カテゴリ:光る君へ
これは、私も「光る君へ」以来色々見てきてわかったことなのですが、
彰子と妍子や途中からかなり仲が悪かったようです。 「栄花物語」ではありますが、彰子が2番目の子である敦良親王を身ご もって、お産の為に里に帰った時は、妍子は最初の子である敦成親王を とてもかわいがり、ずっと抱っこしていたので乳母達は助かった、と まで書かれています。 ですから、この頃は姉妹の仲も良かったようですね。 その後、妍子がまだ春宮であった三条帝に入侍した後から、段々微妙な 関係になっていったようです。 まず、妍子が派手なことが、彰子の目に余ったようです。 彰子は一条帝の時代を皇室の中から見知っていますから、過差の制(贅沢 禁止令)が度々出されていたことを知っていたでしょう。 また、特に華美な装いを好んだこともなかったようです。 それに比べて、妍子入侍時、既に 「この宮の女房達は、多くの袿を重ねるので華やかなのだろう」 と、書かれるように、袿の枚数が普通より多かったようです。 そして、道長も三条帝がそれを気に入った❓ようなので、妍子や女房達 には、多めの袿を着させたとも書いてあります。 ![]() ![]() (C)NHK 当然、こういった風潮はどんどん加速していくので、妍子の局は派手過ぎ るのが日常となります。 妍子が中宮となってからは、宴会を催すことが増え、それが度々となった ことで、彰子がある時中止を要請しました。 道長もその宴会は、三条天皇や娍子皇后に権威を見せつけるといった意味 もあったようなので、余計行いたかったようです。 この時、彰子と道長の間を 局取りやめとなっています。 彰子が反対した理由は、度々公卿達の持ち寄りでの宴会が続き、公卿達の 負担が大きくなっている、今は道長に遠慮して皆従っているが、将来は きっと非難されるに違いない、ということでした。 これを聞いた実資は、 「賢后ともうすべきなり。 感心、感心」 と日記に書いています。 ![]() https://www.monyo.site/ume-monyo/ その後も、妍子(の女房達)は袿を18~20枚も重ねて参加者を呆れさせ、 道長を激怒させ、関白頼通を叱り飛ばしています。 更に、三条帝の供養でも、世間が驚くほど豪華な仏事を催したり、疫病が 流行っているのに、頼通と共に大宴会を開いて実資を憤慨させています ここで、道長が激怒したというのは、疑問が残ります。 入侍時、妍子に華美な衣装を揃えていたのは、道長自身でしたから。 また、各種祭りの際、過差の制に構うな、と従者に言っているのを聞かれ ています。 元々派手好き道長、倫子夫婦に共通しています。 時代的にも、道長の時代は先例に則るのではなく、新しいものを取り入れ ようと、衣装も家具もどんどん新しい意匠で作られていました。 ![]() https://kimono-rentalier.jp/column/kimono/juunihitoe/ ![]() ![]() 裳に玉を縫い付けたり、中央には銀泥を使っていますね。 腰の部分には、金属を縫付けています。 右端に唐衣が写っていますが、これにも金属が縫い付けられています。 こういう意匠は、妍子より20~30年後、頼通の娘が入内した頃から流行り出し ました。 https://ameblo.jp/suzuran-ats/entry-12346123525.html そんな風だったので、妊娠中の妍子が彰子のいる邸宅を訪れた時、彰子は 予め用意していた贈り物を妍子に渡したのですが、妍子は用意がなかった ようで、その前に住まわせてもらっていた斉信から贈られた物を彰子に贈 ります。 翌日、それを知った彰子は、 「人が折角下さったものを」 と、妍子に返します。 すると、妍子は、 「お姉様が返されるなら、私もお返しするのが筋でしょう」 と、彰子からの物を返しています。 その時は、別に、妍子の髪飾りが派手過ぎるとの指摘が彰子からあり、母 の倫子が妍子の髪飾りを外したこともあり、中宮の立場にあった妍子がムッ としたのは間違いないでしょう。 それからは、道長が建立した法成寺(ほうじょうじ)を娘達が揃って訪ね た時や、妍子の娘の禎子内親王の裳着の式といった公式の集まり、また、 母倫子の60の祝いや一家三后では、彰子も妍子揃って祝っています。 ![]() 法成寺 模型(新詳日本史より) ここで道長は、阿弥陀如来の手と糸で繋がりながら亡くなりました。 どんだけ広いん❓ 道長の屋敷、土御門殿のすぐ東隣に建てられ、土御門殿より広かったのです。 でも、敦成親王が後一条帝として即位し、母と一緒に賀茂社に行幸した時、 行列を屋敷内から見物した妍子から彰子に、 「近くをお通りになったのに、お寄り頂けず残念でした」 という和歌を送り、彰子からは、 「月日を隔てて、遠くからでもお目にかかれたのは、加茂社への行幸の お陰でしょう」 という返歌を送ったと、「栄花物語」にはあります。 しかし、実はこの妍子の和歌は、斎院である選子内親王から彰子に送られ たものであり、それは「後拾遺集」に収められた2首の詞書きにもそうあり ますから、「栄花物語」は創作したものと思われます。 つまり、この頃、2人の仲はこうでも書かなければならない程、疎遠にな っていたようです。 禎子内親王に対しては、彰子もくす玉を贈ったり、裳着の折りも一条帝に 伝わる価値あるものを贈ったり、ずっと後に禎子内親王がお産をする時も、 両親を失っていたので、彰子が世話をしていたようです。 しかし、この和歌の他にも、妍子が体調を崩し、どんどん症状が悪くなり、 道長の建てた法成寺に移っても、出家してそこにいた彰子は見舞っていま せん。 「栄花物語」では、 「見舞いに行けないことを、彰子は遺憾に思っているが、身分の高い方達は どうにも仕方がない」 と、書いていますが、一度も見舞っていないとしたら、やはり2人の間は良好 ではなかったのかもしれません。 特に、彰子の同母妹のうち、威子、嬉子は彰子が入内後に生まれているので、 里帰り等で会ってはいたでしょうが、中宮様、皇太后様でもあり、その後は 威子も嬉子も彰子の息子の嫁になっているので、皇族になる前に同じ屋敷で 数年でも一緒に育った妍子とは、彰子との接し方が違っていたことでしょう。 ただ、彰子と嬉子の仲は非常に良かったことが記述が多く、遠慮がちでも なかったようです。 どちらも別々に住んでいたし、周りには女房達が沢山いますから、思わぬ 誤解もあったかもしれません。 今の時代のように、お互いが結婚しても気軽に会えるようならば、姉妹、て いつまでも仲が良いことが多いですから、彰子と妍子もこのようなことには ならなかったのでしょうね。 表だった喧嘩はなかったでしょうが、もし、本当に仲があまり良くなかった のなら、道長、倫子はもちろん、私達も切ないですね。 いつもポチッと応援ありがとうございます ![]() にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025.04.05 18:22:28
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