宇摩説の「大人の古事記講座」62 国生み 隠岐、
昨日で伊予の二名島(四国)を終えた。今日から、次に生んだ隠岐の島である。亦の名は、天忍許呂別(あまのおしころわけ)とある、通説は正によって、名義未詳とある。
何時も紹介している、やさしい古事記講座を読んでいて、隠岐は朝鮮半島からの国境の島であり、漁民・漂流民が多い地域であろう。ここに、天津神を配している。
つまり、戦後の異常な日本と違って、国境の島を重要視した高天原の意図も見える。やさしい古事記講座を読んで、抜けているので、ここで追加する。
やさしい古事記講座31 国生み9 隠岐、天忍許呂別
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/390985/
伊勢の二見が浦など、海中の柱のような島、神社の立石、これらは、高天原と国々の象徴であり、イザナギ・イザナミの象徴でもある。
イザナギ・ミの国固めの演芸は、全国各地で行われた舞台でもある。2髪の足跡ととも言えるだろうし、ここで誓約した記念碑でもある。
やさしい古事記講座では、香川仁尾町の神社の石柱を載せているが、これが原初の姿であり、後に御影石になったと考えれば、各地の神社にも存在していたと判る。
こんな所が、追加である。といっても、先の株の記事に時間が掛かり過ぎて、考える間がない。気づいたことだけ書いた。短いが、予定があるので、ここで終わる。
なお、毎回紹介している「やさしい古事記講座」はぜひ同時に読んでください。でないと、よくわからないで面白くないと思う。<*下にコピー>
<2012,2,10、大人の古事記講座、国生み、隠岐>
<* やさしい古事記講座31 コピー>
前回、天之御柱について、四国を象徴したと書いたが、先に、各地に残る天之御柱は、この劇の、舞台だったとも書いている。そして、天御柱の意味する島は、日本の象徴でもあった。
実は、神輿太鼓(太鼓台)の、飾り幕に、岩礁の絵が幾つも残る。御殿と岩礁、海女と岩礁、女神と岩礁、龍と岩礁などだ。太鼓台の所で書いたが、中国から見ると、日本は、「大海之中山島為国邑」と、倭人伝にある。
「山と島の国」だから、是を絵に描くと、「岩礁」に成る。だから、皇帝が卑弥呼に贈った錦には、「岩礁」の絵によって、日本を表している。岩礁で現された日本は、天之御柱と、一致する。
香川県仁尾町の神社で、二つの岩を、鳥居のように門の次に立てている。この鳥居状の立て岩は、各地の神社に在ったのではないか?そして、高天原の劇団が来ると、神社(穀倉)の前で、これを舞台にして、演じられたものだろう。
伊勢の二見が浦など、各地に残る浜辺の双子岩が、縄で結ばれているのも、高天原と、強い絆を示すのだろう。イザナギ・イザナミは、この高天原とする、大きな方の島を巡り、芝居を行った。
仁尾町の八幡神社(?)の立て岩の鳥居(現在は鳥居に変化)
このようにして、残された天之御柱に毎年訪れて、高天原と国々の絆を深めていたものだ。この一部が、各地の伝承地であり、芝居が各地の民俗芸能として、神楽などに残ったものだ。
だから、神楽を見れば、高天原が行った毎年の芝居の内容が判ると言う物だ。そして、古事記そのものも、神楽から、日本の古代を採集して、古事記の国生みや、神生みに、残したのである。
古事記の序文にある、「稗田の阿礼」とは、名前が、「日・枝・田、有れ」と、後に出てくる、天照大神の首飾りに示される、日の枝(各地に存在)の田の倉(後の神社)に、居た記憶の良い人、または、指導者をしていた人を、採用(アレ、現す)したのだ。
この時のアレは各地を廻って、異伝なども採用したものだ。これが、日本書記に生かされたと思われる。こうして、古事記は、神楽を中心に各地に残った芸能や、伝承等を纏めて、古事記が編纂された。
『古事記』は朝鮮半島より、200年も古く、歴史を纏めたのだから、朝鮮半島に漢字などを教わったといっても、文化の程度は、現在の経済発展が示すように、ずっと、上に居たのである。学者の「学んだ」解説は、何と間の抜けた思考であろう。
亦、前置きが長くなったので、次の隠岐島だけの解釈、解説にする。
古事記原文(隠岐・筑紫)
次生、隠岐之三子島、亦名、天忍許呂別(あまのおしころわけ)。
『古事記』の岩波文庫の解説は無い。角川文庫では、「隠岐は島前・島後を主とする四島からなっているが、航路上三島だけが見られることの反映」とあり、神の名は無視されている。
講談社学術文庫の解説は、「隠岐島は島前・島後に分かれているが、島前が三島からなつので「三つ子島」といったのである」と、似た解説だ。そして、「天忍許呂別(あまのおしころわけ)は、名義未詳」、とある。
前回、天は「あま、海・山」などを含む言葉だと説明し、高天原の中心に成った、「天族」だと言った。忍(オシ)は、「押し、推し、圧し、捺し」の意味である。許呂(コロ)は、自ずと、自然になどの意味がある。
この名から、天忍許呂別は、可も無く、不可も無い人物のようである。そして、天の血筋で、この島の指導者になったと言う、こんな名前である。この、「天忍」の名も幾つか在るが、余り活躍できた人物はいない。
天津神の「お坊ちゃん」として、自己の能力開発には、励まなかったのだろう。先に言ったように、国々では自分の得意とする技や知恵を日々磨いていた。そして、高天原の土俵で、その技術や知恵を披露していたから、後れを取ることになったのだ。
後にも、天忍の神は出てくるが、天(海)を頂くにしては、活躍する神は居ない。修業不足と言う事だろう。この神も欲も無く、人生は地方長官クラスで終わったものだろう。ここでも、実力主義だった古代社会が見えてくる。
古事記に行動が残されるのは、ずいぶん後の、「天忍穂耳神(あまのおしほみみノかみ)」で、天照大神の話になる。この神は天津神の血筋ではない。天忍の神は、天に押しかけた神、言い換えると、誓約に因って天津神と親子になった神のようだ。
どうも、国津神の子が、「誓約(うけい)」で、天津神の子になって、満足してしまったようだ。このために、自己修練をしなくなったものだろう。それにしても、「天」の神となって、地方の長官だから、大出世していることは間違いない。
天忍の神は、やっかみも含めて、「天に押しかけた神」とも言われたのだろう。もちろん、それなりの実力がないと、押しかけても相手にされない。天忍の立場は、国々から見れば、たいした出世である。高天原が、実力社会だった証でもある。
<以上>
* 今回追加で、各地の"アマの御柱"(神社の石碑も含む)は、その地域がイザナギ・イザナミの演芸説得によって高天原の元に参集した地域である。