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障碍について書くには勇気が要ります。
ただ道長家はかなり近親婚を続けたので、障碍が出なかったのが不思議です。 けなしたり面白がる意図は全くないこと、奥さん方はわかって下さると信じて いるので書かせてもらいますね。 道長の(倫子腹の)長女彰子・次女妍子は従兄と結婚。 三女威子・四女嬉子は甥と結婚しました。 そして、孫の章子・馨子・禎子内親王も従兄弟婚ですが、その親同士がまた 従兄妹婚だったり叔母甥婚だったりするので、相当血は濃くなっています。 ![]() https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12875419943.html より ![]() レキショック https://www.youtube.com/watch?v=EUv426yygOs&t=4s より でも、そこにはハンディがある子は生まれませんでした。 というより、流産したり、生まれても子供は数日で亡くなっています。 後一条天皇皇女である馨子内親王は、3人の子を亡くしていて、何ともお気 の毒です。 当時も今と同じくらい障碍がある子供は生まれていたと思いますが、道長の 孫達にはそういう形では出なかったようです。 その代わりに、生まれても育つことがなかったのですね。 この頃、西洋では既に近親婚は禁じられていて、ローマ教皇の許可が出ない と結婚出来ませんでした。 ではどうしてハプスブルク家は近親婚を続けられたかというと、教皇を凌ぐ 力があったからです。 特に、スペインハプスブルク家は”青い血”を守る為に、従兄弟同士、伯父甥 同士の結婚をずーっと続けた結果、滅びてしまいました。 スペインハプスブルク家は見た目や精神に次第に異常を表していきましたが、 それが近親婚の所為と思わなかったのか、結婚相手はあくまで同じハプスブ ルク家に拘りました。 つまり、オーストリアハプスブルク家ね。 最後の王であるカルロス2世は、義理の兄がフランスブルボン家からお嫁さん をもらいましたが、カルロス2世は身体も非常に弱く、子供は残せない状態だ ったようです。 でも、当時子供が出来ないのは女性のせいにされ、ブルボン家から来た王妃 は精神を病んでしまいます。 ![]() カルロス2世 by クラウディオ・コエーリョ これを見ると、道長の子孫はハンディを持つギリギリ手前で近親婚をやめた、 ということでしょうか。 ただ、当時はハンディも物の怪に取り憑かれた、という考え方でしたが、その 物の怪に取り憑かれた人はまま見受けられます。 道長の周囲でも、やはりどちらを見ても藤原で、割と近い親戚との結婚が 続く為なのかな、結婚しなかったり、してもおかしな振る舞いをして、結局 夫が通わなくなってしまう例も見られます。 女性についての記述が多いですが、男性もいたはずで、道長の異腹の兄の 一人道義は(「大鏡」によれば兼家の4男)、 「治部少輔の君とて、世の痴れ者にて、交じらいもせでやみ給ひぬとぞ、 聞こえ侍りし」 とあります。 教通の次女である真子は小さい頃から知的障碍があったようです。 ![]() (C)NHK また、敦康親王の娘である嫄子女王の次女で、斎院を務めた禖子内親王は、 とても病弱で20歳で病気の為斎院を退下しています。 若いのに和歌を上手に読み、歌合を行ったり、新たな物語を女房達が作って 物語合わせを行ったりと華やかでしたが、退下後は病気に常に悩み、しまい には精神に異常を来してしまったので、頼通も自然に任せたということです。 この女の子は、斎院の母である嫄子女王です。 ![]() (C)NHK 最も有名と言ってはいけませんが、道隆の三女は、和泉式部の恋人となる 敦道親王がまだ若い頃、親王と結婚しました。 この三女(頼子)は、お客さんが来ると御簾を巻き上げて姿を現すだけでも 変わっていますが、なんと胸元をはだけて立っていたそうです。 夫である親王は真っ赤になり、客は立ち去るのも失礼に当たるしで、困って俯 して見ないようにするしかなかった、ということです。 また、男性貴族達が漢詩文を作る会を催していると、屏風の後ろから金を20 ~30両投げつけ、貴族達は下品なことをと憤慨したが、その場では取り合う ふりをしたそうです。 母貴子譲りで才覚があった為、漢詩文の善し悪しを大声で評すという、当時 女性はしないこともしたとか。 当然、夫婦は別れて、その後は一条渡りで落ちぶれて暮らしたと言います。 この女性は、常時おかしいと言い切れないところが、かえって難だったよう ですね。 「栄花物語」「大鏡」といった歴史物語も、「小右記」等の事実を記した日記 類でも、知的障害的な記述が見られ、敢えて書かなかったのかもしれませんが、 カルロス2世のような身体的なものはたまたま?見られません。 また、一説には「権記」の行成の長男に障碍があったのではないかということ です。 この息子はいつまでも薬助丸という名で記され、寺への寄進も親名義ではなく 薬助丸名義で度々なされ、結局社会に出ていないこと、その他の息子達の 名が後世に残っていることから、恐らく何らかの障碍があったのでは❓と 推察されるそうです。 ただ、行成はこの息子をとても愛していたようで、また後妻(行成の亡妻の妹) も、同じ気持ちで育てたようです。 貴族達の子弟は、ハンディがあっても周りに世話をする者がいますが、民間 では忙しいこともあって、なかなか大変だったかもしれません。 ただ、日本は1万年平和な縄文時代が続きましたが、遺跡から発掘された骨を 調べると、身体が不自由だったろうと思われる物もあるそうです。 しかし、そんな骨も当時の人達と同じような寿命を終えているので、家族や 集落の人達が差別をすることなく、助け合って暖かく暮らしていたことが わかるとか。 そんな日本ですから、現代ももっと理解を深め、政府ももっと助けて上げて 欲しいですね。 いつもポチッと応援ありがとうございます❤️ にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025.04.25 17:02:59
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