カテゴリ:光る君へ
「光る君へ」の記事を書いたのに、また消えた・・・消してしまった❓みこと
です💦 では、気持ちを変えて、式部と道長の仲について書こうと思います。 「紫式部日記」の中の、式部の局の扉を夜中に叩いたのは、まず道長に違い ないと思います。 去年の初めの方に、このブログには、妾であったと思う、ただ召人とまでは いかないくらいの仲で、そのうち立ち消えたようなものだったのではないか、 と書きました。 その後、「紫式部日記」や式部の歌集、「栄花物語」などを再度読むと、 判断がつかなくなってきました。 式部は小少将の君とお互いの局を開放して仲良く使っていて、それを 道長から、 「お互いが知らぬ間によい人を作っていたりしなさんな」 とからかわれています。 1つの部屋を、几帳だけの隔てで使っていたら、夜中に誰かがしのんで来 たら、すぐに相手にわかってしまいますね。 でも、よーく調べた人によると、道長らしき人物が式部の局の戸を叩いた のは、小少将の君が宿下がりをしていた時期だ、とも。そうなのかはわか りませんが、そうだとすると信憑性があるかも。 それでも、前に書いたように、一時的に召人状態になったというよりは、 1,2度、もしかしたら1度だけそういう関係になったことがあった、と いう方が合っているかもしれない。 とに角、当時の記録に紫式部が道長の妾であったと書いてある物が皆無な のです。 倫子、明子は別として、大納言の君、小少将の君、重光の娘(妾の中で唯一 道長の息子を産んだ女性)、四の君、五の御方の5人が道長の妾として某か の書物に見られます。でも、式部の名前は全然見当たらないのです。 身分もこの人達と比べると、結構落ちますから、道長も手を出す程でもな かったとも考えられます。 姉の大納言の君 (C)NHK 妹の小少将の君 (C)NHK 唯一、式部達の時代より100年後の鎌倉時代に編纂された「尊卑分脈」の 中の式部の名の横に、 「道長妾云々」 と書かれています。 でも、そもそも「尊卑分脈」には誤りが多く、「云々」という言葉も、 「だということだ」であって、確定していることではない、という意味。 つまり、当時は式部が道長と関係があるとは言われていなかったような のです。 道長は、若い頃はわかりませんが、兄道隆死去後、一気に出世しましたか ら、自分からめぼしい女性の元を訪れるというようなことはなかったので はないでしょうか。 それで、屋敷内にいる娘達付きの女房達に手を付けるしかなかったような のです。 それに、道長はそれまでと違い、娘達の侍女に高位の女性ばかりを選んで いましたから、それも道長の地位上丁度良かったかもしれません。 少々話は逸れますが、道長が糖尿病で糖尿病は性欲を減退させるから、道長 が式部と関係を持ったとは思えない、とする今井源衛説がありますが、 道長は48歳の時に重光娘との間に最後の子をもうけているので、この説は 崩れたかと。 まぁ、道長の体調が本格的に悪くなって、出家するのは54歳だけど。 いや、だから54歳より前なら他の召人や式部とも関係を持てたとも言えま すね。 で、局の戸を叩かれた話も、 「でも、私は開けませんでしたよ」 ということを残したかったのかもしれない、とも取れます。 夫宜孝死去後、言い寄ってきた男性もいましたが、式部は断っています。 道長は再婚相手ではありませんが、恋愛ごとで悩みたくなかったかもし れません。 ただ、戸を叩かれた話、道長が式部に送った和歌等をわざわざ記している ところを考えると、やはり1度くらいはあったのかな❓ 1度や2度のアバンチュールはよくあることでしょうから、彰子の女房に ちょっと手を出した・・・的なね。 学者さん達の間でも結論は出ていないから、私などではわかるはずもない のだけれど、結論は出ませんねー。 ![]() 『+act.』 2024年7月号 いつもポチッと応援ありがとうございます ![]() にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025.02.23 08:33:23
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