんじゃ、お前。」といった所。


クセノンは猫を呼ぶ。カメラを向けると寄ってきた猫。
カメラを外すと立ち止まり、近付こうとすると逃げてしまう。
良く分からないと思うけど、実はもう一匹、黒猫がVWポロの前を横切っている。


木戸の上にいるネコ。たまに見かけるけど逃げてしまう。
どうやら、クセノンと猫の相性はいいようなので、
カメラを構えて自分の目を見せないように近付いてみる。


奥に、松本駅構内で線路を挟んで駅員さんと会話をしてる乗務員さん。


登場当時のクセノンのレンズ構成。
後のウルトロンに通じる所があり、絞りを挟んで前群はエルノスターに近い。
f1.5の最後群を2枚に分割した構成は、バックフォーカスを伸ばす効果もあり、
後に一眼レフ用の標準レンズに応用される事になる。



8/12訂正
8/23訂正






最終更新日  2020.08.23 21:39:20
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2020.07.25
カールツァイスのパウル・ルドルフ氏により、
1897年に登場した4群6枚の対称型ダブルガウスのプラナーレンズ。

今に続くカールツァイスの大口径レンズの代名詞で、
やがて色んな亜種を生み出した、ダブルガウスタイプの元祖である。

そのルーツは、プラナーが登場する80年前に、
ブラウンシュバイク生まれの数学者であったカール・フリードリッヒ・ガウス氏が、
接合された望遠鏡用の対物レンズの改良に取り組み、
中心と周辺の光線について分離した2枚のレンズを使い、
球面収差と色収差のない組み合わせの計算を行なった事に始まる。
それが、1817年に提案された凸レンズと凹レンズによる2群2枚のレンズである。

これを元に、絞りを挟んだ対称型に配置して、1888年に特許を取得したのが、
アメリカのマサチューセッツ州で、望遠鏡を作っていた天文学者のアルヴァン・クラーク氏だ。
これが、今に続くダブルガウスの始祖と言う事になる。

 ただし、上記の2つのレンズは、非点収差の補正がなされておらず、
 使用例は、1861年のシュタインハイル、1877年のアルヴァンクラーク、
 1896年のカールツァイス位で商業的には失敗している。



最初にクラーク氏のダブルガウスの改良に挑んだのが、カールツァイスのパウル・ルドルフ氏だ。

凸・凹 絞り 凹 凸 という4群4枚のダブルガウスを元に、凹レンズを2枚張り合わせにして、
4群6枚構成のプラナーが1897年に登場。1900年にパテントを取得する。
この今に続くダブルガウス元祖のネーミングは、像面湾曲が小さかったことから、
プラナー(=平面)という名前が付けられたらしい。
以降、カールツァイスのプラナーは、像面の平たん性を重視した完全補正を目指すことなる。

 大雑把にダブルガウスのレンズは、時としてデッコマヒッコマと評されるライツの補正不足型は、
 開放絞りではピント位置が中心と周辺で僅かに違う事により、ボケ味を含めた独特の味わいがあり、
 主に一眼レフに対応して発展した日本製の過剰補正型は、開放でのピント合わせが基本と言う事で、
 絞り込んでもピント位置が変化しないように考慮され、ピントは良いけどボケが固いと言われていた。


もう一つ、別の手法でクラーク氏のダブルガウスを改良して、
非点収差の補正に挑んだのがヒューゴ・マイヤー氏だった。
当時世界の最先端を行っていた、イエナ―・グラスヴェルク・ショットの新しいガラスを使って、
同じレンズ構成のマイヤー・アリストスティグマートというレンズを完成させて、
プラナー同様に1900年にはパテントを取得した。

 その後、1920年にマイヤー・オプティックは、パウル・ルドルフ氏と協力関係になり、
 1918年にルドルフ氏は、完成していたプラズマートの特許をマイヤー氏に譲り、
 1920年代に2群6枚のダゴールから発展させて、絞りを挟んだ内側のエレメントを分離させた、
 4群6枚のプラズマートがマイヤー・オプティックから登場する。
  *このプラズマートのレンズ構成は、プラナーが内側の凹レンズを張り合わせたものに対して、
   外側の凸レンズが張り合わせになっているだけの違いしかないものにみえるけど、
   以降、プラズマートの後追いが無かった所をみると、性能的にはイマイチだったのではないか。

プラナーが登場以降、1920年にテーラーホブソンのH.W.リー氏によりオピックへと改良され、
1925年にシュナイダーのA.Wトロニエ氏によりクセノンへと続き、
1927年には、ツァイスのW.メルテ氏により16mmカメラ用のビオターへと繋がっていく。

