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03年11月のコラムに「養生訓」がある。
(注:これは本館http://iiki.desu.jp/にある) この「養生という生き方」はとても深い意味がある。 意味がある、というよりも本質かもしれない。 この世に生まれた本質そのもの。 死は必ず訪れる。 人間の致死率は100%。 それなのに何故「健康」が必要か? 生きている間に一所懸命・一生懸命生きればいい。 健康を目指さなくても、意味はある。 健康を目指しても、死は必ず訪れる。 こういう生き方もある。 だが・・・間違いだ。 ハッキリ断言できる。 これは・・・間違いなのだ。 「人の生き方は多種多様 どんな生き方も自由だ。 どんな生き方も間違いは無い」 これは精神世界の話なんだ。 正論かもしれないが、この世では間違いだ。 舞台の上で本名を名乗るのは間違いなのだ。 この世は仮の世界。 有限の世界は仮の世界だからだ。 仮の世界では、仮の法が適用される。 「生きている」という条件があるから、 その条件を主体とした法則がある。 仮の世界だろうがホントの世界だろうが、 ここに存在する間は、ここが世界だ。 そして、どんな世界にも必ず「法則」がある。 ここでは「生きている事」あるいは 「生かされている事」が事実の世界。 「生命を観る」と 「生命」は生きたがっている。 生きる事、生き続ける事が中心にある。 生きる事、そのものが生命の意味であり、 その他に「生きる事の意味」を付けるのは、 「傲慢」というものだ。 人間は傲慢という癖がある (ワシなんて傲慢が趣味でもある) 「傲慢」は道を外れる運命を負っている。 「傲慢」で道を外れぬ事は無い。 (ということは・・・ ワシは外れっぱなしの人生だな・・・) ところが人間には理屈があり、感情がある。 傲慢の大義名分が立派だと傲慢に見えない。 立派だと感動もあり、意味も付けられる。 「生きている事」よりも立派な意味に思える。 「立派な事」が価値が有ると思ったりする。 「生きている」だけじゃ、価値が無いように思える。 立派だろうが、人類の為だろうが傲慢は傲慢。 価値があろうが無かろうが、それは別次元の話。 「生きている世界」では「生きている事」が 基礎であり、土台であり、全てである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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