2020.06.13

ヤシカとカールツァイスとポルシェデザインが作り上げた名作ブランドの復活(コンタックスRTS/RTSⅡ<プラナー85mmf1.4>)

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1932年に、ドイツの名門ツァイスイコンから、
レンズ交換式レンジファインダー機のCONTAXが発表された。
やがて同じ名前で一眼レフに移行した最初のCONTAXは、
戦後間もない頃の1948年に、ストックホルムの見本市で登場している。
そのアイレベルで撮影が可能な革新的なカメラは、
旧東側で作られたドレスデン製のコンタックスSであった。


戦前のツァイスイコンでは、既にヒューバート・ネルヴィン氏により、
レンジファインダー・コンタックスの一眼レフ化は試みられていて、
ツァイスイコンではツィンタックスという名前で、1940年にはプロトタイプが完成していたらしい。
ただ、縦走りのシャッター機構では、キーデバイスのペンタプリズムを配置するのに無理があった。

戦後になると、東側ではツァイスイコンのカメラとは無関係だった、
ヴィルヘルム・ヴィンツェンバーク氏の元で、殆ど、白紙の状態から一眼レフの設計を開始する。
1946年になると、ペンタプリズムを搭載したシャッターが横走りの新しいカメラは完成。
ついに、その革新的な一眼レフカメラは、1949年にコンタックスSとして市販される事になった。
<ちなみに、コンタックスSの”S”は、シュピーゲルレフレックス(=鏡で反射/一眼レフの意)>

発売当時のアメリカでの価格は475ドルとかなり高価なものだったが、
1952年に登場のマイナーチェンジした、コンタックスDになると239ドルに下落している。

この価格について、1950年のドル/円レートは固定相場の360円だったので、
当時、アメリカでコンタックスSの価格は日本円で171,000円となる。
1949年における大卒国家公務員の給料は4,223円であったので、
今の感覚だと800万円位か。とてつもなく高価なカメラであった事が分かる。

その後、西側のツァイスイコンとの商標の問題で、コンタックスの名前は消えて行き、
1956年に人民公社に統合されてペンタコンFとなり、コンタックスの名前は途絶える事になる。

一方、戦後西側のツァイス・イコンの35mmカメラは、
ヒューバート・ネルヴィン氏による、1962年まで作られたコンタックスⅡaとⅢaに始まり、
エドガー・ザウアー氏により1960年頃登場した、コンタレックスを頂点として活動していたけど、
日本製のカメラに押されて、全てのカメラ製造から撤退したのは1971年だった。

やがて、西側のカールツァイスは日本と手を組み、諏訪の岡谷にあったヤシカから、
コンッタクスブランドのカメラが復活したのは1975年と意外に早かった。
そのシンボルとも言うべき、一眼レフのRTSはリアル・タイム・システムの略であり、
シャッターボタンがメカニカルな部分から切り離されて、単なる電気スイッチとなった電制カメラだ。

その外観はポルシェデザインによる、機能と人間工学を癒合させたもので、
殆ど黒一色で全体的に丸みを帯びた角の無いボディーに、
独特の四角いペンタプリズムカバーの下に刻まれた白いCONTAXの文字が、
名門ツァイスイコンに繋がる、新しい時代のシステムカメラを象徴するものとして刻まれている。


個人的に初めて新生コンタックスを購入したのは、1979年発売の139Quartz。
カメラ自体が、同級生も就職している地元の企業で作られているという事もあったけど、
やはり、お目当てはカールツァイスのレンズだった。

最初に手元にやってきたレンズは、プラナーの85mmf1.4。
そのデカくて重くて高価だったレンズは、いかにも良い写真が撮れそうで、
手にする度に、自分の写真まで良くなるんじゃないかという錯覚をしていたのである。

高価な85mmの元を取らんと、何とか使いこなそうと四苦八苦している内に、
またまた錯覚して、カメラも一番高い奴じゃなきゃダメだと勘違いして入手したのがRTSだった。

RTSは、流石にプラスチックでペカペカした139Qとは次元が違い、
手にして操作するだけでも流石に高級カメラそのものだ。
何より巻き上げ時の操作感と、布幕横走りのシャッター音の静かさに加えて、
ちゃんと金属を感じる手馴染みの良いボディーの中で、
機械が作動している時の音と感触は、プラスチックで出来たカメラとは全く異なるものだ。

