出世して記録に残る・宰相の君
刀伊の入寇以降のドラマをあまりちゃんと見ていないみことです。さてさて、道綱の娘豊子は、「紫式部日記」の中では『宰相の君』として登場しています。「光る君へ」では、よく「源氏物語」の朗読を担当していましたね。 (C)NHK (C)NHK 道綱の娘(ということは、「蜻蛉日記」作者の孫)で、彰子のお産の時も産所に入れた2,3人の女房の1人であり、大納言の君を介添え役として、メインで産湯をつかわせ、その後その時生まれた後一条天皇の乳母の1人となって、従三位に叙されています。その為名前が残っています。『豊子』です。 (C)NHK彰子、妍子と同じなら、叙爵された時に付けられた名前でしょうか。彰子も小さい頃からの名前ではなく、入内が決まって従三位に除された時に付けられた名前だとされています。同様に、源頼朝の妻北条政子も、1218年に朝廷から従三位を授けられた時に付けられたので、鎌倉では政子と呼ばれていなかったかもしれません。まぁ、御台所とか尼御台とかだったしね。更に、豊子は典侍(ないしのすけ)にも任官されているので、後宮のトップの地位なので女官達を統率していたことになります。後一条天皇が即位された時、同僚の大納言の君は天皇付きとなったと聞いたことがあります。ですから、恐らく豊子も乳母なので天皇付きとなったと思われます。かなりしっかりした女性だったのでしょう。「紫式部日記」に最も頻繁にその名が出てくる豊子は、紫式部によれば、★衣装のセンスが良く、豊子本人もその自覚がある。★縫い物が得意。★中宮彰子の側にあまり人がいなかった時、斉信がやってきて話を始めた。豊子は中宮がいらっしゃるので、くだけすぎないように、でも如才なく斉信の相手を務め、式部を感心させた。★様子も仕草も気品があって美しく、上品で可愛らしい、物事に巧みである。と、褒め言葉だらけです。で、主に「栄花物語」の記録に依るのですが、豊子は実に様々な場面に出てきます。妍子が産んだ禎子内親王の裳着の時、豊子は髪上げを奉仕しています。儀式の時、当時女性は髪のてっぺんを結い上げて”まげ”を作りました。これはそれなりの女房に任された仕事で、豊子は度々高位の女性の髪上げ役を務めています。豊子は大変可愛らしい禎子内親王を見て、「このまま内の上(後一条天皇)とお並び申し上げたらひな遊びのようで、どんなに美しくていらっしゃることでしょう」と言って宮々(彰子、妍子)を笑わせています。この日、裳着を済ませた禎子内親王の豪華な部屋のしつらいは、屏風、几帳、から畳や手を洗う盥に至るまで、そっくりそのまま豊子に下げ渡されています。このことからも、皇室にとっても道長家にとってもかなり重要な女房であったことがわかります。詮子に仕え、次に彰子に仕えて、彰子の長男敦成・敦良両親王の乳母となり、後一条天皇崩御後は後朱雀天皇が止めるのも聞かずに出家しています。後朱雀天皇にも厚く信頼されていたことがわかります。禎子内親王の裳着よりちょっと下って、後一条天皇の時代、天皇の娘達(章子内親王・馨子内親王)を前に、「定子中宮の媄子内親王も大層お可愛らしかったが、それよりこちらの内親王様方の方がよりお可愛らしい」と言っています。この時、既に豊子は”美作(みまさか)の三位”と呼ばれています。これは、詮子が定子出生の媄子内親王を引き取って育てていて、そこに豊子が仕えていて、目にしていたのだろうという説が一般的です。たまたま詮子の元を訪ねた時に会ったというよりは、身近で見ていてお世話をしていたから、記憶によく残っていたのでしょう。出家後、豊子は後一条天皇中宮の威子に仕えていたようです。威子も天皇崩御後1年も経たずに亡くなっているので、その後はよくわかっていません。後一条天皇の内親王方に仕えたかもしれませんが、年齢的にもこの頃で引退したかもしれませんね。 いつもポチッと応援ありがとうございますにほんブログ村にほんブログ村