裁判員制度と報道規制
毎日朝刊から。最高裁の参事官(エライ地位にある人)が某所で裁判員制度に関する講演を行い、制度導入後の報道のあり方について懸念を示したと。いわく、「容疑者が自白したとか、その弁解が合理的でないとか、識者のコメントとかを報道するのは、裁判員となるべき一般国民に対してその事件と容疑者に対する予断(偏見)を生むことになるのではないか」と言ったらしい。私自身は、当ブログでも折に触れ話してきましたように裁判員制度には疑念を感じているので、ほら、無理な制度を導入するから、何だかおかしなことになってきたじゃないか、という思いです。たしかに、証拠に基づいて明らかにされた事実と、新聞や週刊誌で報道された事実が異なることはザラにあると思う。報道された事実をうのみにして、刑事弁護を行う弁護士を批判するのも的外れです。しかしそれでも、報道機関が自身の取材に基づいてその思うところに沿って報道すること自体は、表現の自由(憲法第21条)を持ち出すまでもなく、決して妨げられてはならないし、そんなことが行われるともっとやっかいな世の中になるでしょう。最高裁のエライ人は、報道規制をせよと言っているのではなくて、あくまで「懸念を示した」だけではあります。裁判官は報道に左右されることなく、証拠に基づいた事実を認定できるよう訓練されているが、一般国民はそうではない。報道された事実が真実だと信じ込むおそれがある。だから、容疑者が容疑事実を認めているとか、その言ってる弁解が不合理だとかいう報道がされれば、それを読んだ裁判員は「コイツが犯人だ」と思い込んで裁判に臨むことになる、ということを懸念しているのです。何と言いますか、裁判員制度は、裁判というものに一般国民の常識や感覚を盛り込もうというタテマエで始められたはずです。しかしそれを受け入れる現場の裁判官としては、国民はバカだから報道に左右されやすい、国民と一緒に裁判をするのなら報道規制を行わないとダメだ、と肌で感じているのでしょう。裁判員制度が、「国民の良識を司法に取り入れる」という美名の下に何だかよく分からないまま導入されてしまったように、気をつけていないと、「国民の良識がタチの悪い報道でゆがめられてしまうのを防ぐ」という名目で報道規制がされてしまいかねないですよ。おそろしい話です。と懸念を示しておきます。