やがてその基本構造は、収差補正に極めて有効で効率的な事が分かると、
対称性をドンドン崩しながら、ライツ、フォクトレンダー、キヤノン、小西六、ミノルタなどから、
色んな亜種を生み出しつつ、本家のカールツァイスからはオリジナルのプラナー銘で、
ハッセルブラッド、ローライ、コンタレックス、リンホフなどに供給された。

やがて1966年になると、カールツァイスのエルハルト・グラッツェル氏は、
アンジェニューの100mmf1に満足できなかったNASAの為に、
プラナーの最高峰ともいえる50mmf0.7を設計して、
NASAはアポロ計画で月の太陽に照らされていない面を撮影出来るようになった。

*更にこのレンズは、スタンリー・キューブリック監督が3本購入して映画に使われた。
 このイメージサークルが27mmのレンズを、
 キューブリック監督はミッチェルBNC35mmカメラに合わせると、
 広角アタッチメントで焦点距離を36mmに短縮していたらしい。
 電気照明無しの撮影現場では、2mの位置で被写界深度が8cmに満たないレンズに、
 撮影を担当したジョン・オルコット氏は大分苦労したそうだ。

 この希少なレンズは、2011年に3本のうち1本がオークションに出され、
 90,000ユーロで落札されている。


そして1970年代にはエルハルト・グラッツェル氏により、
新時代の35mmカメラ用の50mf1.4が設計される事になった。
最初はSL-75用として作られるけど、このプロジェクトはキャンセルされ、
次に、ヤシカ・コンタックス用の標準レンズとして日の目を見る事になった。



個人的に、世界で一番好きな標準レンズはプラナー50mmf1.4だ。
写りも文句ないけど、もっと重要なのは19世紀末に登場してから、
ずっと今でも残っている、世界でも稀有な名前に対する憧れと敬意だ。
もう30年以上手元にある相棒。


プラナー50mmf1.4の作例(全て銀塩写真)
一番好きな新緑の時期に一番好きなレンズを持ち出す。

今年も農道わきの花桃が咲いて、いよいよ農作業の開始を告げている。


春になって田んぼの土手で満開の八重桜の向こうに広がる、田畑と奥の山が清々しい。
まだ、田んぼには水が引かれていないけど、待ちわびた農作業がもう直ぐ始まる。


いよいよ山間の田んぼにも水が張られて、田植え待ち。
田んぼの脇に人によって植えられた若い山桜が咲き、近くの山の斜面には先輩が満開になっている。


春になって、田んぼ脇の山の斜面も随分と賑やかくなってきた。
既に、田んぼには水が張られているけど、水さえ無ければここで花見をしたい。


山が笑う、という春の季語があるけど、ここはそれがどういう事か教えてくれる。
春到来で古い山桜を中心に色んな樹木が復活してきて何とも賑やかい。


春の雑木林には独特の芳香が漂い、色んな緑が現れて眺めて飽きる事が無いけど、
日ごとに変化する速度も速くて、マゴマゴしていると直ぐに終わってしまう。


諏訪で山桜が咲くのは5月に入ってからなので、山の際でお花見は可能。
都会の花見のように、人がいる事は稀なので、マスクもソーシャルディスタンスも不要だ。


今年の新緑の時期は余り天気は良くなかったけど、山桜には晴天よりも雨の方が似合うと思う。
辺りには鶯をはじめとする鳥の声しか聞こえず、農作業が始まる前の誰も居ない束の間の景色。


田んぼに何も無くても、田植えに使う苗の育成は既に始まっている。
この所、少々天候が悪く、おまけにずっと続いているのが気になる。


田んぼに水が張られただけでワクワクする、
苗が植えられると、水面に映るものは消え去ってしまう。


雑木林の中にある山桜には華がある。
その華やかさは周りの樹木によって更に引き立てられていく。


雨に煙る畑には、既に案山子たちがスタンバイして待っている。
もう直ぐ、キャベツの植え付けが家族総出で始まるのだ。






最終更新日  2020.07.25 21:05:15
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2020.07.11
コンタックスのRXをオーバーホールに出してから、
動作チェックを兼ねて、なるべく持ち出すようにしている。

たまには望遠レンズでも使ってみようかと思い、
タンスを漁って手持ちの純正コンッタクス用では一番焦点距離の長い、
1975年に登場した初期型テレテッサー200mmのf3.5を引っ張り出してきた。