これは良いカメラだと、以来散々こき使ってきて、
保護用に付けていた下だけのカメラケースは真っ白のボロボロになり、
ペンタプリズムは傷と凹みが入り、巻き戻しの軸なんかひん曲がっているけど、
RTSは他のコンタックス一眼と違い、真冬の霧ヶ峰でも写真の撮影を拒否する事は一度もなく、
巷で言うほどヤワなカメラではなかった。


RTSのプロジェクトは、ヤシカとカールツァイスとポルシェデザインによる、
3社による共同プロジェクトであったけど、
実際にイニシアチブを取っていたのはポルシェデザインだったらしい。

ポルシェデザインは、2003年にクルマのポルシェAGの子会社となる以前は、
1972年にシュツットガルトのクルマに関わる主要なポジションから、
ポルシェ一族が排除された時に、
戦前の国民車構想に始まるVWからポルシェ356の開発に関わった、
天才フェルディナンド・ポルシェ博士の孫という、
フェルディナンド・アレクサンダー・ポルシェ氏がデザイン会社を設立した事に始まる。

1974年には、オーストリアのツェルアムゼーに会社を移すけど、
RTSの仕事はポルシェデザインでも、割と初期に行われたプロジェクトだった。

未来に向けて気概と気合が充実したポルシェデザインの熱が、
間違いなくRTSにも投影されていて、機能と人間工学の追求で描かれたデザインは、
今日に至るまで全く古びる事は無く、
当時のF.A.ポルシェ氏の哲学や熱い思いを感じる事が出来る。


左にプラナー85mmf1.4を付けたRTSと、
右に後継機で1982年発売のRTSⅡを並べてみる。
大体、RTSは9万5千台、RTSⅡは4万5千台ほど作られたらしい。
どちらも、電池を入れて操作してみると、まだ使えそうな位シャンとしている。

もう30年以上手元にあるプラナー85mmf1.4は初期型で、
いわゆるプラナーらしいイメージの写真を作ろうと思うと、
個人的には、開放よりもf2.8位が一番良いと思う。

ワンショットカメラに付き物の巻き上げレバーの有無は、
被写体に向かう姿勢というか意気込みまで変えてしまう。


リバーサルフィルム専用機として使ったRTSは、
露出計とシャッタースピードも、後のクオーツ制御の139よりも安定していて、
電子カメラの弱点である寒さに関しても、単三4本の137MDよりも強かった。
露出に関していうと、時には他のカメラや単体露出計の矯正にも使う露光標準機だった。

最近、もう15年近く放置してあったRTSに電池が入っているのに気付いて、
測光ボタンを押したら露光のLEDが点灯。
ついでに、レバーを巻き上げてシャッタ―ボタンを押すと見事にシャッターが切れて、
まだ生きていることが分かって感動した。
同時に、2CR1/3という国産リチウム電池の性能にも驚いた。

最後にRTSⅢが出たけど、あのデカさとワンショットの手巻きでない部分が気に入らない。
35mmカメラにおいて、高級機と普及機の決定的な違いは、巻き上げる時の音と手触りである。
個人的には、その大事な巻き上げを、内蔵した電気モーターで行うカメラは、
幾ら高価であっても全て普及機でしかないと思っている。



プラナー85mmf1.4の作例(全て銀塩写真)

まるで影絵の様な、冬になり葉を落としてシルエットになった樹木。
この木は時々写真を撮っているけど、いつの時期でも題材になってくれる。


霜が降りて真っ白になった畑の向こうに色んな樹種の木が見える。
その向こうには雪で白くなった田んぼ。朝方で色温度が高いので独特の色合いが面白い。


もみ殻に霜がびっしり。最近は冬になっても草が茶色にならず頑張っている。


田んぼの脇に生えている1本のカラマツ。梢の先端に小鳥が居て、こちらを伺っている。
この木も色んな時期で、色んな角度で写真を撮らせてくれる大事なシンボルツリー。


カラマツとモミの木の向こうに、冬の八ヶ岳の阿弥陀岳が見える。


地元にある当時のヤシカの工場は、今でも京セラ岡谷工場となって存続しているけど、
カメラ撤退前の工場の上には、YASHICAとCONTAXの白い文字だけの看板が、
誇らしげに2つ並んでいたのを、いつも国道から眺めていたのを思い出す。

名門カールツァイスのレンズを使用するにあたり、
常に革新的で最上であった、カメラのトップブランドとして存在していたCONTAXが、
2005年に地元の岡谷で終焉を迎えた事は残念だけど、
それは銀塩写真の衰退とともに消え行くべきものだったと思う。





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最終更新日  2020.06.19 10:20:47
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