天皇家 男系男子の血
いきなり平安時代のお話です。道長の血を引く天皇のうち、後一条天皇、後冷泉天皇、後三条天皇についてです。後一条天皇には内親王が2人しか生まれなかったので、皇位は弟の後朱雀天皇に渡りました。そして、後冷泉天皇には子供が1人も生まれなかったので、異母弟である後三条天皇に皇位を譲りました。でも、実は後一条天皇には女子が1人、後冷泉天皇には男子が1人生まれていたようです。また、後三条天皇には白河天皇の他に男子が何人か生まれていますが、その他に男子を1人、臣下の猶子としています。いずれも后(中宮や皇后)や女御に生まれた子ではなく、身分が低い女房との間に生まれた子。「左経記」「日本略記」その他平安時代に男性によって書かれた、或いは公的な記録の多くをこの目で見ていないので、確かなことはここで書けませんが、やはり落とし胤というのはいつの時代にもあるもののようです。後一条天皇の娘はよくわかりません。ただ、女子が1人いたという話が見られます。 後冷泉天皇の息子は、早くに養子に出されたようです。ウィキペディアには、この皇子は康平2(1059)年に誕生し、女房の子であった為後冷泉天皇の乳母子である高階為家の養子となったと書いてあります。 また、後三条天皇は、やはり侍従内侍と呼ばれた女房に産ませた皇子を、藤原顕綱に”下賜”したそうです。ものではないぞ。これは、「二十一代集才子伝」という書物があるそうで、侍従内侍が身籠った段階で顕綱に下賜されたと書いてあるそうです。生まれた子は有佐と名付けられ、顕綱の子として成長します。ということは、侍従内侍ごと顕綱に下賜してしまったということでしょうか❓顕綱は、後三条天皇の母である禎子内親王の乳母(弁乳母)の息子ですから、禎子内親王の乳母子ということで、後三条天皇は自分の母の乳母子をかなり信頼していたのでしょう。後三条天皇には、白河天皇の他に実仁親王(早世)と輔仁親王もいますから、位が低い内侍との間の子は養子に出したと考えられます。 ただ、後三条天皇は藤原氏を母に持たない為頼通によって冷遇され、春宮に立っても頼通を憚って誰も娘を入内させませんでした。(春宮に入内させることは何て言うんだっけ❓)そこで、唯一禎子内親王の味方であった頼通の異母弟(高松腹)の能信が養女茂子を差し出しました。この茂子が生んだのが白河天皇ですが、大納言能信の養女とは言え、実の父親が中納言藤原公成だったので、女御にはならず滋野井の御息所と呼ばれました。一説には更衣でもなかったとか。そんな後三条天皇でも、女房との間の子は認知せずに家臣に下げ渡したとはね・・・・。あくまで身分がものを言う時代だったんですね。それは、後冷泉天皇にやっと生まれた、それも男子ですら養子に出されたことからもわかりますね。このように、天皇の男系男子の血は、思わぬ家に今も流れ続けているのかもしれませんね。因みに、この弁の乳母、顕綱は、「讃岐典侍日記」の作者である藤原長子のそれぞれ祖母、父です。いつもポチっと応援ありがとうございますにほんブログ村にほんブログ村