最初の家庭用の電灯は電力会社から借りていた10W1灯だった
1872年/明治5年に横浜の馬車道に10数基のガス灯が灯されたのが、日本のガス事業の最初であり、これが近代的な明かりの第一歩であった。翌月には100基、その翌月に240基、更に300基と増えて行くガス灯は、1基に一月3円55銭5厘(大体今の感覚で数万円レベル)だったのと、それ程明るくなかったために普及する事は無かった。それが1890年代の発光材を使って、5倍の明るさを実現するマントルが登場すると、全国各地で事業者が生み出される事になる。一方、家庭用の明かりは文明開化と同時に入ってきた石油ランプが主力で、殆どアメリカから輸入していた灯油の増大から国産化を試みて、アメリカの地質学者ライマン氏を招聘して日本各地を試掘。結果、1888年/明治21年になると、日本書紀にも登場して宮廷に献上された越の国の燃える水と縁がある、新潟で日本石油会社(今のJXTG)が設立される。これの石油事業は日本初の機械掘りで世界初の海洋掘削でもあったのだ。日本で電気による明かりが灯ったのは、1878年3月25日に工学大学校(現東大工学部)のアーク灯が初めてだった。翌年にはアメリカで日本の竹を使ったエジソン電球が作られて1881年には販売開始。その翌年になると日本初の電力会社の日本電燈による、会社設立と電灯の優位性を表すデモンストレーションで、銀座に2000燭光のアーク灯が出現して電灯の普及に一役買う事になった。日本電燈はその4年後に開業すると、東京の茅場町に石炭火力発電所を稼働。その後の18年で、全国に53もの電気事業者が生まれ、1891年/明治24年には日本初で世界で二番目の、商用水力発電所が京都市左京区に作られた。その頃の家庭用電灯は電力会社との使用灯数制で、10W電球一個を電力会社が貸し出していた。その値段は今の感覚で3~4万円というから、まだ一家庭に裸電灯が一個というのが当たり前だったのだ。従って、天井にぶら下がる電灯に繋がっている電線はやたらと長くて、必要な場所には引っ張りまわして使っていた。この時に1灯だけの灯数契約の家庭で大ヒットしたのが、大正時代に登場した松下電器の二股ソケットだった。更に、これの電灯の口金一つをコンセントに変更する、アタッチメント(アダプター)がアタチンの愛称で大ヒット。お蔭でアイロンやラジオの普及にも繋がっていくことになる。そして、これが今日のパナソニック家電の基礎になっているのだけど、そもそも二股ソケットの使用自体が契約違反であり、電力会社も見て見ぬふりをしていたらしい。電球自体は1878年にイギリスのJ.W.スワン氏により、金属フィラメントの電球が生み出されると、トーマス・エジソン氏が40時間点灯の電球で性能をアップさせていった。当時は輸入品で高価だった電球の国産化は、1881年に工部大学校を首席で卒業し、25歳での助教授に就任した藤岡市助氏により始まる。1884年に政府使節としてアメリカに派遣された藤岡氏は、エジソン氏の電球工場と研究所を訪れて既知を得て、電気製品自体の国内自給自足の重要性をアドバイスされた。その後、エジソン氏から贈られてきた電話と白熱電灯3ダースを元に、電球の国産化を目指す事になる。藤岡氏は1886年の東京電燈設立にも関り、教職を退くと東京電燈の技師長に就任。イギリスから電球製造設備を買い入れると試作を開始。1890年4月には、同じ岩国出身の三吉正一氏と共に、東芝の母体ともなった合資会社白熱舎を設立して33歳の時に独立。その後、社名を東京電気と変更。これが、後に芝浦電気と合併して東芝の基礎になる。当初、英・スワンの電球生産設備はあっても、原材料や薬品もなく手探り状態だったらしい。またスワン式の木綿の炭化物だったフィラメントが脆くて寿命が短く、エジソン電球の京都産の竹製フィラメントにヒント得て、地元岩国の仙石原の真竹からフィラメントを製造。1890年/明治23年8月12日には国産初の電球が完成する。試作開始から9か月という期間で完成した電球は12個で、寿命は2時間ほどだったらしい。それを改良しつつ年末から翌年初頭の生産は月産300個で、10燭光と16燭光が主力で当初は1個80銭だった。但し、まだ輸入品の方が50銭と割安だった。1892年/明治25年には電灯取り付け数が月に1万灯の祝典が開催されるも、月産3000個程度の上に割高だったので市中に出回るのは輸入品が殆どだった。やがて、8燭光、24燭光、32燭光、50燭光が作られるようになり、それは全て東京電燈に納入されたのだけど、明治30年代にはようやく輸入品と変わらない品質になっていく。1897年には需要増大を見込んで新式の電球製造設備をアメリカから輸入。三田工場に移転するも、1904年には在庫過剰で経営危機が訪れGEと提携。1911年にはマツダブランドのタングステン電球を発売して、ようやく安価で高寿命な電球が完成する。1927年/昭和2年のドイツ・AEGと東京電気/マツダの照明カタログ。世界的なAEGの照明器具は多種多様で家庭用から公共用とか映画に関わる製品が、外観や設置例の写真以外に配光特性図まで事細かく載ってる。一方、日本は地方の山間部にまで電灯が普及したのは1960年に入った頃らしい。昭和2年では、まだ一般家庭で電灯は高級品だった日本だけど、マツダのカタログを見ると未来の明かりに対する期待感が感じられる。灯数制だった頃は、複数のランプを灯す照明器具は金持ちのものだった。マツダの色付きガラスの電笠は今でも通用するのではないか。東京電機はやがて1939年/昭和14年に、芝浦電気と合併して現在の東芝に繋がる。戦後の東芝/マツダとトウキのパンフレット。マツダの方は年表から1952年で、トウキの方は1960~70年代と思われる。マツダのパンフレット。広げると内側には製造工程や同社の年表が詳しく書かれている。トウキのカタログには懐中電灯の豆電球から漁業用まであらゆる電球が載っている。この頃の普通の電球は、60Wが65円で大体1Wで1円位だったのが分かる。省エネとLEDの台頭で絶滅危機のタングステン電球。LEDとは明らかに違う光は豊富な赤外線によるものだろうか。東芝の傘マークの防振電球が好きで今でも一部現役で使用している。但し220V用とか調光で暗くしているのは、2燭光レベルの必要最小限の明るさで充分な場所なのと寿命を延ばす為。220V用は100Vだと電力は1/4以下(大体100Wが20W)になるので、タングステンよりも40倍長持ちがウリなのに、実質的には10年も怪しいLED電球より遥かに長持ちするようになる筈。一番左が東芝の傘マークロゴの耐震電球。隣の3つの2C電球で左の白いのがTOKI製2C電球の最終版。真ん中が白熱舎と繋がるマツダ製で右が古い東輝の製品。真ん丸な2C(2燭光/2キャンデラ)電球は常夜灯や便所の明かりだった。これがタングステンの7Wなので最初の頃の10W電球の明るさなんて、これと似たようなものだったと思われる。擦りガラスを通して見えるボヤッとしたフィラメントの輝きが好きだった。その内面の擦りガラスと明るさを稼ぐ二重コイルは東京電気の発明らしい。いずれもテスターでチェックすると導通があるので点灯する筈だけどお飾り。今でも白熱電球は新潟の藤原電機で東芝やトウキの代替品が作られているらしい。ある旅館では全館タングステンの明かりに拘っている所もあって、アメリカのアマゾンを見てもタングステン電球は健在。今時、一般家庭で点けっぱなしでは気が引けるけど、時々灯す程度の贅沢は許されても良いのではないか。