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カテゴリ:法律、制度
前回の続き。
心神喪失者や心神耗弱者でも刑罰を科すべきだ、という見解について。 これは感情論としてはとても分かりやすいですが、冷静に検討すれば妥当ではないと考えます。それを以下敷衍します。 まず、犯人に刑罰を加える根拠としては、刑法の教科書などを読むと、以下のものが挙げられています。 1.刑罰によって犯人を矯正する。 2.犯罪を行うと刑罰を食らうことを世間一般に分からせて、犯罪を抑止する。 3.犯罪に対する報復。 近代的な刑法を持つ国家なら共通してこう考えているはずで、一般的にもわかりやすい話だと思います。 さて、心神喪失により善悪の判断ができず行動を制御できない人に刑罰を食らわせて、上記3つの目的が果たされるか。 1はダメでしょう。善悪が分からない人に「矯正」(=善くなること)はありえないし、行動が制御できないから矯正されたことに従って行動することもできない。 2もダメです。心神喪失であっても犯罪として処罰することにしたとしても、心神喪失者の犯行を抑止することはできません。それらの人は、罰せられることが分かっていたとしても「行動が制御できない」わけですから。 となると、心神喪失者を処罰する意味は、3の報復のみということになります。 すると、報復だけを刑罰の根拠にすることが許されるかという理論上の問題はさておいても、実際上も問題が生じます。 つまり、報復というのは、犯罪被害者、殺人事件の場合であれば遺族に代わって、国家が死刑などの処罰を行うことです。そして、報復だけが刑罰の根拠であれば、遺族が報復を願ったときだけ刑罰が科せられ、報復は結構ですというと刑罰は科せられない。 かくて、殺人事件の犯人を死刑にするか否かは、遺族の意思のみによって判断されることになる。これは却って遺族に酷でしょう。 「遺族の意思じゃなく、世間一般の意思で決めろ」という声もありそうですが、すると、「世間一般」とは具体的に誰であり、その「意思」をどうやって判定するかと考えると、現実的には判定不能でしょう。 だから、報復だけを刑罰の根拠にすると、どうしてもおかしなことになる。 ということで、心神喪失者に刑罰を科すことは、冷静に検討してみれば妥当でないというのが私の考えです。 もう少し続く予定です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/03/02 07:48:45 AM
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