まずは目にしてデカいなと思い、それを手にすると改めて随分と重いなと認識して、
持ち出す事に躊躇しながら取り合えずRXに取り付けてみる。

調べるとレンズの重さは750gで、マイナーチェンジで登場したf4の550gよりだいぶ重く、
近い焦点距離のゾナー180mmf2.8の815gよりは幾らか軽い。
レンズ構成は5群6枚のテレフォトタイプで、レンズフードを内蔵して最短撮影距離は1.8m。


このテレテッサー200mmf3.5の原型は、
1972年にローライフレックスSL-35用として企画され、
実際にプロトタイプが1本作られたらしいけど、
恐らく、このレンズの元ネタはツァイスイコン・フォクトレンダー時代に登場した、
フォクトレンダー銘のカラーダイナレックス200mmf4(5群6枚)ではないかと思う。

それから1973年になると、既にコンタレックスの後継機として企画されていた、
Weber SL-75というプロトタイプのカメラが完成。
1974年には新しいプラナー50mmf1.4と共にフォトキナで発表された。


この時にSL-75マウント用の、テレテッサー200mmf3.5のプロトタイプが2本作られた。
これに振られた製造番号は「2.593.897」と「6.645.264」。
このSL-75用のレンズは、コンタレックスマウントを基本にして、
後のヤシカ・コンタックスのRTSに繋がる、絞りに連動したカムレバーを装備していた。


SL-75用に企画されたレンズは以下の通りで、後のRTSにも繋がる6本だ。
 ディスタゴン : 18mm/f4  25mm/f2.8
 プラナー : 50m/f1.4
 ゾナー : 85mmf2.8  135mmf2.8
 テレテッサー200mmf3.5

これを見ると200mmf3.5は、従来のコンタレックス用には無い初登場の焦点距離となる。
恐らく製造コストの関係もあり、180mmと250mmという2本の4群4枚のレンズを整理して、
世界では一般的な200mmという焦点距離に統合したのではないかと考えられる。

しかし、SL-75は最初から高コストなカメラであり、
当時はオイルショックにより、マーケットが限られる事から販売されることは無かった。

そういうわけで、テレテッサー200mmf3.5は、
多大な労力と資金と人を投入したのに失敗したローライフレックスSL35、
続いてプロトタイプで終わってしまったSL-75に関わった事により、
実は、中々日の目を見ることの出来なかったレンズであった。

その後、1975年にヤシカ/コンタックス用のレンズとしてリベンジした後も、
継続して西ドイツで生産されていたので、ツァイスにとっては重要なレンズだったかもしれない。


テレテッサー200mmf3.5の生産数は17、785本で、
後継の200mmf4の生産数は3.888本と1/4強も少ない。
ゾナー180mmの陰に隠れて地味な存在だけど、良いレンズだと思う。



テレテッサー200mmf3.5の作例(全て銀塩写真)

田舎の田んぼにも水が張られて、いよいよ田植えの始まり。
この時期になると、いつもどこかで草刈り機のエンジン音が聞こえている。
一緒に畑の作業も始まり、子供は農道で自転車と遊ぶ。


諏訪地方の学校には、春休みと秋休みがある。
昔は「お田植え休み」と「稲刈り休み」と呼ばれていて、子供達は重要な働き手だったのである。
田んぼが無くても、「お田植え休み」は友人や親せきに呼ばれて春の大イベントであった。

子供は田植えが終わると、オタマジャクシを捕まえて飼い始め、
後ろ足が生え始めた辺りから、遅くとも4本の足が生え揃うと田んぼに戻していた。


田植えは、別に子供だけのイベントではなく大人達も待ちわびていた。
親類縁者が集まり皆で仕事をした後は、酒宴が待っていた。


この時期の農道脇には、世界でもトップレベルの悪路走破能力を持ち、
とても頑丈で維持費も掛からない軽トラがいる。日本が生んだ傑作品の一つだ。
一般ユーザーにおもねる事もなく、使う側にとって何が重要か必要な部分に絞り込み、
あらゆる余剰な部分を捨てて、使用目的に特化したプロ用の道具である。


田植えも終わり、納屋を兼ねた掘っ立て小屋の前にある畑の作業も忙しくなる。


蓼科山山麓に続く田畑。
ここら辺の田畑に使われる水の元は八ヶ岳の伏流水。
ミネラルウォーターですな。


水を張った田んぼには、餌を求めて鷺がやってくるのは良く見掛ける。
その2羽の鷺と一緒に、鹿の群れが田んぼの中にいるのは初めて見た。
近づいた軽ワゴンと、その前方に飛び立つ鷺1羽と、
一斉に視線を向ける鹿の群れに取り残された1羽の鷺。






最終更新日  2020.07.12 13:50:35
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