Mimi’s Beauty Salon 裏版

2009/08/26(水)04:54

私的記録用:2001年 MJ オックスフォード大学スピーチ part3

マイケル・ジャクソン(12)

小さいころ、ブラックガールという名の犬を飼っていました。 オオカミとレトリーバーの混血です。 ブラックガールは番犬としての役目を果たさないばかりか、とても臆病で神経質で、大きな音を立てるトラックや、インディアナ州を通過する雷にもおびえていました。 妹のジャネットとわたしは、ブラックガールをとてもかわいがりましたが、前の飼い主によって奪われた信頼感を取り戻すことはついにできませんでした。 前の飼い主がブラックガールを虐待していたことを知っていましたが何をしたかはよくわかりません。 でも何をしていようと、それが原因でブラックガールが健やかな心を失ったのは確かです。 今日、多くの子どもたちは愛に飢えた子犬のようです。 そのような子どもたちは親のことを考えようとしません。 そのままにしておくと、独立心おう盛な子どもに育ちます。親元から離れ、去っていきます。 ひどい場合は、親に恨みや怒りを抱き、その結果、親は自分のまいた種で、自らの首を絞めることになるでしょう。 このような過ちは今日ここにいるだれにもおかして欲しくありません。 ですから、自分が愛されていないと感じても親を許すよう、世界中の子どもたちに呼びかけているのです。 今日ここにいる人からはじめましょう。 許してあげてください。 もう一度愛する方法を親たちに教えてあげてください。 わたしにはのんびりとした子ども時代がなかったと聞いて、驚く人はいないでしょう。 父とわたしとの間の重圧や緊張は、よく取り上げられます。 父は厳しい人で、小さいころから私たち兄弟がすばらしいアーティストになるよう強要しました。 父は愛情を示すのが苦手で、まともに愛していると言われたことは一度もありませんし、褒められたこともありません。ステージで成功をおさめても、まあまあだとしか言ってくれませんでした。 そしてまあまあのステージなら、父は何も言いませんでした。 父は何も増して、わたしたちが仕事上成功することを望んでいるように思われました。 その点における父の力はずば抜けたものでした。 父にはマネージメントの才能があり、そのおかげで、わたしたち兄弟はプロとして成功しました。 芸能人として訓練され、わたしは父の指導のもと、敷かれたレールから足を踏み外すことはできませんでした。 でもわたしが本当に欲しかったのは、「お父さん」です。自分を愛してくれる父親がほしかったんです。 父は愛情を示してくれたことがありませんでした。 目をまっすぐ見つめ好きだと言ってくれたことも、いっしょにゲームをしてくれたこともありませんでした。 肩車をしてくれたことも、まくら投げをして遊んだことも、水風船をぶつけあったこともありません。 でも、4歳のころ、小さなカーニバルで、父が私を抱き上げ、ポニーに乗せてくれたという記憶があります。 それはちょっとしたしぐさで、おそらく5分後には、父は忘れてしまったことでしょう。 しかし、その瞬間、わたしの心の特別な場所に、父への思いが焼き付けられました。子どもとはそんなもので、ちょっとした出来事がとても大きな意味をもつのです。 わたしにとっても、あの一瞬がすべてとなりました。たった一回の経験でしたが、父に対して、そしてこの世の中に対していい思いを抱いたのです。 自分自身が父親となり、ある日わたしは、我が子プリンスとパリスが大きくなった時、自分がどう思われたいと考えているのか、自問しました。 もちろん、自分の行くところにはいつも子どもたちを連れて行きたいし、何よりも子どもたちを優先していることを、わかってほしいと思います。 しかし、あの子たちの人生に困難がつきまとっているのも事実です。 パパラッチに追いかけられるので、公園や映画館にいつも一緒に行けるわけではありません。 あの子たちが大きくなって、わたしを恨んだら? わたしの選んだ道があの子たちにどんな影響を与えるのでしょう? どうして僕たちには普通の子ども時代がなかったの、と聞くでしょうか。 その時、子どもたちがいい方向に解釈してくれるといいと思います。 「あの特殊な状況の中で、父さんはできるだけのことをしてくれた。