カテゴリ:光る君へ
久しぶりに平安時代の話など・・・
道長が定子が后にも関わらず娘の彰子も后としたので、一条朝は一帝二后と いう前代未聞の体制となりました。 それでも、これは定子が髪を切ったので出家と見られ、それでは宮中の神事は 行えないから、という理由で彰子が中宮となりました。 三条帝は、春宮時代からの妻であった娍子を后にしたいという私的理由での 一帝二后でした。 後一条帝は妻は威子一人でしたが、その後の後朱雀帝、後冷泉帝は、中宮と 皇后の后が2人います。 そして、後冷泉帝は、亡くなる直前に道長の倫子腹次男である教通の要望に より、彼の娘歓子を三人目の后にしています。 教通は、兄頼通の妨害にも負けず、やっと長女の生子を後朱雀帝に入内させま したが、どうしても立后させることが出来ませんでした。 後朱雀帝時代は、先に入内していた姸子の娘である禎子内親王が皇后に、後か ら入内した頼通の養女(敦康親王の娘)嫄子が中宮でした。 嫄子は24歳で亡くなりますが、その後も、後朱雀帝は(頼通が❓)生子を中宮 にすることはありませんでした。 我が子を后にしてやりたい親心からでしょうか、教通が後冷泉帝に必死に頼ん で、なんと後冷泉帝崩御2日前に歓子は皇后となりました。 この時、教通が関白になったことも大きかったでしょう。 なったその日くらいに三后を決めています。 これの一帝三后は、日本で唯一の例です。 後の時代に中宮、皇后が三人いたことはありますが、それは前の中宮が亡くなっ たので、新たに中宮を立てたという形なので、同時に三人の后がいたのは、この 後冷泉帝の時だけです。 たった2日こととはいえ・・・。 ![]() ![]() ![]() 皇太后 章子内親王 中宮 寛子 皇后 歓子 後冷泉帝の中宮は最初の妻である章子内親王、皇后は頼通の娘寛子だったのです が、章子中宮を皇太后に、寛子皇后を中宮に、そして歓子を皇后にしています。 この時上等門院彰子も内裏にいたので、恐らく彰子の了承もあっての一帝三后だ たとも考えられます。 後冷泉帝 後冷泉帝の乳母賢子 ![]() 南沙良さんのインスタグラムから 一帝三后になったのには、その他にも頼通・教通兄弟の確執も大きく関係しま した。 子供にほとんど恵まれなかった為、頼通は教通を危険視していました。 それどころか、結構嫌がらせをしています。 教通の娘が入内して皇子を産んだら、政権は教通に移ってしまうことが怖かっ たのでしょう。 頼通には生き残った息子はたった一人。 その息子が関白を継げないのは我慢がならなかったようです。 色々あって、結局政権は頼通の息子の家系に継がれていくのですが、頼通が 亡くなる頃は、教通の息子に行きそうだったので、頼通は落胆しつつ亡くな ったかもしれませんね。 やはり、兄弟仲は良いにこしたことはないな。 いつもポチっと応援ありがとうございます🪭 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025.06.03 11:52:53
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