金属節約の為に陶器で作られた軍隊用の統制食器/陸軍用の名古屋陶器と海軍用の深川製磁
日本軍は太平洋戦争がはじまると金属資源の節約の為に食器がアルミから陶器に変更されていった。いかにも頑丈そうで分厚い造りとはいえ、軽量で実用性に富んだアルマイト製に比べると所詮は焼物であり移動には不向きで重くて割れやすいというのは軍用としてはデメリットの方が遥かに多いように思うけど、国内で賄える資源が限られている以上どうしようもない。陸軍の統制食器は燃料と資源を管理する為に、地域と窯元が限定されていたようでそれぞれ食器の底に青い文字で表示がされていいる。例えば有田で作られたものは底に”有1”というように産地と窯元の番号が振られて、他にも岐阜の土岐であれば”岐〇〇”とか肥前の”肥〇〇、”瀬戸の”瀬〇〇”や波佐見の”波〇〇”など多数が確認されている。中には略号以外の生産された工場銘がそのまま表示されているものがあり、名古屋製陶所の”名陶”という文字の印が押されていたり今でも高級磁器で有名な深川製磁のロゴマークが付いていたりする。陸軍の器には五稜星とか五光星と呼ばれている星章が入っている。元は桜の花を裏から見たものを図案化したとか、五芒星には魔除けの意味があるとか。左の器で右上の部分は釉薬が切れて素地が出ている。裏側には名古屋製陶の”名陶”の文字が入っている。この窯元は1910年に帝国製陶所として出発し翌年には名古屋製陶所となり、昭和13年に鳴海工場を建設するとこれが後の鳴海製陶(株)/ナルミに繋がっていく。戦時中の名古屋製陶の状況は少し複雑で、昭和17年には軍需へ転換し昭和18年に鳴海工場を住友金属工業へ売却して、名古屋製陶は一旦解散したものの同年に名古屋製陶の山田工場で復活して、最後は昭和44年に解散している。一方、戦時中に於ける住友金属工業の鳴海工場の役割は航空機の空冷エンジン用のシリンダーを生産であり、戦後は扶桑金属工業(日本製鉄)の鳴海製陶所として民需の食器で出発している。という訳で、巷では”名陶”=ナルミ製と言われているけど実際には軍用食器が作られたのは名古屋製陶の山田工場というのが事実だろう。名古屋製陶は、元が洗面台とか衛生用品の陶器に関わっていたので、設備も含めて厚手の頑丈な陶器に関しての量産は得意だったと思われる。一方、桜に錨マークが入った海軍用は、艦体に衝撃を受けたり落として食器が割れるといざという時に厄介な危険物になるという事もあってか数が少ない。底には1894年創業で1900年のパリ万博で金牌を取った、高級陶磁器メーカーである深川製磁のロゴマークが入っている。家にも深川製磁が幾つかあり、独特の薄造りで高級感が漂う凛とした佇まいに惹かれるけど、戦時中にはこんなシンプルで味気ないものを作っていたのだ。とはいえ、どことなく洗面台を思わせる柔らかいラインを持つ名陶製に比べると、深川製は見込みから見ても凛としてピシッとしたところがある。既に日本は戦時中になると日用品のマッチや砂糖などが配給制となり、やがて外米が入って来なくなると食料の供給が更に難しくなっていった。特に昭和20年と昭和21年は大凶作で、ただでさえ不足していた米は輪を掛けて無くなり政府が管理していた配給米は遅配と欠配が相次ぐ有様だった。まだ海上封鎖が続き海外から何も輸入できない状況では、国の配給など全く当てにならなかったのだ。頑丈で機能的な軍用の統制食器も戦後には市中で流通していたようで、特に空襲で被害が大きかった都市部ではちゃんとした飯茶碗よりも重宝されていたのかもしれない。闇市では行列に並べば取り合えず何でも手に入るものの、身の回りの家財や着ているものを少しずつ売って工面をするタケノコ生活を強いられた挙句に米が手に入ればラッキーだった時代。他にも芋だとか大根が手に入れば御の字で、今まで捨てていたものや野草までが僅かな米と一緒に供されて時には薄い粥となり、時々は近所で摘んできた野草だけが盛られていた筈だ。明日、どうなるか分からない先行きの見えない中で、青いコバルトで五稜星とか桜に錨が描かれた頑丈な白い器は終戦後の色を無くした部屋で人と相対してちゃぶ台に置かれ、場合によっては軍隊で使われていた時から殆ど変わる事も無く明日も知れぬ諦めと僅かな希望との狭間で鈍く光っていたのである。