父さんは完璧ではなかったけど、温かで、まあまあで、ぼくたちを愛する努力をしてくれた」とあの子たちが心の中でつぶやいてくれるといいなと思うのです。 あの子たちが、あきらめざるを得なかったこと、 わたしのおかした過ち、 子育てを通じてこれからおかすだろう過ちを批判するのでなく、 いい面、つまりわたしがあの子たちのために喜んで犠牲を払ったことに、目を向けてくれればいいと思います。 わたしたちはみな人の子で、綿密な計画を立て、努力をしても、常に過ちをおかしてしまうものなのです。 それが人間なのです。 このことを考える時、つまり、どんなにわたしがあの子たちに厳しく評価されたくない、いたらない面を見逃してほしいかを考える時、わたしは父のことを思わずにいられません。 子どものころ、愛されたという実感はないけれど、父がわたしを愛してくれていたに違いないと認めざるを得ないのです。 父はわたしを愛し、わたしにはそれがわかっていた。愛情を示してくれたことは、ほとんどなかったけれど。 子どものころ、わたしは甘いものに目がありませんでした。 ―兄弟みんなそうでした。シロップに覆われたドーナツが大好物で、父はそのことを知っていました。 数週間に一度、朝1階に下りて行くと、紙袋に詰め込まれたドーナツがキッチンカウンターに置いてあったんです ―メモも説明もなく― ドーナツだけが置いてありました。 まるでサンタクロースみたいでした。 夜中まで起きていて、ドーナツが置かれるところをみようと思うこともありました。 でも、サンタクロースと同じように、二度とドーナツが置かれなくなることを恐れ、その魔法を大切にしようと思いました。 父はだれかに見られないように、夜中にこっそり置かなければなりませんでした。 父は自分の中の人間的な感情におびえ、それを理解できず、どうしていいかわからなかったのです。 しかし、ドーナツの件ではわかっていたようです。 心の防波堤の扉を開けたままにすると、わたしの心に様々な記憶が走馬灯のようによみがえってきます。 ちょっとしたことで完全ではありませんが、その記憶は ゛父ができることをしてくれた゛ ということです。 そこで今日これからは、父がしてくれなかったことに目を向けるのでなく、父がしてくれたこと、父の努力に目を向けようと思います。 そして、父を非難するのをやめようと思います。わたしは父が南部の貧しい家庭で育ったという事実に思いをはせるようになりました。 父は世界大恐慌の年に、この世に生を受けました。 わたしの祖父は家族を養うのに精いっぱいで、ほとんど愛情をしめすこともなく、子どもたちを厳しく育てました。 アメリカ南部で貧しい黒人が大人になっていくということが、みなさんにはどういうことか想像もつかないでしょう。 人間としての尊厳を奪われ、望みを失い、身分の低い者として見られる世の中で、一人前になるようもがくことなのです。 わたしはMTVで最初に歌った黒人アーティストです。当時でさえ、大きな出来事だったと記憶しています。それが80年代のことです。 父はインディアナ州に引っ越し、所帯をもち、たくさんの子どもたちに恵まれました。家族を養うため、製鋼所で長時間働きました。 それは、肺を痛めつけ、屈辱的な気持ちにさせるような仕事でした。 父が自分の感情をさらけだせなかったのも、無理もないことでした。 心をかたくなにし、壁でふさいだとしても何の不思議もありませんでした。 そして何よりも、自分が経験した屈辱的人生や貧困を子どもたちに味わわせないように、子どもたちが芸能人として成功するように強要したのも、当然のことでした。 父の厳しさはひとつの愛情の表れだった。完璧ではないけれど確かに愛だと、わたしは感じはじめるようになったのです。 父はわたしを愛しているから、強引に背を押したのです。 自分の血を分けた子どもたちが低く見られるのは嫌だったのです。 時とともに、苦痛は、感謝の気持ちへ変わっていきました。 怒りを感じていたところも、許せるようになってきました。復しゅうしたいと思っていたところも、折り合いをつけられるようになりました。 はじめに感じていた怒りは寛容さへとゆっくり変わっていきました。 part4へ

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